【-過去-】
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居心地の良い世界は欺瞞だ。
居心地の良い場所は偽りだ。
居心地の良い時間は誤りだ。
「月見里様、施設から出られては困ります」
「構うな。あと、僕はジギタリスだ。その名で呼ぶようなら、君を仕事から外させてもらう。もう、ジギタリス以外の名前を用いるつもりも無いからね」
部下に強く言い放ちながら、男は外に出る支度を進める。
「しかし、やまな――ジギタリス様は“現人神”。一般人如きが反映させた都市へ顔を出せば、たちまち囲まれてしまうに違いありません」
「もう一度言うよ、僕に構うな」
憎くも手放せず、そして己の手で勝ち取った物でもある白い外套を纏い、男は支度を済ませて、大きく息を吐く。
「僕が居ない間にやるべきことを伝えておくよ。『上層部』の情報収集は継続、海竜が放出する水についての研究も継続。『上層部』から出されている海魔の血を人に与える実験については無視して良い。諸々の資料も全て廃棄。周辺海魔の討伐の人員を増やす。特にダム周辺については調査を怠らないように。討伐者見習いの訓練課程は今日で終了させ、さっき君が言っていた一般人如きが反映させた都市にある査定所に所属させるため、その登録を行うこと。そう時間を掛けるわけでもない。午後にはまた密な命令を下す」
「承知致しました」
「あと、僕に護衛は不要だ。君が言った“現人神”らしく、死にはしない。人間に兇刃を振るわれようと、逆に屠るだけの護身術も備えている。護衛が居ると逆に邪魔になる」
「しかし、」
「だから、構うなと言っただろう? これ以上は、僕も君を許さないよ? 君は僕の、“悪”になるつもりかい?」
慈悲の無い一言を聞き、部下は震え上がり、視線を落とす。
「そうだ、それで良い。歯向かわない限り、君は“正義”だ。“現人神”である僕の、ね」
部屋を出る際にそれだけを部下に言い残す。
男はエレベーターを使い、地上階に降りると、そのまま真っ直ぐに『下層部』施設の外に出た。都市に続く山道を苦も無く降りて行き、そして周辺に殺意を放ちながら海魔の来襲に備える。今日は運良く、海魔に遭遇することはなかった。
都市の入り口が見えたところで殺気を解き、討伐者証明書を見せて門を潜り抜ける。
そこに広がっているのは、一般人が築き上げたかつてこの世にあったビルの数々と、忙しなく道を行き交う人々の姿だ。
使い手と討伐者だけでこの世界は出来ていない。力を持たない一般人は強制労働に就かされる。その強制労働とは、建築、討伐者のための武器製造、そして、非常用食料の備蓄など様々だ。衣服の製作も一般人に任せられ、海魔の血から身を守るための手袋や、穢れた大地を踏み締めても数週間は保つことのできる靴の製造も、彼らの仕事となる。ただし、職人と呼ばれる者たちがあぶれた彼らを抱えることもできないため、もっぱら建築や材料調達などの力仕事に向かわされることが多い。
そして、金銭のやり取りが一部の、重労働を経た者たちの労働義務となる。諸外国との為替の取引は辛うじて続いており、そこから生まれる利益だけでなく損益は、日本という国を覆う。ただし、現状において、使い手と討伐者が幅を利かせているこの世の中では、各国の金銭価値は、かつてにあったレートに比べれば圧倒的に低くなっている。それでも商社や通常の銀行が営業されるのは、一般人が喰い繋ぐためには、その重要性を失ってしまった金銭が必要不可欠だからだ。力を使えない彼らには、それしか残されていないのだ。
しかし、男はこれを歪みとは捉えていない。奇しくも、これで世界は上手く回っている。一般人からしてみれば火の車なのかも知れないが、男には、一般人が回している金銭において、この国が悲鳴を上げているようには見えない。少なくともこの都市は潤沢だ。『下層部』から遠征として離れたところの街や町を見ることもあるが、それほど廃れてもいない。廃れているとすれば、一般人に関わらず、人間の心の中だとすら思えてしまうほどに。
使い手がやるべきことをやり、討伐者が海魔を討ち、一般人が国家を支える。その中に政府は介在していない。二十年以上前から、政府は機能を果たしていない。
それは法と呼ぶべきものから解放されたということ。人を殺しても構わない。なにをやったって、罪には問われない。それで裁かれないというわけではないが。
なのに、この国は政府を失っているにも関わらず、諸外国で起こっているような紛争や暴動は起こらない。使い手、討伐者、一般人。この三種に人間が分類され、やるべきことが確立されたことによって、怖ろしいことに国民は政府無しで、国を維持させているのだ。ただし、これもまた法から解放されたから裁かれないというわけではなく、政府が無いからこの国に先導する者が不要というわけではない。高度で知的な組織や機関は存在しなければならない。現状、それにあたるのが『上層部』であり、『下層部』である。高度で知的な組織の存在が、人々を統制している。たとえそれが使い手や討伐者優遇の組織であっても、一般人がそれに気付くことが無いのなら、それは彼らにとって“正義”となるのだ。
だから、男も『下層部』に所属している。所属させられている。“悪”ではないからだ。“正義”である以上、任命されたときにそれを突っぱねることもできなかった。しかし、中に入ってみれば、“正義”である面と“悪”である面が、まさに紙一重であることに気付かされた。
だから男は、矛盾に苦しんでいる。
己の行っていることは確かに“正義”だ。しかし、時折、『上層部』が垣間見せることは、言い切れるほどに“悪”なのだ。ならば『上層部』を潰せば良いという短絡的な計画を立てることもできない。何故なら、一般人にとっては『上層部』は“悪”ではなく“正義”だからだ。『下層部』の一員が『上層部』を潰しに掛かった。それを一般人は、どう捉えるかは考えなくとも分かる。男が“悪”とみなされる。
流布された異名も、与えられた役職も、男を縛り付ける錘なのだ。『上層部』に呼ばれ、『下層部』の一員に任命されたときには見えなかった“悪”が、ここに来て男を前にも後ろにも進むことのできない鎖と枷となり、雁字搦めにしている。
それほど二十年前の生き残りが怖ろしいのだ。男は首都防衛戦で生き残り、そして海魔を追い返した功績を掲げて、『上層部』に取り入ったのだが、逆に利用されてしまっている。これに気付いたときには、全てが手遅れだった。
ならば内部から変えてやるべきか。
男はそう思った。しかし、己がやって来たことの中で――己が恐らく“正義”として執行して来たことの中で、充満した“悪”が排除できた試しは無い。むしろ、“正義”が排除されそうになったことの方が多い。人の心の中に巣くう“邪悪”は、“正義”よりも深く根を張っており、それを絶つには、“正義”の名の下に死を与えるしかないのだと、男は討伐者となることを決意したその日から結論付けている。だから、“正義”を執行しても変わらず“邪悪”が蔓延るのならば、現状を変えようとしたところで変わらないだろう。むしろその動きが、“正義”でなく“悪”と捉えられたなら、男はまたも矛盾に苦しむこととなる。
結局のところ、体制に取り込まれてしまっては己は“正義”を振りかざせないのだ。己が所属する組織が“悪”であるなどと思ったことは一度として無いが、だからといって“正義”だと力強く誇張することもできやしない。ただ、己自身はずっと“正義”を貫いているのだという確証だけは、ただ胸にずっと秘めている。それだけで男は生きていられた。いずれ、己のかざす“正義”によって、“悪”を滅することができる日が来るだろうと信じて疑っていない。それは、“悪”は往々にして滅び去る運命であると、歴史を紐解けば分かることだ。




