【-その姿を受け入れられるか-】
まるで、よくもこんなことを、とでも言いたげな斬撃が後方から迫っているのが分かる。しかし、それに加えて葵の気配も強く感じる。斬撃は葵の氷爪が受け止める。
「東堂君、あたしだけを見てください。あたしだけを、見つめていてください」
紅の帯の目印は、まるで東堂の動揺を表しているかのように揺らめいていた。
「遅いよ、まったく!」
アジュールの叱責を受けつつ、雅はそのまま人魔へと突き進む。魚眼の一つを貫かれた人魔は両手足を、不規則に伸縮させながら近場に居る誠を追い払おうと必死になっている。だが、残されたもう一方の魚眼が雅を捉えた直後、人魔は薄い笑みを浮かべて両手足を全てこちらへと奔らせる。
「私は葵さんを信じている。葵さんは私を信じてくれている」
ならば、前を向かなければならない。
葵の期待に応えなければならない。そうすればきっと、葵も雅の期待に、想いに応えてくれる。
雅の前方、およそ左右に首を動かして百八十度を見やって、向かって来る両手足合わせて四本が到達するだろう空間の変質を行う。
右手は左に吹き飛び、左手は右に吹き飛んで雅と人魔の合間で交錯する。両足は風圧により速度を緩められ、狙ったはずの雅から目測でも十メートルは離れた位置の地面に突き立つ。交錯する両手を縮め、両足もまた縮めて人魔が雅へと突撃する。
「ぁああああああああああ!!」
両手を右方向に寄せ、紅の短剣と黒の短剣の剣戟を一方向に定め、真正面から突っ込んで来る人魔に叩き付けようと力を込める。
それを見た人魔は自身の体を地面に擦れさせ、強引にブレーキを掛け、突撃を中止。空いた口から舌を突出させて、牽制する。
「そう来ると思った」
力を込めた姿勢はそのままに、雅の眼前で人魔の舌が、雅の『風』の力で留められる。
この体勢はブラフだ。力を込めた姿勢を取れば、必ず本能が危険を感じ、両手足を縮め、突撃を中断し、残された攻撃手段である舌を使うと踏んだ。この人魔は舌をぞんざいに扱う。それは恐らく、彼の者の中で、舌の回復力が優れていると理性的に判断できているから。そして大きな損傷を負っても、海魔化した人体は舌が千切れた程度では死なないと本能的に分かっている。
だから、雅はその手段を誘った。
最初は小さな渦、それが地面を少しだけ撫でると、一気に渦は膨れ上がり、大きな渦――竜巻となり、糸車のように人魔の舌を巻き上げる。
「ゴムにだって伸びる限界があるわよ。ついでに、あなたの舌はゴムほど強靭じゃない。それで、どれくらい長いのかしら」
雅が目を見開くと、更に風は強まり、人魔の舌を巻き上げる速度が増す。やがて人魔は体を支え切れなくなり、舌に引っ張られる形で竜巻へと巻き込まれて行く。
「アジュールさん!!」
「大地の鞴!!」
金槌が地面を打ち、割れ目から炎が噴き出し竜巻に混ざり、人魔が炎の渦に呑まれる。
人魔の両手が地面を捉えようと伸びる。鳴が先回りして短刀で弾き、弦で掻き鳴らした音波で炎の渦へと押し返す。
逆側に両足が伸びる。待ち構えていた誠が陽光の剣で両方の足先を断ち切る。切断面には爪というスパイクが無いため、地面を掴むことができずもがいているところを、更に月光の剣で誠が打ち飛ばす。
「思い通りに動いてくれてありがとう。私はあなたの理性と本能に賭けたのよ。だから、あとどれくらい焼いたら死ぬのかしら?!」
そう、こういうときがままある。敵である海魔の習性、異常性、本能、生態。あらゆることを加味して、それらの情報を纏め上げ、最終的に海魔の判断に賭ける。レイクハンターのときもリザードマンのときも、フロッギィと戦ったときでさえ、海魔が下した判断から生まれるほんの僅かな隙に、雅は滑り込むのだ。
さながら、どんなに狭い場所にでも吹き込む風の如く。
「あー、そろそろ死ぬね」
アジュールはそう呟くと、人の姿を保ったまま両翼を伸ばして飛翔すると、金槌で人魔をナスタチウムとスルトの間に打ち飛ばして雅の傍に着地する。炎が掻き消え、竜巻もまたゆっくりと消え去った。
「ちっ、後始末ってのは面倒くせぇなぁ」
「同感だ。使えん手駒を処分するのは、甚だ時間が惜しい」
スルトが鉄をも溶かす拳を打ち込み、人魔が断末魔の叫びを上げる。続いてナスタチウムが地面に拳を打つと、割れた岩が持ち上がり、左右から人魔を挟み込むと地下深くへと纏めて沈んで行く。これであの人魔はもう、出て来ることもできない。スルトの一撃でほぼ絶命していたため、這い上がる力もきっと残っていない。
「……は、ぁ……」
力が抜けるも、そこに座り込むにはまだ早い。揺らめく意識をどうにか保たせ、緩んだ筋肉を引き締めて、崩れそうだった体勢をどうにか整える。
「続きだ続き」
「つまらぬ時間であった」
鉄をも溶かす拳を、ナスタチウムが岩の拳で打ち合う。
「しかし、どうにも腑に落ちないなぁ、“戦神”。貴様はどのようにして己の拳を受け止めているのか」
「だからテメェに教える義理なんざねぇんだよ」
引き下がり、ナスタチウムが拳を地面に当ててから、再びスルトへと駆け出す。そうして拳と蹴りを互いに打ち出し、再びナスタチウムは後方に下がる。
「ふ、はーっはっはっはっはっ!!」
豪快に笑い、ナスタチウムの全身に筋肉が震える。
「なるほど、内側に鬼を潜ませていたか。その姿、“戦神”ではなく“戦鬼”と呼ぶべき悪逆の長よ」
「皮膚が盛り上がって……る?」
ナスタチウムの額に二つ、古来より伝わる鬼のように皮膚が硬質化したことで生まれたのだろう角が生える。合わせて岩の肌は筋肉の盛り上がりに合わせて更に重厚になり、血走らせるほどに見開いた瞳には、澱みを通り越した大きな大きな闇が広がっている。
選定の町ではフルフェイスのヘルメットを被って、全身を岩と土で包ませることでゴーレムのような成りをしていたが、最低限必要なところだけに岩を纏うことで自身の動きの俊敏性を損なわせないようにしている。驚くべきは、それだけの岩を纏って尚、拳も蹴りも自在に繰り出せるナスタチウムの腕力と脚力だ。幾ら自身が変質させた物体は、他者が持つときに感じる重さよりも軽く感じるとは言っても、限度というものがあるだろう。
「さっさと続きを始めようぜ」
「続き? 止めていたつもりは一切無いのだが、そう思わせてしまったのならすまないな。己は“戦鬼”となった貴様のその変貌振りに、僅かだが面喰らっていたようだ」
そうして、言葉を交わさない戦いは再び始まる。
「誠はナスタチウムのあの姿を見たことある?」
「……無いよ、無い。いつも手を抜いているんだから、見られるわけないじゃないか」
押し黙るしかない。
ケッパーだってそうだった。つまり、二十年前の生き残りは揃いも揃って、その師事しているみんなに本気で手合わせをしていない。
ならば、ナスタチウムが全力を出すと、これほど凶悪な面構えになるというのか。酒に溺れて、殺しを拒み、自らを臆病者とのたまっていた大男が、人魔を殺すことを躊躇わず、そしてスルトのような進化し、人間に近くなった海魔に全力を注いでいる。
いや、全力を注いでいるというよりも、戦いを愉しんでいる。殺し合うことを、愉しんでいる。当たれば死ぬ、必殺の状況下において、当てても死ぬかどうかも分からないスルトとの戦いを、心の底から愉しんでいる。
「俺と戦うのは、やめろ。お前じゃ、俺は止められ、ない」
「いいえ、止めてみせます」
「どうやって?」
ナスタチウムとスルトの激闘の向こうでは、葵が東堂と対峙している。氷爪を振るえば刀が振るわれ、その熱が氷を溶かす。反射的に氷爪を解いて、新たな氷爪を作り出し装着することで攻撃手段が失われはしないものの、あの『熱』は厄介だ。
リコリスは、あの『熱』を使い手のものだと言っていた。だから、東堂は『熱使い』だったということになる。すると、いつ目覚めたか、が問題になって来るわけだが、まず『熱使い』は摂理に属する“異端者”だ。そんな使い手を実験台にするわけがない。ならば、あの『熱使い』としての覚醒は、実験台になり、人魔に成り果てた末に東堂が覚醒させた人間の変質の力ということになる。
人間はいつ、どのように目覚めるのかは定かでは無いが、一つの可能性として“死ぬかも知れない極限状態での覚醒”が挙げられている。しかし、なにも海魔や人間に襲われているときに目覚めるものではない。この死ぬかも知れない極限状態とは、“自身の生命が酷く脅かされている状況”という補足が入る。こうなってしまえば目覚めるタイミングは酷く曖昧になってしまうが、現状、これだけ広く言葉の範囲を取らなければ、全てを含有することができないのだ。異例が一つでも出てしまうと、全ての考察が無意味だったことになる。研究が無駄に終わることによる徒労感、出費などを踏まえ、上の人間がそう勝手に決めた。
その勝手に決められた可能性に、東堂を当てはめるならば、自らに海魔の血を流し込まれるなど怖ろしくてたまらなかったことだろう。死んでしまうのではと思っただろう。そのような狂気に、精神が追い詰められて行ったはずだ。
そうして、人魔と化したときに彼は『熱使い』として目覚めた。もしも、もう少し早く目覚めることができていたならば、東堂は実験台にされることも無かった。
それがとても悔やまれる。目覚める兆候や、可能性は本人の意思では計り知れない。雅だって、目覚めていなければ東堂のように実験台にされていたかも知れない。
使い手と一般人。
その隔たりは、社会の中にしっかりと確実に構築されている。
「どれだけ逃げたって、追い掛けますから!」
雅が付けた目印の紅の帯が、ヒラヒラと揺れ、東堂の居場所を知らしている。そして、葵はそこに氷爪を振るうと、再び刀が景色から飛び出して激突する。
「……なぁ、白銀? そんなにお前は、俺の姿を見たいのか?」
「当たり前じゃないですか」
「人じゃなくなった俺が、見たいのか?」
葵が答えあぐねていると、東堂の斬撃が氷爪ごと葵を弾き飛ばす。
「良いよ、そんなに見たいんなら見れば良い。お前が旅立ったあとのことは、もうほとんどと思い出せない。だけど、お前があの町に留まっていたなら、俺はこんな姿になることもきっと、無かった。お前のせいだ」
景色に溶け込んでいた東堂が、全てを葵の前に晒す。昨日の遭遇は夜だった。月明かりはあったが、その姿はほとんど見えなかった。
しかし、日の光の下に晒されれば、まざまざと現実を見させられることになる。
限りなく薄い青色の肌。ボロボロの衣服。左腕には雅が付けた紅の帯。所々には海魔のような鱗が並び、蛸や烏賊の吸盤のようなものも呼吸するかのように収縮を繰り返す。首には鰓のようなものも見える。両耳は爛れ、形は非対称で、髪はヘドロのような血を纏っているからこそ目立たないが、ヌメッとした液体が垂れており、彼の頭部に張り付いている。そして、ヘドロのような血を全身に塗りたくった形跡がある。




