【-目を覚まさないのならば-】
*
病室で雅はジッとディルを見つめる。しかし、ディルの瞳には雅は映っていない。ただずっと虚空を眺め続けている。
「いつまで、そうしているつもりなの?」
雅は声を押し殺しながら問う。
「いつまで、そうやって、ただどこかを眺め続けているつもり、なの?」
拳を作り、体を震えさせ、怒りなのか悲しみなのか分からない感情を抑え込む。
「私の知っている、私が、知っているディルは……こんな風なんかじゃ、無い。だから、私の知っているディルに早く……戻って、よ」
脱力し、雅は近くにあったパイプ椅子に項垂れながら腰を降ろす。そんな様を見ていたリィが少しだけ雰囲気を読み取ったのか、なにも言わずに病室から出て行く。数分もすれば戻って来るだろうと思い、雅はそれを見届けた。現状、この病院内ならば海魔に襲撃されることもない。ギリィであることがバレない限り、リィに危険が及ぶこともない。それはここに来て、三日も経っているからこその安心感であるのだが、こんなものは討伐者には必要の無い感情のはずだ。
海魔を狩る討伐者はいつだって危険と隣り合わせ。一瞬の気の迷いが死を招く。そんな世界に生きる雅たちにとって、“安心”など感じては良いものだがいつまでも味わっていて良いものではない。危険に緩慢になる。本能も、感覚も、曖昧になってしまう。
でも、このままの方が良いのかも知れない。
雅はベッドに横たわっているディルを見つめながら、不意にそんなことを思ってしまう。
こうして、ずっと、雅が、ディルが、リィが、海魔の襲撃に遭い、或いは天寿を全うするそのときまでずっと、緩やかに穏やかに変哲も無い、普遍的で不変的な非日常ではない日常を送ること。ディルがディルらしくないことは受け入れ難いことだが、少なくともここに居続ければ、彼と共に死ねるだろう。
ディルが死ねば、自分も死ねるだろう。死に様を、見届けることができるだろう。
考え続けて来た。
ずっとずっと雅は考え続けて来た。
楓のように、ケッパーを喪っても自殺せず、他人のせいにしてでも生き残れるか。
葵のように、リコリスの制止を振り切ってでも、自らの覚悟を貫き通せるか。
そして、誠のように、ナスタチウムとアジュールの死に様をその目で見なければならない現実に直面したとき、自分はどのような行動に出るだろうか。誠はあの場で、その後どうしただろうか、と。
考えて考えて考えて、至った。
ディルが目の前で、或いはどこかで死んでしまったら、自分も死のう。
そんな結論に至ったのだ。
究極の愛ではない。敬慕が恋慕に変わっただけの、ただの片思い。そして究極の片思いですらない。言うなればこれは、偏愛とも言えない偏った恋だ。
ディルはそのようなことは望んでいないだろう。けれど、自分がディルの居ない世界を創造できないのだ。罵倒され、貶され、ボコボコにされ、それでも必死に足掻き、もがき、付いて歩いたその道のりの先にあったのは、そんなどうしようもない心の終着点だった。
雅は心とは真剣に向き合って来たつもりだ。相手に『偽善』を突き付けても、己自身に偽りの感情を向けたことは一度切りとして無いはずだ。
自分勝手と人は言うだろう。しかし、自分本位でなければ今、こうして雅は生きてはいないのだ。
だから、その心が終着点に達したのであれば、雅はそれに逆らわない。自らの心が決めたことに、反論してもどうにもならない。どれだけ否定しても、どれだけ拒んでも、心がそうだと告げているのなら、体は勝手に実行に移す。
命と精神と心。三つがあって人間なのだ。理性と本能が二つあって人間と捉えることもできるが、仮に精神を理性、心を本能としても、命が無ければ人間では無い。だから雅にとっては、三つ揃って初めて人間である。
しかしながらその優先順位は恐るべきことに、時と場合によって目まぐるしく入れ替わる。命を尊ぶ者も居れば、精神を大切にと言う者も居る。心あってこそと説く者も居る。しかしながら、こういった者たちも立場が変われば説いたことを簡単に翻す。そのことを『偽善』で生き抜いて来た雅はよく知っている。
ならば、それをよく知っている上での雅の命令の優先順位は今、どうなっているのか。簡単な話だ。心が訴えている。そうしろと命じている。それが現在、頂点に君臨していて、雅を動かしている。彼女という存在を形成している。
だからこそ、頭の中で等式が出来上がってしまっている。それがあまりにも非常識であっても、雅には異常と感じることができない。
「このまま、ずっと、話せないまま死ぬ、くらいなら……」
そんなディルを見続けるのは嫌だ。雅は短剣を抜く。手は震えているが、握る力は強い。やめた方が良い。そんな風に、右手が左手から短剣を引き剥がそうとする。しかし、どれだけ右手が左手の指を一つずつ開いて行こうとしても、全くもって指を短剣の柄から外すことができない。
こんなことは間違っている。そう、間違っている。なのに、理性が働かない。分かっていてもこの行為を止めることができない。
「う……く、う、うっ、うぁ、あ……」
呻くような声が漏れる。精神が拒絶している。なのに体は機械のように動く。恐るべき離人感である。理性の利かない体を、自分が見下ろしている。そして、その見つめている自分は諦めている。どれだけその行為を止めようとしても無駄だと、どれだけ足掻いてもこの行為は止められないと、決め付けている。
だからただ見ている。雪雛 雅は雪雛 雅のやろうとしていることを、見つめ続けている。
「なにを、しようとしているの!!」
見下ろしていた自分が掻き消えて、雪雛 雅の理性が息を吹き返す。瞬間、彼女に鳴がぶつかって来て、そのまま床に押さえ込まれる。
「ちが、うの」
「なにが、違うの!?」
「こんなことが、したいわけじゃ、無いの」
「ならどうして、ディルに短剣を向けていたの!?」
「ディルがずっとこのままなのは嫌だから!!」
雅は鳴に向かって泣き叫ぶ。
「こんなのディルじゃない。こんな風に病室でボーッとしているのなんて、ディルらしくない! ディルなら……ディルなら!! 私の短剣を避けて、逆に蹴り返すぐらいしてくれるはず!!」
「もし、そうならなかったら?」
「そうならなかったら……」
「そうならない方が、良かった。違う?」
「な、なに、言ってる、の。そうならない方が良い、なんて思ったりなんか、して、ない」
視線を泳がせながら雅は必死に弁明する。
「雅の鼓動の音がいつもと違う。嘘を、ついている。ディルに短剣を突き刺して、それで殺せた方が良かった、と思って、いる」
「私がそんなこと思うわけない!」
「また心臓の音が強くなった。嘘をつくときの、音。雅……嘘は、やめて。私に嘘は、つかないで」
鳴は雅を睨みつつも、しかしどこか物憂げな表情を見せる。
「嘘つきと一緒には、居られないから」
「御免」
素直に謝れたのは、雅もまた“嘘つきとは一緒に居たくない”からだ。討伐者になってから色々なところで騙され掛けた。食べ物を、水を奪われそうになった。そのせいで雅の疑心暗鬼は加速していたのだが、ディルと旅をするようになってからは、少しずつ和らいでいた。
しかし、疑り深い性格というものは決して捨ててはならないのだ。この先、なにがあっても疑い続ける人生を送らなければならない。生き残るためには騙されるのではなく騙す側に立つべきであり、『偽善』を振る舞い続けるしかないのだ。利用されるのではなく利用する。
ディルだってそうだ。今、ベッドで虚空を見つめている男は雅を散々、利用して来た。雅だけではなく、葵も、楓も、誠や鳴でさえも利用したのだ。
でなければ二十年前の生き残りが五人揃うわけがないのだ。雅を基点として、人との繋がりを作り、雅の行く先を心配させることでジギタリスの元に集結するように仕向けた。
それはディルが雅の持ち得る、人を惹き付けるなにかを一目で見抜いたから、なのかも知れない。しかし、雅がジギタリスと相対したのはリィが捕らえられていたからだ。だとすれば、リィから繋がる人の輪こそが、ディルの描きたかった理想だったのだろうか。雅はリィのために動き、葵、楓、誠は雅のために動いた。
だとすれば、惹き付けるなにかを持っているのはリィと雅となる。それはカリスマ性を持つジギタリスとはまた違う、別個のなにか。それが分かれば雅も、掴むことができるような気がしてならない。
ここのところ、落ち着かないのだ。変わり果てたディルの姿を見てから、体の内側が暴れている。目覚めた変質の力が、ひょっとすると疼いているのかも知れない。“喪失”がデュオやトリオ、カルテットにクインテットへと至る道だと雅は知った。実際、葵は友人の死を知らされることで『水』だけでなく『氷』の力も使えるようになり、楓はケッパーの死を体感したことで極致の力を行使した。そうなると、リコリスのように“体”を“喪失”させたことで、もしも葵が生きている――残留思念を遺しているのならば、また違った力を発露させている場合があり、誠も生きているのならば、ナスタチウムとアジュールの死を間近で見たことで、想像を絶する力を得たかも知れない。
本来、“喪失”によって得た力は、体に強い負荷を掛けるため、長生きすることはできないらしい。だから楓はケッパーの手によって溢れ出る変質の力によって彼女の器が壊れないように眠りに落とされた。葵は氷塊の中に消えた。誠は、『竜眼』を継ぐことで人より一つ上の存在となっている。
これは上手く行き過ぎた話だ。ケッパーはまるで楓が変質の力を“昇華”させた際に、すぐに死なないように出会った当初から眠りの棘を仕込んでいたようにも思えてしまうし、葵の“体”を“喪失”させる判断をリコリスが良しとしたのも、ともかくは長く生きられるからのように思えてしまう。こうなって来ると、誠の『竜眼』の継承も、ナスタチウムがジギタリスに命じられて選定の街を監視するようになってから、考えていたのではと勘繰ってしまう。
ならば、鳴や雅は?
ジギタリスは鳴になにかをもう仕込んでいるかも知れない。そして、彼と同等かそれ以上に頭の切れるディルもまた、雅が気付かない内に、仕込んだのかも知れない。
恋慕がそうだとは言い切れない。雅はディルに、鳴はジギタリスに好意を示してはいるが、そんな甘いもので“喪失”も“昇華”も起こらないだろう。現にケッパーやリコリス、ナスタチウムは死んでいる。こんな判断を二十年前の生き残りが下したのだから、ジギタリスやディルも今後、死ぬ道を選ぶだろうと鳴だけでなく、雅ですら分かっている。そしてジギタリスは自分自身が囮になると言い出した。これは死へ向かおうとしていること以外に他ならない。
そのように、死ぬのではと勘繰っている場合、“喪失”は起こるのだろうか。
起こらないだろう。
雅はディルを殺そうとした。自身の手で、殺そうとした。なのに、変質に力に全く変化は無かった。むしろそのときの変質の力は穏やかだった。『風』の力で殺すことだってできたはずなのに、一切、雅の周囲一帯に力の暴走と見られるような変化は無かったのだ。
だったら、ディルはなにを企んでいるのか。
ひょっとしたらこの変貌も、この男の一つの手段なのではないか。そんなありもしない幻想に囚われる。もう元通りになるか分からないのに、それでもひょっとしたらと願ってしまう。
雅はよく知っている。妄想したことは現実にはなり得ない。御伽噺は御伽噺で完結する。幻想は幻想の域を出ない。想像した時点で、そんなことが現実になることは限りなく低くなる。
だから希望を捨てたのだろうか。だからディルを殺そうなどという決断を下してしまったのだろうか。
もう雅には、自分自身が分からなくなっていた。




