【-その女の声は、誰のどの言葉よりも強く響く-】
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「あの、飲んだくれ……め。言って、くれる、じゃない」
波打ち際に残されたリコリスという意識が毒を吐く。各地に残した残滓からの情報を結集させてはいるものの、記憶は幾つか欠落し、感情もどこかぎこちない。そしてなにより、動くこともままならない。このまま意識は消え行き、リコリスだった水はただの水となり、残滓もまた、ただの水となるのも時間の問題だった。
己がやらなければならないこと。
己が、やり遂げなければならないこと。
葵はやり遂げた。己の心に従い、ひたむきに、己の友人を殺さず殺した。その方法が正しいかどうかはリコリスが決めることではない。彼女がそれで良いのだと決めたのなら、それはきっと正しいことに違いない。
己とは程遠い、清く正しく美しく。嘘や偽りに塗れた人生ではなく、事実だけが並べられた人生。騙るのではなく語り、全ての生命を慈しむ愛に溢れる者。
「まったく、私とは真逆の存在、よね」
思えば、白銀 葵を拾うと決めたのは、廃墟となる前の町で、彼女の父親と寝たからだ。母親を早くに亡くし、これからシーマウスに喰われようというときに、彼女の父親はリコリスと、そして自身の娘の心配だけをした。己はどうなっても構わない。ひょっとすると、その自己犠牲や『慈善』の心は、父親譲りだったのかも知れない。
全ての残滓からの連絡が完了する。ここに居るリコリスの声はきっと、誰にも届かない。しかし、他の至る所に存在する残滓から発せられる声は、きっと日本中に届く。残滓は日本にしか置いていない。二十年間、日本だけを放浪し、そして少し前からはずっと一所に留まって、白銀 葵を探していたためだ。思えば、世界に己の残滓を置いていたならば、この声は、人類にとって大きな大きな役割を担うことになっていたかも知れない。
しかしながら、そんな大きな役割をリコリスは嫌った。無責任な自分に、そのような重荷を載せられても困るのだ。だから、日本という国一つだけで構わない。
『日本の全ての使い手、討伐者に、告げるわ。私はリコリス。二十年前の首都防衛戦の生き残り。“疫病神”の、リコリス』
残滓は水溜まりだけに留まらない。地面に染み込み、地下水となり、海水と混じり合わずに雨となって降り注ぎ、また日本の各地に残滓を置く。穢れた川の流れの中にも、『活きた水』の中にも、リコリスという残滓は存在する。そして、それらに触れたことがある人間の中にも、リコリスは居る。だから、残滓が発声するとき、それ即ち、日本中の全ての人間がリコリスの声を耳にするということである。
使い手や討伐者に限らず、一般人にもその声は届く。
『私はもうすぐ死ぬわ。“疫病神”の末路なんて、こんなものよ。誰にも看取られずに消え行く。ええ、それは別に構わない。むしろ、私の望んでいた最期そのものよ』
前置きを長くすると、意識が消えてしまうかも知れない。だから、言いたいことを全て吐き出さなければならない。アガルマトフィリアと馬鹿にし続けた、ケッパーのように。
『いつまで人間同士で争ってんの? いい加減に現実を直視して。使い手が討伐者を扱き使うのも、討伐者が一般人を蔑むのも、もう時代遅れよ。けれど、目の前で口論している相手、或いは戦っている相手、それと手を組めなんて言うつもりは無いわ。ただ、このままで良いわけ? いつまでもいつまでも、海魔に怯える日々、海魔を討つ日々、海魔に殺されるかも知れない日々を送り続けることに嫌気が差したことはないの?』
そこから感情が溢れ出す。
『相容れない相手と手を繋ぐ必要は無い! けれど、相容れる相手と手を取り合って! 私たちは、人間として! 人類として! 自身を驚異のどん底に陥れている存在である海魔に! 全力で対等しなければならないんじゃないの!? 人間同士の争い事なんてそのあとで結構よ! 海魔を倒したあとなら幾らだって時間はあるわ! そのあとでも良いじゃないの!? まずは同じ人間の敵である海魔を討つこと! そのために手を取り合えないって言うんなら、私はあなたたちの人間性を疑うわ!』
おぼろげになる意識の中で、リコリスは続ける。
『一般人だから、討伐者だから、使い手だから! そんな言い訳はもう要らない。一般人だからなに? なにもできないと考えてそこで思考停止するわけ?』
心の中にあるものは全て、この世界に置いて行く。
形として残らない物なのだとしても、目に見えない物としては残るように
『私は知っているわ。一般人でも使い手や討伐者よりも頭の良い連中を。私は知っているわ、使い手でも全身全霊をもって全ての人を差別無く受け入れ、海魔の魔の手から救っている人を。私は知っているわ、討伐者として誇りを持ち、人を殺すことを悪とし、平和を願って海魔を討ち続けている人を!』
そう、己はいつだって、そうだった。
見下して生きているように、貶して生きているように見せ掛けて、心の中ではずっとずっと期待をしていた。
いずれ消え去る意識であると分かっていても、期待はずっとし続けた。叶わないだろうなんて思ったことは一度だって、無かった。
だって、人は、人間は、こんなにも面白い生き方が出来るのだから。
『ねぇ! そういう人たちが集まったら、凄いことになると思わない!? 手を取り合えたら、きっと海魔だって滅ぼすことができると思わない!? 私たちはもう出来るのよ! 出来るのに、それをして来なかっただけ! それをする勇気が無かっただけ! 目を逸らし続けて来ただけなのよ! 諍いの日々は終わりを告げた。世界は海魔によって滅び掛けている』
口先だけならなんとでも言える。実力を伴わなければ、その声は誰にも届かず、そして響かない。
けれど己であれば? この“疫病神”と嫌われていながらも、その実力においては“死神”と同等と怖れられている今であれば?
『だったら、一人一人が英雄になれるかも知れないこのタイミングに、この声に、言葉に、心を揺さぶられる人が一人でも居たのなら! 竜の加護を抱く者の元に集いなさい。あなたに出来ないことが出来る人が居る。だったらその人に任せれば良い。あなたが出来ることが出来ない人が居る。だったらその人を助ければ良い。そうやって、出来ることと出来ないことを振り分けて行って、全ての人が手を取り合って、海魔を討ち滅ぼすことができたなら、そのあとに広がる世界ってきっと、優しい世界に違いないわ……だから、人間と海魔の戦争を始めましょう。怖れることはないわ。ただ、手を取り合えば私たちはこの戦争に勝つことができる。だから、迷わず進みなさい。進むと決めた者から、進みなさい。この世界は、人間の物なんだから!!』
最期に、なんでこんな全ての終わりになってから、なにもかもを口にすることが出来るのだろうか。
悔いを残したくないから、ではないだろう。リコリスにとって、この言葉は、この最期の言葉はなによりも、未来に向けての言葉なのだから。
故に、混濁して行く意識に対しての恐怖は無い。託せるものは託した。ならば、あとに見える未来は、予想する未来は、きっと己が期待するものになっているに違いない。
「だから……ディル……あなたも、どうか……救われ、て……」
リコリスの意識が途絶える。人の形をしていた水は崩れ、地面に吸われて消えた。




