【-迷いを断つ-】
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「っ、ああ! もう!」
雅は自分自身の詰めの甘さに苛立つ。誠に言われて、感覚的には前を向いた。人魔を討つために、もう容赦はしないと堅く誓った。
なのに、肝心なところで手が止まる。人魔の隙を捉えても、見過ごしてしまう。普段の自分なら絶対にやらないことをやってしまう。誓ったはずなのに、本能は未だにそれを拒否する。
人魔はそんな雅をあざ笑うかのように縦横無尽に両手足を伸ばし、特に動きの遅い――要は詰めの甘さを見抜いて、雅を絡め取ろうと蠢いている。その両手足に絡め取られることは未だ無いのだが、だからと言ってそれで攻勢に出られているわけでもない。
アジュールの金槌も空振る。鳴の張る音の壁も、動じずに足場にして、続け様に来る弦を掻き鳴らして放たれる音の波動も避けてしまう。誠の『光使い』として変質させ、作り上げた陽光の剣による剣戟も、上手くやり過ごす。人魔がこちらの動きに慣れて来てしまっている。もっと人魔の意表を突くような攻撃を繰り出さなければ、これを仕留めるどころか半殺しに持ち込むことさえ難しい。
「分からぬものよな、“戦神”! こうやって打ち合ってみても、己の炎は一度も貴様を焦がさぬのだ! 鉄をも溶かす己の炎を、どのように岩如きで受け止めているのか、知りたいものよ!」
「そんなことを知ったって、貴様にはなんの価値もねぇだろうよ! ここで俺を殺したいんだろ!? 殺す相手の理屈なんざ、知ったところで無用だ無用!」
言い合いながらもナスタチウムはスルトの拳を、蹴りを、どれもこれも寸前でかわし、そして反撃にも出ている。
体術を極めている、とは言い難い。けれどナスタチウムのそれは、人生経験の中で培われた一癖も二癖もある代物だ。スルトの直情的に放たれる拳を、自身の癖のある足運びで避け、そして癖のある拳で反撃している。そして拳と拳がぶつかり合っても、決してナスタチウムが打ち負けることもない。
「東堂君、もうやめて! こんなこと、あなたのするようなことじゃありません!」
その向こう側で、景色に溶け込み、葵の後方から隙を突くようにして刀身が煌めく。それを見逃さず、リコリスが水流で斬撃を阻む。
「姿を見せないまま、葵を殺すつもり? 正々堂々! 男なら女の要求通りに戦ってみたらどうなの!?」
そのリコリスの声も、東堂には届いていないらしく、未だに景色から彼が全身を見せることはない。
力は拮抗している。けれど、優勢では無い。どちらかと言えば劣勢だ。人魔が海魔の性質も身に付けているのなら、そしてスルトが一つ上の進化を果たしているのなら、スタミナという点で雅たちは大きく劣る。
「……もう、やめる。短期決戦が良いとか、長期戦は不利とか、そういうことを考えるのは、やめる!」
首を横に振り、思考を一度、切り替える。この拮抗しつつも劣勢である状況を覆す策。それが必要だ。詰めの甘さが、自分自身にあるのなら、それを実行し切れない弱さが己自身の中に潜んでいるのなら、それ以外のところで自身の強さを見せなければならない。
雅にできることは、分析だ。この状況をいかにして切り抜けるか。
死にたくない。死にたくないと思えば、脳の動きは活発化する。少なくとも、思考を停止することはない。
恐怖は、雅にとって、怖れて動けない弱さでもあるが、頭脳を加速させる強さでもある。だからこそ、強く強く死にたくないと願う。
まずはなにをすべきか。この気色の悪い人魔については、まだ対処が可能だ。スルトもナスタチウムと打ち合っている間は、無力化していると考えて良い。ならば、やらなければならないことは東堂という人魔を、景色の中から引きずり出すことになる。
「鳴、サポートをお願い! 誠とアジュールさんは人魔を惹き付けて!」
雅は踵を返して、葵とリコリスの元に向かう。それをさせまいと、或いは詰めの甘さを知っているためか、人魔が両手足を雅へと伸ばす。
誠が間に入り、両手を陽光の剣で弾く。切り裂くには至れなかったが、真上に弾かれた両手は掴むべく物体が無い。そのため、縮ませての突撃はできない。
続いて両足をアジュールが金槌で片方を打ち飛ばし、もう片方を右手で止める。これは、雅にではなく、「こっちに突撃して来い」というアジュールの挑発だ。しかし、人魔はそのような挑発には乗らず、空いた口から舌を鋭く伸ばし、誠とアジュールの横を通過させ、雅の背中を狙う。
だがこれを鳴が張った音の壁が止める。舌は確かに鋭く、速度も持っているがゴムのように自らを突撃させない限り、この音の壁は破れない。人魔の舌は弾かれ、そのまま彼の者の元まで戻って行く。仕方無くといった具合に人魔はアジュール目掛けて突撃の構えを取る。が、それより早く誠は人魔の眼前まで近寄り、その魚眼の一つを陽光の剣で貫いた。
雅は三人の防御に感謝しつつも、白の短剣の帯を黒の短剣で半分に裂く。
「なに考えてんのー?」
「サポート――じゃなくて、私の命をお願いします。葵さんはもう一度、東堂に呼び掛けて」
先ほどからのやり取り、行動から東堂は葵の言葉に時折、反応して攻撃を仕掛けて来ることが分かっている。あの伸縮自在の両手足を持つ人魔との戦いの中でも、それだけは分かっていた。見守ると決めた以上は、いつだって葵の姿を戦闘中でありながらも探していたのだから。きっとそれが、詰めの甘さにも直結している。葵と東堂が真正面から戦うのなら、雅も自分自身の戦いに集中できる。けれど現状、それが成立していない。
だからこそ、成立させるためにやって来たのだ。
「東堂君、お願いです! 姿を、現して!!」
その強い言葉に、景色が揺らめいた。
「そこだ!」
雅は全速力で駆け、煌めく刀の斬撃から黒の短剣で葵を守る。続けて、景色に消えて行きそうな刀の柄を握る、僅かに見える手から腕の位置にアタリを付けて、一か八かとばかりに白の短剣を、“半分に裂いた白い帯”を刺してから、振り抜いた。
アタリは的中した。景色の中からヘドロのような血飛沫が短剣が貫いた方向に飛ぶ。
「血で見えない敵を見えるように? でもそいつ、血も景色に溶け込ませるよー?」
刀を持つ手を持ち替えて、見えない東堂が雅に刀を振るう。首を落とすほどの勢いを持った斬撃だったが、リコリスが水流で弾いてこれを阻む。
「自身の物なら溶け込ませられても、これは溶け込ませられません」
どうして刀まで消えるのか。それは疑問であったが、ついでに答えが出た。別に難しい話では無い。
刀に東堂は自らの血を塗りたくっているのだ。つまり、この人魔は自らの血を全身に纏うことで景色に溶け込むのだ。それも自らの意思で自在に見せたり、見せないようにしたりと無茶苦茶な性質を持っている。だが、幾らリコリスが全身の皮膚がふやけて落ちるように『水』の変質を行ったとしても、全ての皮膚が短期間に全て落ちることはおかしい。そもそもボロボロの服を着ていたというのに、その箇所だけが景色に溶け続けていなかったこともおかしな点だ。つまり、あれは内部からと外部からの水によって、自身と服に塗りたくっていた血液が洗い流されたことによって、姿が晒されたと考えるのが妥当なのだ。
短剣が貫いた先には東堂のヘドロのような血を浴びることで、紅へと染まった帯の半分がある。これは東堂の腕を短剣が貫いたときに、合わせて彼の腕の中を通過している。即ち、自身で腕を断たなければ決して逃れられない目印となった。
なにせこの帯は、ヘドロのような血を塗りたくろうと、それが海魔の性質を持ち合わせていれば“紅”に染まる。どれだけ姿を隠そうとしたところで、この帯が見えなくなることはない。だからこそ雅は左右に視線を飛ばし、『風』の変質を終わらせたところに、まず黒の短剣を右に投げる。続いて自由になった右手で紅の帯の端を掴み、更に東堂の腕の中を通す。そこで、海魔の血を浴びて剣身が紅と化した短剣を左に投げる。これで両手が自由になった。逃げようとする東堂に構うことなく、雅は帯の端と端を掴んで交差させて結び、何重にも固結びを施してから彼を解放する。刀身が景色に消え、雅を守る水流もリコリスが止める。後方に強く跳ねて、左右に投げた短剣が時間差で角度を変え、緩い風圧を受けて雅の元へと奔り、それを華麗に受け止めて、自身の役目が成功か失敗かを確認する。
「これで見えますか?」
「……はい、ありがとうございます」
紅の帯はしっかりと目印として機能している。人間の再生速度では無く、海魔の再生速度に準拠しているならば、あの帯は再生された筋肉と皮膚に覆われ、簡単には外せない。それくらい窮屈に縛り上げた。もしも腕を切り落とすという英断を下したとしても、東堂は片腕だけで葵とリコリスと戦うことになる。さすがに今まで遭遇した海魔の中にも、腕をすぐに再生させるような存在は居なかった。現に両手足を伸縮自在にしている人魔の腕と足の骨は未だ、再生の兆しを見せていない。人間を素体にした分、回復力は人間に寄っていると考えられる。片腕での戦闘という不利を、人間としての精神が、まず許さない。いや、それよりも片腕を自分で切り落とすという英断を下すことを、人間としての理性が拒む。だからこそ、一時的であってもあの紅の帯は目印として有効なのだ。
「面倒掛けちゃったみたいで御免ねー。でもこれでー、葵も行けると思うからー」
先ほどまでは、見えていなかった。
その「見えていなかった」や「見えないから」を口実に、葵は東堂と戦うことを逃げていた。だが雅が目印を作った以上、もうその口実は遣えない。結果的に、雅は更に葵に現実を突き付けたことになってしまったが、これを一体、誰が責められるのか。
葵さんは、東堂を殺すと言ったんだ。その責任を果たさなきゃならない。それに私は、その言葉を信じているから。
もう、掛ける言葉は無い。雅は急いで鳴たちの元へと戻るため走る。




