【-男は悪魔より悪魔らしく-】
「それで、カバーというぐらいだから君が得意としているのは、やっぱり?」
「予想通りですよ、クソ人間。なにやら思案しているようですが、その時間こそが命取りだったです」
少女が分かりやすいほどに勝ち誇るので、男は剣でまず右を、そして左を叩き、続いて翻って後ろを叩く。その全ての剣戟は空振りには終わらず、音圧の壁に弾かれる。大音量が耳に飛び込むが、どうやら壁としての力を強めている分、発せられる音そのものはまだ小さい方であるらしく、鼓膜や三半規管に影響を及ぼすほどのものではない。
「左右、そして後方。最後に前方を閉じました。私の壁は、私の盾は強固です。そう簡単には破れません」
つまり、男は目に見えない音圧の壁に全方向を塞がれてしまっているらしい。ならば上を飛び越えれば良いとも考えたが、この少女が――カバーという人格が、強固と謳う音圧の壁にわざわざ抜け穴を用意しているとは思えない。わざと上が空いている風に言ったのは、そこに飛び込み、音圧の壁で弾かれて地面に這い蹲る男を見たいが故のことだろう。
男は前方を剣で叩く。やはり音圧の壁で弾かれた。少女の言うことは真実であることを確かめることができた。
「どうかしましたですか?」
「いいや? 君っていう人格は、思ったよりも優しいな、って」
男は剣の先端を床に突き立てる。
「君の、視線集中型の変質がどれほどのものか、試させてもらおうか。使い手として成熟しているなら、気絶しても変質されたものは維持される。変質が解けるのは死んだときだけだ。なにせ、使い手は残留思念が残っていても変質は可能なんだからね。変質させた中に、君の強い意思が込められていれば、それは維持される。でも、少しも感情を込めていないなら、強固では無い。ただの脆く、崩れやすい防壁でしかない。ああ、優しいと言った理由かい? 床だけは干渉せずに残しておいてくれたことに対する感想さ」
「は、い……っ!?」
床に突き立てられた剣の切っ先――ひび割れた床から炎が噴き出し、そしてそれは渦を巻いて男の体を一周すると、蛇のようにうねり、ひび割れた床の中へと飛び込んで行く。
「今、僕が触れているのは剣と、そして空気だ。剣は穴を空けるために使った。そしてあとは、空気に変質を与え続けることで炎を生み出し続ける。さて、ひび割れた床はどこまで続いている?」
男は軽く剣を突き立てた――ように見せ掛けた。実際には片腕に込められる力のほとんどでもって剣を床に突き立てた。ひび割れは足元から続いて、少女より数メートル手前までしか続いていない。
しかし、ひび割れという隙間があるのなら、男の『火』はそこを駆け抜ける。そしてこのひび割れは、少女が作り出した音圧の壁を床から通り抜けている。
左右、後方を叩いて、そのあとに「前方を塞いだ」と言っているのにも関わらず、意味も無く前方に剣戟を繰り出しはしない。ただその一撃で、音圧の壁がどの辺りにあるのかを把握したかった。そしてひび割れから炎を送り込むことで、壁そのものの厚さについても確かめたかったのだが、音圧の壁の向こうで男が変質させた『火』が踊っている時点で、その厚さは予想よりもはるかに薄かったらしい。
「ひ、卑怯ですですよ! 変質の力を使うなんて!」
「僕は一度も使わないとは言っていないよ?」
床から噴き出す業火を男は腕の動きでコントロールし、今にも少女を飲もうとする。
「こ、このっ!」
少女が両手を前方に突き出す。音圧の壁が炎を遮った。
「君は勘違いしている。前面だけじゃ、炎は防げない。酸素さえあれば、そして隙間さえあれば炎はどこにだって行ける」
音圧の――不可視の壁を舐めるように業火は蠢き、少女へと再度、襲来する。
「……ったく、これだから馬鹿どもの面倒を見るのは嫌なんだよ!」
少女の言葉は荒々しくなり、そして動きも変わった。少女を呑むはずだった業火から逃げるように動き、そして壁に貼り付けてある剣を手に取り、力任せに業火を断ち切る。
本来であれば、火は切断できない。分かつことができても、再び繋がる。しかし、少女の振るった剣には『音』の力が込められていたらしく、縦に業火が切られた瞬間から、繋がりを断絶されてしまっているらしい。
「人格が変わったのかい? 僕を囲っていた壁は解けたようだけど」
「カバーが張った音圧の壁だ。俺様が出たんなら、音の性質が変わって解けちまったんだろう」
「音の性質?」
「はっ、音はなんでもかんでも波長にすると荒々しく、刺々しいと思ったら大間違いだ。言うなれば、俺様たちは、波長の違いから生じたノイズみたいなものだ。ヒエログリフは無音に近い小さな波、マジョラムは滑らかな低音の波、カバーは強く波打つ高音の波」
少女は剣の先端を床に擦らせながら駆け出す。
「そして俺様は、甲高く刺々しく、そして荒々しい波長だ」
素早い切り上げ。少女の言う、ヒエログリフの刀による斬撃よりも明らかに振りが速い。男はその速度に驚きつつも、悠々と避ける。
「なら、君がストラトスか」
「ヒエログリフが言っていたんだろ? そこからすぐに察せられるなんて、頭が良いってのは本当らしいなぁ」
男は少女――ストラトスの剣戟に合わせて、自身の剣を振るう。しかし、一撃一撃が少女のものとは思えないほどに重く、そして荒く、速度を持ち合わせている。ヒエログリフを相手にするときよりも冷静に、そして適切な判断で剣戟を防いで行かなければならない。
「あと、これも言っていたよなぁ! 俺様は加減を知らないってさぁ!!」
下がりながら剣戟を受ける男は背中に違和感を覚えた。そして突如として、体が前方に押し出された。背後から、なにかで押されたかの如く――いや、確かに押されたのだ。ストラトスが剣戟の合間に男の背後に用意した音圧の壁というものに。
前に傾ぐ体に、ストラトスは狂気にも近しい表情で男に剣を振るう。狙われているのは首だった。まさに倒れ込もうとしている男を斬首しようとするその粗暴で、貪欲なまでの殺意に男は冷ややかに笑ってみせると、足に力を込めてストラトスの体へと跳び付いた。少女は男を跳ね除けようとするが、男はそのまま組み伏せようと力を込め、それらの力が合わさって互いに床を激しく転がる。
七度ほど転がったところで、男がストラトスから離れ、そしてストラトスは自身の体に加重を感じなくなった途端にしなやかに跳ね起きた。
「『火』は使わねぇのか?」
「今のところ、カバーよりは追い詰められていないからね」
「安い挑発も良いところじゃねぇか。良いよ、乗ってやるよ。なにせ俺様は、加減を知らないからなぁ!!」
実際のところ、カバーよりもストラトスの方が厄介である。音圧の壁に囲まれはしたが、これほどの攻撃的な行動をカバーは有してはいなかった。そのため、力加減を誤ればストラトスを焼き殺してしまう。そんな思いがあったため、『火』の力を使うことに杞憂があった。
剣の振り方はやはり粗暴で、しかし鋭く、身軽な動きと合わせて非常に質が悪い。
「質が悪い、か」
自身で思ったことをそのまま口にすることで反芻し、そしてやはり男は冷ややかに笑う。
もっと質の悪い男を知っている。
もっと攻撃的な男を知っている。
腹立たしいほどに人生を狂わせた、あの“死神”に比べれば、まだまだ遠い。全く、足りていない。なにもかもが、達していない。
そう思った矢先、右側後方から銃を構える“音”がした。反射的に男はそちらに体を向けて、外套で身を守る動作を取る。
しかし、その方向にはストラトスどころか、誰も居ない。当たり前だが、ここに居るのは自身を含めて彼女の二人だけ。そもそも、ストラトスの居ないところから“銃を構える音”などするわけも無いのだ。
「襲撃音に慣れ過ぎた体の反射ばかりは、どうしようもないってことだよな」
即ち、ストラトスは“銃を構える音”を空気を変質させることで発生させたのだ。『音』については念頭に置いていたが、音圧の壁に気を取られ過ぎていて本来の性質を忘れていた。
音とは、恐怖の象徴だ。人間の体に光の次の速度で訪れる外部からの情報である。その情報が、心に沁み付いたトラウマや記憶を呼び起こす。それはまさに、外部からの“攻撃”であり“襲撃”となり得る。
特に、男のように修羅場を潜り抜けて来た百戦錬磨の討伐者にとって、些細な音の一つ一つは対応に直結する。海魔の襲撃音への対応。雨音への対応。海魔とは異なる、人間からの襲撃音への対応。それ以外にも様々と言って良いほど、男には“音”だけで、千差万別の対応策がある。それはもはや、反射神経に等しい。
ストラトスはそれを利用した。男が後ろを確認しているその間に、大きな声で笑いながら男を斬り付ける。
剣戟は止まらない。ストラトスは男の背中を何度も何度も何度も斬り続け、そして汗を流したところで一区切りし、死んだであろう男の顔を確かめようと、落としていた顔を上げる。
「殺せたと思っただろう?」
男は何食わぬ顔で振り返る。その冷ややかな目付きにストラトスは不気味さを覚え、震えから毛を逆立てさせる。
「不死身かよ!?」
「んー、少し違う」
男は白い外套を見せるように体を動かす。
「この外套は防弾仕様でも防刃仕様でも無い。けれど、ただの銃弾は弾くし、ただの剣戟だって寄せ付けない。これを斬ることができるのは、討伐者の攻撃だけだ。つまり、君の今の剣戟の全てには『音』の力が載っていなかった。炎を斬ったときには剣に込めていたのに、僕の隙を突いたと思って、安心して力の放出を止めてしまったね?」
「なんだよ、それ。ふざけんな!」
「これは授かり物だ。ある海魔の皮が織り込まれている。だから、人智の及ぶ力では、決して打ち破れない。けれど君はまだ素質がある。油断さえしなければの話だけれど」
男は外套を翻しながら剣を捨て、そして十字を切ると、手元に火で作り出した十字の大剣を携える。
「逃げるなよ、ストラトス。これからすることは全て、教育だ。君に足りないもの、ヒエログリフに足りないもの、マジョラムに足りないもの、カバーに足りないもの、そして恐らく、標坂 鳴に足りないものを教えてあげるんだ。そして、君たちがなにかも分かっていない、自ら名乗ろうともしない“悪魔”の類とも言える人格にも、ね」
男はほんの一瞬、気を抜き、そして次の瞬間にはストラトスへと距離を詰めていた。ストラトスは本能的に剣で防御の体勢を取る。
「まず剣戟が雑だ。どれだけ速くとも、どれだけ身軽でも、そんな剣戟じゃ海魔どころか僕だって殺せない」
炎の十字大剣を滑らかに振るい、ストラトスの剣を弾いて弾いて弾き続ける。ストラトスが防いでいるわけではなく、彼女が本能的に剣を向けている箇所に男が合わせるようにして大剣をぶつけているのだ。その僅かな振りで織り成される強い力に、鍔迫り合いすら敵わず、彼女の腕は剣ごと打ち飛ばされている。
「次に踏み込みもまだまだ甘い。身のこなしは及第点だけど、それ以外は零点だ。君はもっと速く動けるし、速く力を用いることもできる」
ストラトスが攻勢に出ようと、踏み込むと、先回りして男が先に踏み込む。そして、仕方無く引き下がった彼女にしつこいほどに付いて回り、踏み込むということすら許さない。
「更に言うと、使い手の力に君自身が付いて行けていない。音の壁で動きを止める、弾く、音で相手を怯ませる、反応させる。どれもこれも素晴らしい。なのにその使い方は、ここぞというときの使い方とは掛け離れている。自身が相手を殺したいから後方に音の壁を張る。自身が相手から殺されたくないから音の壁で囲う。相手の隙を作りたいから音の反応を用いる。それでどうだ? 僕は殺せたか? 僕は殺されたか? 殺されていない、殺せていない。君は、君たちは自らが作った絶好の機会を、絶好の殺し時を、自身の身体的能力の足りなさから来るマイナスによって、全て失っているんだ。反論できるなら、してみたら?」
炎は踊り、十字大剣はストラトスの剣を悠々と防ぎながら、そして弾き返す。踏み込まれれば華麗な足取りで男は下がり、剣を空振らせ、そして前につんのめった少女の軸足を蹴り飛ばして転ばせる。
「それじゃ、評価させてもらおうか」
十字大剣の切っ先を少女の首筋に当てつつ、男は告げる。
「百点満点中の評価だ。ヒエログリフ、5点。マジョラム、3点。カバー、1点。ストラトス、0点。総合評価は4.5だ」
「ふざ……けてんじゃねぇ。なんで俺様が、0点なんだ!」
「期待外れだったからに決まっているだろう? ヒエログリフや、君自身が手加減を知らないって言うもんだから、もっと殺意に満ちた教育になると思ったのに、僕の予想すら超えてくれなかった。だから消えろ、有象無象。標坂 鳴という人格にその体の所有権を委ねろ。標坂 鳴の中で、時が来るまで眠っていろ。“悪魔”と同じくだ」
「鳴はこんなこと望んじゃいなかった! 大人はみんな嘘つきだ! 鳴はいつだって大人に騙される。そもそも鳴は両親に騙されて捨てられたんだ! どんな大人も嘘をつく!」
「標坂 鳴が望もうと望むまいと」
男は十字大剣を手元で消し去り、ストラトスに詰め寄る。
「その力をこの僕が拝見し、興味を持った。その時点で、標坂 鳴に、拒否権は無い。生きたいのなら大人では無く、海魔を狩れるようにならなければならない。“異端者”に特権階級は与えられない。“異端者”はいつだって討伐者だ。だが、その“異端者”こそが、世界の道理を壊す全てであると、僕は思ってもいる。だから、君たちは“まだ”不要だ。標坂 鳴を先に仕上げなければならない。君たちが操る体の潜在能力を引き出し、君たちがまた人格を入れ替えることがあったとき、今日この日よりも、自在に全てを扱える強さを、標坂 鳴は持っていなければならないのだから」
ストラトスは男の異常性に恐怖を覚え、視線を逸らす。
「なにを怖れることがあるんだい? 僕は君の師になるんだ。そこに怖れる必要なんて無い」
「簡単には喜べねぇだろうが。俺様たちは出て来るなってことは、鳴はまた大人に騙されるかも知れないんだ」
「そこに関しては、心配しなくて良い。標坂 鳴が騙されるのは、あと三回だけだ。たった三回なら、僕がどうにかしてあげよう」
その言葉が既に、一回目の嘘であったのだが、ストラトスは気付いてはいなかった。それが男にとっては好都合だった。




