【-病院-】
「あの、なんで病院になんか?」
「死神が入院しているんだ」
「ディルが?!」
冷静に訊ねたつもりだったが、返って来た言葉のせいで大きな声を出してしまった。それを少しだけ恥じつつ、雅は声量を落として続ける。
「どうして?」
「廃人――いや、これは蔑称だ。生気が無い、と言った方がまだ無難な方か」
「そんな」
「ギリィが付きっ切りで看病をしているが、飲食と排泄以外は人任せだ。それ以外はほとんどベッドの上から動かず、部屋の隅や窓の外を眺めている。会話も一応出来てはいるけれど、以前の死神らしさは微塵も無い。だから、あまり大きな声や音を立てたりすることは禁じるよ。一体、なにをしでかすか分からないから」
そう言いつつ、ジギタリスが病室の扉を開ける。そして、雅は愕然とする。
そこには点滴で栄養を補給しながら、ただボーッと天井を眺める男の姿があった。雅の記憶の中に、こんな姿のディルは居ない。変わり果てた姿の男を見て、体中が震える。
「雅お姉ちゃん」
ベッドの隣にある椅子に腰掛けていたリィが雅に気付き、急ぎ足で近付いて抱き付いて来た。しかし、再会の感動よりもディルの姿のショックが大きく、上手く対応できない。
「無事で、良かった」
ようやく声として出すことのできた台詞は、ありふれたものになってしまった。リィは目をパチクリとさせたのち、自身の手首に巻き付けていた黒い帯の半分を解き、雅の黒の短剣の柄頭に結ばれた黒い帯に千切った面をあてがう。糸で繋げたわけでもないのに繊維と繊維は重なり合い、連なり、黒い帯は一つとなった。
「ディル?」
雅はベッドで横たわっているディルの傍まで寄って、小さく声を掛ける。
首を動かし、雅を視界に収めたのち、ディルは「ああ」と呟いたのち、なにも言わない。
「……なんで……なのよ」
こんなディルを見たくはなかった。こんなディルとは会いたくはなかった。会う前から、ある程度の覚悟はしていたつもりだった。けれど、それでも、自分を見ればディルはいつものように「クソガキ」と言って、罵倒して来るのではと期待していた。それが儚くも潰えた。
「死神がこんなにも弱っているとは、僕も気付けなかったよ。なにせ、服を着込んでいたからね。昔との違いを見破ることはできなかった」
「昔との、違い?」
「筋肉量が減っている。筋肉質ではあるけれど、二十年前よりも腕も足も細く、はるかに劣っている。二十年前には生えていた腕毛も無い。それどころか足にも毛の一つも生えていない。髭だって二十年前は処理していたはずなのに、ここに入院してから生えて来る兆しは全くない。これは俗に中性的と言われる男性によく見られる。明らかに二十年前より男性ホルモンが低下している。通常、男性ホルモンが低下すれば引き起こされるのはもっと別の、ホルモンバランスが崩れることで精神的、或いは大きな病気に罹ることが多い。けれど、死神の場合は元々、男性ホルモンの分泌量が少ない男性に見られる人体の変化が起きている。恐らくは、僕と同等の、“喪失”の影響だ。ただこれは、死神がこうなってしまったこととはなにも、関係無い。精神の限界点に達したことで、死神を保たせていたものが切れたんだ。けれど、狂うのではなく、こうしてただボーッと日々を過ごすだけというのは、なんとも驚くところなんだけど」
「治る、んですか?」
「肉体的な面で言うと、治らない。そして精神面も、治るかどうかは定かじゃない。頭の中で切れたものがまた繋がることがあるかどうかは、誰にも分からない。死神にすら、分からない」
ネジの外れた男。狂いに狂った男。イカれた男。様々に雅はディルを心の中で罵って来たが、いざ本当に、精神が崩壊し、心が壊れてしまった男を見ると、声も力も出て来ない。
「今の死神に戦う力は無い。心のケアが必要不可欠なんだろうけど……僕は、いや、きっとケッパーもリコリスもナスタチウムも、誰一人として死神の過去を知らない。どうしてこうなったかは死神の過去にある。心が壊れる理由は必然的に過去に繋がる。でも、この死神は、誰にも過去を話したことは、無い」
二十年前にあったことをディルは語った。
けれど、雅はディルがどうして討伐者となり、どうして海魔をそこまで憎み、どうして海竜であるリィに殺されることを願っているのか、それら全てを知らない。ジギタリスの言うことを受け入れるならば恐らくは、二十年前の生き残りの誰一人にも、明かしていない。
過去にある傷痕が、心を壊した原因であるのなら、それをよく知る相手が居なければ心のケアはできないのだ。軽い口調で傷痕を突付けば、当人が自らその傷痕を抉る。
精神が摩耗した。そう表現してしまえば簡単だが、そこにどれだけの後悔があり、懺悔があるのだろうか。どれほど衝撃的な景色を目の当たりにし、脳裏に焼き付いて離れないまま、そのことだけが、どれだけの頻度でフラッシュバックしていたのだろうか。
雅だって、人を殺したことを引きずりながらも前を向いて、懺悔しつつ、後悔しつつ、なんとか乗り越えて来た。
しかし、ディルのそれは雅の想像を越えているに違いない。これほどの男が、ここに至るまで耐え続けていた苦しみとは、悲しみとは、一体、なんなのだろうか。
「もしかして、とは思ったけれど、君も死神から過去を教えてもらってはいないのか」
「は……い」
「君は?」
ジギタリスはリィに話題を振る。しかし、リィは首を横に振って返答とした。リィが知っていることは雅が知っていることに近い。そして、ここで首を横に振ったということは、リィにもディルは過去を詳らかにしてはいないのだ。
リィが昔の少女に似ていること。
両親に見捨てられたということ。
海魔を心の底から憎んでいるということ。
特に海竜を、恨んでいること。
その海竜であるリィに殺されることで、命を終わらせようとしていること。
『ディル』とはハーブの名称。けれど、それは後付けであり、ディル自身は、ただ一人を忘れないことと、たった一人であることを自身に刻むため、自身の名前を呼び名はそのままに綴りだけを変えて、一を足した。そうして『ディル』となった。
心の中でディルの過去に至るだろうことをピックアップしてみるが、どれもこれも真相を捉えてはいない。
「……さて、ここで一つ提案がある」
「ディルを置いて行く提案なんて、認めません」
ジギタリスが嫌なことを言う前に雅は先回りして、止める。
「違うよ、置いて行きはしない。ただ、ここでグループを二つに分けようっていう提案さ。ディルと共に行動するグループと、僕と共に行動するグループ。何故かって? それは、言わなくても分かるだろう?」
ディルの足取りに合わせていると、いつ首都に辿り着けるか分からない。ジギタリスはそう言いたいのだろう。
「だから先に、ジギタリスさんと鳴が首都を目指すってことですか?」
「違うよ、僕は首都には行かない」
「え?」
鳴が目をパチクリとさせる。
「死神が首都を目指すと言った。だから僕はそれに付き合っている。けれど、その肝心の死神がこのザマだ。言っちゃ悪いけど、死神の御守りをしたいとは思わない。だから、僕は尖兵を務めさせてもらうよ。いわゆる、囮ってやつさ」
「囮?」




