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【討伐者】  作者: 夢暮 求
【-第九部-】
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【-それは敗走にも近く-】


 体が重い。誰かがそれは心の重みだと言った。なんとなく、まだ暢気に授業を受けていた頃に、聞いた。

 それをまさに体験することになるとは、雪雛 雅も思ってはいなかったのだが。

「水……あと、どれぐらい、余裕、ある?」

 雅と同じく木にもたれ掛かり、座り込み、小休止を挟んでいる標坂 鳴が訊ねて来た。

「あと、一日分も、無い。この調子だと、飢え死にする前に喉が渇いて死んじゃいそう」

 ワンショルダーバッグの中は着替えて洗濯もできていない衣服だけ。ウエストポーチには、非常食の乾パンに似たブロック状の栄養補給食品は三日分ほど。しかし、五日分の非常用の水が入った小瓶には、もう一本分を満たすほどの水は入っていない。恐らくは最後の一口分だけで、渇きを取り除くことは決してできない量だ。確かに飲めば僅かに喉は潤うだろうが、数分もすればまた喉が渇く。その程度しかない。ならば、今、飲んでしまった方が良いのかとも思うのだが、それこそ愚策である。


 その先は水不足という絶望しか待っていない。だからこそ、この最後の一口があるという希望だけは失ってはならない。限界ギリギリまで、それこそ倒れる寸前まで、これを飲むことはあってはならない。飲んでしまえば、喉を潤すものが無いという感覚が不安をもたらし、ただでさえおかしくなりそうな精神が、遂には崩れてしまいそうだからだ。

 よって、栄養補給食品も齧ることができない。物を口にすれば唾液が分泌される。しかし、乾パンに似たこの非常食は口の中の水分を一気に奪って行くだろう。それでも一本で一食分の食事量と同等の栄養を得られるのだから、小瓶の水とセットで飲食していれば、このように非常食と水のバランスが狂うこともなかったのだが、食欲が無かったことも災いして、水を飲みはしても非常食にだけは手を付けることができなかった。


 それも相まって、雅の体は限界の一歩手前に達しようとしていた。足りない栄養分、そして足りない水分。せめて食欲が無くとも非常食を無理して食べてさえいれば、栄養不足に陥ることもなく、まだ立ち上がり、歩く気力だってあったはずだ。


 だけど、と雅は思う。

 あんなことがあったあとに、どうすれば食欲が湧くと言うのか。


 白銀 葵は人魔と化した東堂ごと、自身を氷に変質させた。リコリスは彼女を守るように、残留思念の残る自分自身という水を全て葵を守るために使い、死んだ。

 ドラゴニュートから進化した海魔のスルトはナスタチウムを殺しただろう。小野上 誠は見逃されただろうが、それは雅側で物事を見据えていたドラゴニュートのアジュールの提案によってのものだ。

 こうして雅と鳴が生きているのも、またその提案のおかげでもある。だから、彼女たちの選択や死は無駄では無いということも分かる。

 それでも、死は重く、別れは辛い。葵は雅の唯一無二の友人であり、誠も仲間ではあったが、心のどこかでは友人と思っていた。


 榎木 楓も含めて三人、友人が居なくなった。ケッパーとリコリスとナスタチウムは、死んだ。


「また吐きそう?」

「大……丈夫」

 吐いたところで、出て来るのは胃液だけだ。だが、嘔吐は水分の放出も伴う。脱水症状に陥りたくなければ、吐き気は抑えるしかなく、吐きそうになっても飲み込まなければならない。そうして、命を繋がなければならない。

「もうすぐ、ジギタリスやディル、と、合流できるはず、だから」

 そう言って鳴は雅の黒い短剣の柄頭に結ばれている黒い帯を眺める。


 ディル、ジギタリス、そしてリィとの合流できるかどうかはこの黒い帯に掛かっている。雅が変質の力を流せば、黒い帯が再生して行き、別れ際に千切り、それを腕に結んだリィと引き合う。互いの位置は分からずとも、黒い帯が再生したい側に揺らめき、方角を示してくれる。


 だが、ジギタリスたちの移動が速いのか、それとも雅たちの移動が遅いのか。帯は方角を示してくれてはいるが、合流は果たせていない。それも五日目の終わりに達しようとしている。だから非常用として用意していた小瓶にはもう水がほとんど無いのだ。雅のウエストポーチには討伐者としての道具以外に、五日分の非常食と水しか無い。水筒はもう空になってしまっている。スルトから逃げたあとに訪れた異様な喉の渇きを潤すために一気に飲み干してしまった。それは鳴にも言えることで、彼女も当初は非常用の水は四日分ほどしかなく、水筒も空になっていた。それでも五日を四日分の水だけで保たせているのだから、雅よりも計算していたことになるのだが、今日の夕方に、雅と同じく底を尽きそうなのだ。


 両者揃って、水については頼れない。しかし、鳴は雅よりも食欲があったため、その分だけ動ける。現に彼女は非常食を全て平らげている。そのため、この五日間は雅が鳴に手を貸してもらっていた日々だったと言っても過言ではない。


 それがあまりにも惨めで、不甲斐なかったため、「お荷物だったら、黒の短剣を持って行って一人で」と雅は一昨日の夜に鳴に告げた。

 だが、鳴は決して雅を置いて、黒の短剣を手に一人で行くことは無かった。同情されているように感じて、目を覚ましたときに強く当たったこともあったのだが、抱き締められてからはなにも言えなくなった。泣きじゃくりそうになったが、体の水分が失われるのが怖く、二人して堪えながら、ただただ抱き締め合った。

 そういった弱さを分かち合うことができる相手がまだ居てくれることに、雅は心の底から感謝した。だが、果たしていつまでこの関係を続けることができるだろうか。ひょっとすると、もうすぐ近くに、彼女との別れも近付いているのでは、と思ってしまう。


 ケッパーは楓に想い託し、リコリスは葵に価値を見出し、ナスタチウムは誠に意志を見せた。


 ならば、ジギタリスとディルは、なにを遺すのだろうか。考えただけで不安に包まれてしまう。一人切りになるのはもう嫌だ。鳴と別れるかも知れないことも嫌だ。そして、こんなにも恋しくて恋しくてたまらない、けれど届かない相手が、死んでまでなにかを遺そうとすることも、嫌だ。


 雅はフラフラと立ち上がり、鳴の肩を駆りつつ歩き出す。黒い帯は丘の向こうを示している。そっちに少しずつ歩いて行くと、急に視界が開けた。


「街?」

 鳴が呟き、続ける。

「雅! 街だよ! 街!」

「う……ん」

 鳴のように大きくは喜べないが、雅の目にはしっかりと彼女が目にしているものと同じものが見えていた。

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