【-それを覚悟とは呼びたくはない-】
「……全ての罪を背負ってどうする? その後、あんたは救われんのか?」
アジュールが頭を掻きながら、ナスタチウムの進言を止めようとする。
「良いんだよ、俺は救われなくて構わねぇ」
おかしい。ディルは異常だった。しかし、ナスタチウムもまた異常だ。
「それよりさー、飲んだくれの連れていたショタはどうなったわけー?」
「まだそこの拠点の中で気を失っている。あの餓鬼の変質は一工程多いんだよ。だから、それを省くための知識と技術を叩き込んでいる最中に倒れた。まぁ、いつものことだ」
「いつもの、こと?」
「ナスタチウムのいつものことを真に受けちゃ駄目だよ、鳴」
一度もジギタリスとの手合わせで気絶したことが無いのだろう。鳴は、まさかそんなことが起こるのという目で男を見ていた。
「それよりもなぁ、さっきから体がウズウズしてんだよ。奴の場所に行けって、なぁ!」
「奴?」
「『バンテージ』だ。生きてんのなら、また俺は奴と拳を交えんだよ。一度、二度、三度、これで四度目だ。いい加減にケリを付けろと全細胞が訴え掛けている。分かるんだよ、奴が近くに居ると武者震いが起こる。全ての意識が討伐することに向き、奴の放つ気配が毛を逆立たせる。中途半端な生命を殺すのは俺がやる。『バンテージ』とやり合うのも俺だ。だが、そこの餓鬼が知り合いだという中途半端な生命のケリは、俺じゃなく餓鬼がやれ。俺はそれに関しては不干渉を貫かせてもらうぜ。そんな罪の擦り付けだけは勘弁だからなぁ」
ナスタチウムのせいにすれば、葵は東堂を殺すことも、できるかも知れない。しかし、この男はそれを拒んだ。他の殺しは自身がやると言っているのにも関わらず、葵だけは突き放した。責任転嫁と責任逃れを葵に与えず、殺しと向き合えというメッセージのようにも受け取れる。
もしも雅が葵の立場にいたならば、恐らくはそのメッセージを受け止め、真正面から罪を被ることを決意するだろう。だがそれは、雅のように苦しみと辛さ、悲しさと悔しさ、それらを呑み込んで、前に向かうために「殺し」を執行できるような人間にしかできないことだ。
葵は雅とは違う。『慈善』の心を持つ者に、罪は背負えない。非人道的な行いと向き合えない。なにせ彼女は、誰も殺したことがないのだから。ただ友人に言われ、物を買いに出掛けて帰ったとき、海魔が町を襲ったというだけだ。悲劇的な話ではあるが、自らの手で人を殺したわけではない。
雅は一度、人を殺している。楓もまた人を殺している。
葵は一度も殺していない。誠も殺していない。きっと、気を失ってこの場に居ない誠にも、人を殺す決意はできはしない。
かといって、雅だって淡々と人を殺す決意ができるわけではない。ただ一度だけ、もう一度だけ、それでその相手が救われるのならば、という痛みを抱える代償の決意だ。
これだけ踏まえるならば、ナスタチウムは薄情者以外のなにものでもない。殺すと言うのなら、葵の重みもまとめて始末してくれれば良いというのに。
そんな思いで雅がナスタチウムを睨んでいると、さすがにその気配を感じ取ったのか、男は不敵な笑みを浮かべる。
「わりぃなぁ、ディルの餓鬼。俺は『慈善』でも『偽善』でもねぇ、俺のやりたいことをやるだけだ。リコリスの餓鬼に因縁がある人間か海魔かも分かんねぇもんを殺す『慈善』も、『偽善』も持ち合わせていねぇんだよ。はっ、なんでもかんでも、使い物にならなくなった餓鬼と一緒にするんじゃねぇよ」
言う通り、考えてしまった。
これがもしディルだったならば、と。
あの男は殺しを嫌っている。しかし、今のような状況であれば、ナスタチウムと同様に、最後の始末を任せろと言うだろう。そして、雅と同じように『偽善』を振りかざし、葵の友人も殺すはずだ。その後、一体どのような表情をして、どのようなことを言って、どのようにそれらを背負って行くのかすらも、想像できてしまう。
だが、違う。ディルとナスタチウムは、違う。戦場で振りかざすものには『偽善』など無く、あるのは無頼の暴力だ。
「飲んだくれの意見を、飲むわ」
「リコリスさん?!」
葵が素っ頓狂な声を上げる。
「だって、これは飲んだくれの問題じゃない。“あなた”の問題なのよ。関わった私の問題でもあるけれど、“あなた自身”が、考え、決断し、そして遂行しなければならないことよ。本当の本当に、友人を思いやる気持ちがあるのなら、『慈善』の心に賭けて、苦しみから解き放ってやりなさい」
「あたしにはできません!」
「……死にたくないなら、死に物狂いでやってください。生きるためにやることは決まっています。葵さんの、夢見がちな妄言なんて聞いている暇なんて、ありませんから」
唇を強く噛んでから、雅はかつてディルに言われたことを、綺麗な言葉に直して葵にぶつけた。このままでは押し問答で、埒が明かない。
そして、全てが前には進まない。
「だって、雅さんだって知っているでしょう? 東堂君は優しい人で、とても、とても世話好きな人で、周りからも信頼されていて」
「それが……なんだって言うんですか?」
心を鬼にするしかない。
「彼だけを特別視して、殺さずに放置することができるんですか? 私たちは毎日、海魔の襲撃に怯えながら生きています。そこに、彼まで加わったら夜も碌に眠れません。いなして、逃がしていればいつかは勝手に倒れるかも知れません。でも、長期間に渡って生存する可能性だってあるんです。彼が死ぬまで、脅威に晒され、怯える日々なんて、真っ平御免なんです。いつまでも止まってはいられません。前に進むしかないんです。前に進むためには、彼を――実験台にされて適合してしまった人たちを、殺すことでこの世から解放するほか、無いんです」
葵に分からせるための言葉でもあったが、同時に自分自身にも言い聞かせることでもあった。もはや東堂は人では無い。そして海魔でも無い。人魔という新しい種族、或いは種類の海魔になった。だから、討たなければならない。そう、討つという名目で、殺すしかない。
東堂だって嫌だろう。実験台になった人だって耐えられないだろう。不本意に自分の体が勝手に動き、本能のままに人を殺す日々は、精神を腐らせるに違いない。ならまだ真っ当な精神が残っている間に、彼が彼である内に、殺すことが救いになる、と無理やりにでも理論を作り上げなければならない。
果たして、その場で本当に殺すことができるのか、怪しいが。
「……あたしが、東堂君を、東堂君である内に、殺す……」
「はい」
「どうして、あたしが……」
「いい加減に、して。あなただけが、悲劇のヒロイン振らないで。全員が全員、悲劇を持って、いるの。特別なことじゃ、ない。あなたが特別、悲劇に見舞われているわけじゃ、ない。私たちだって、悲しみにぶつかって、苦しんで、それでも、悔やみながらも、前に、進んでいる、の。私だって、雅だって、楓だって、綺麗なままで居たかった。女の子、だから……綺麗なままで、居たかった。でも、それができない世界だって、もう、分かっていること、でしょ?」
鳴が諭すように言う。けれど声は震えていて、今回ばかりは誰でも分かるくらいに怯えている。人殺しを良しとして磨き上げられた強さを、そして振るって来たものを、また人を殺すために使うかも知れないという恐怖に、立たされているのだ。それが間違いであったことを知っているから、分かっているから、鳴は立ち向かっている。
「……分かり、ました。あたしが、東堂君を、殺します」
でも、と葵は付け足す。
「あたしは弱虫で、決意も弱くて、直前になったら逃げ出すかも、知れません。手を貸してくれとは言いませんから、見届けて、ください。お願い、します」
雅と鳴は静かに肯く。
「話は纏まったねー。じゃー、三つに班を分けようかー。ディルを首都に向かわせる組、葵の決意を見届ける組、そして、罪を背負う組。正義漢と火竜はどれにするー? 私と飲んだくれはもう入るところが決まっているんだよねー」
「半殺しを一人に任せるわけには行かないね。アタイも付き合うよ。ついでに誠も連れて行かせてもらう。まぁ、なにさ。あいつだけなにも知らないままで居るのは、違うだろう?」
アジュールの決意は雅や葵に比べたら、ずっと強固なものだろう。
「じゃぁ、誰がディルを?」
「ワタシが、連れて行く」
リィが手を挙げる。
「首都の場所なら、知っているから。ワタシが、連れて行く。でも、時間が掛かると思うから……その、早く追い付いてくれると、助かるから」
「なら、そこに僕が付き添おう。どうやら、“死神”は海竜を殺そうとしたらしいじゃないか。ふと我に返るだけならまだしも、また錯乱して海竜に危害を加えないとも限らない。それを止める者が必要だろう? まぁ、僕の力で止められるかどうかはともかく、時間稼ぎにはなるだろう。要は、海竜が言っている通り、早めに合流してもらいたいところだ」
リィだけでは不安が残っていたが、ジギタリスが付き添うのならある程度、安心できる。鳴が少々、不服そうだけど、好意で物事に荒波を立てるのは不謹慎と心得ているのか、なにも言わずに黙っている。ただし、その気持ちも分からなくもない。雅もまた、ディルと一緒に行きたいと思っている。けれど、やはり好意よりももっと大事なことに、目を向けるべきなのだと分かっている。だから、葵の要求に肯いたのだ。
「なら、ほとんど決まったねー。私と葵に、葵のクラスメイトを寄越すようにしてねー。その判断は、葵とクソロリしかできないから、慎重に。それ以降は手を出さないで。それ以外を相手にすることがあっても、全てナスタチウムと火竜に回すように。クソロリと寡黙ロリ、分かった? あとショタにもちゃんとこのことは聞かせておいてよ? あとは合流方法だけど、どうしようかー。私の残滓に頼るのも、ちょっと微妙なんだよねー、葵の手助けで精一杯になるかも知れないしー」
含みのある言い方だったが、雅には分からなかった。
「お姉ちゃん、ワタシの……ううん、海竜の牙と骨で作った短剣を出して」
リィが雅に近付いて言った。言われるがままに黒い剣身と黒の帯を持つ短剣を抜いて、リィに慎重に手渡す。
「これは、ワタシと繋がっている。ワタシの分身みたいなもの、だから」
柄頭の帯を解き、半分に折ったところで犬歯に引っ掛け、二枚に千切る。その一方をリィは腕に巻き、もう一方を雅に、短剣と合わせて返す。
「竜の加護があるんだ。千切っても、その帯は再生する。再生するってことは、そこの始祖様が腕に巻いた方とも繋がるってことさ。なるほど、それなら帯を辿れば、始祖様の居場所は分かるってことかい」
雅は黒い帯を短剣の柄頭に結び直しながら、アジュールの説明を受け、リィの行動の意味を察した。
「全てが終わったら、お姉ちゃんの、力を帯に込めて。そうしたらワタシ、分かるから。ワタシが、この腕に巻いた帯に力を込める。そうすると、再生するから」
「うん、分かった」
話は纏まった。纏めるまでに随分と時間を要したけれど、恐らくそれが普通なのだ。
全ての有ったかも知れない世界において、人を殺すという行いは、許されるべきものではない。無論、この腐った世界であっても、本来ならば許されない。
しかし、現実は違う。使い手は変質の力を誤らせれば、人を殺してしまうことがあっても、それで捕らえられることは滅多に無い。それは、使い手が海魔に立ち向かう唯一無二の戦士であるからだ。だから、雅の知らないどこかでは討伐者ではない使い手の横暴によって、何人もの一般人が死んでいるかも知れない。使い手同士が争って、命を落としているかも知れない。この世界のヒエラルキーは常に『水使い』を頂点として、使い手が高い位置に居座っている。だからこそ、横暴が通ってしまう。人間を殺しても、すぐには捕まらない。さすがにその特権を利用して人を殺し続ければ捕まるが、一人だけ殺しても「事故」で済ませられる。雅がそうであるように、楓がそうであったように、許されてしまう。“異端者”であれば更に貴重という点で、許されてしまう。
だからと言って、目を逸らし続けて良いことではないのだ。人間が海魔になって、人魔と呼ばれる存在が現れた。それは元が人間である以上、人を殺すことと同義だ。自らの脅威になるだけでなく、他者にも危害が及ぶであろうその元人間を放置することはできはせず、また海魔に寄生されたわけでもないために、海魔の部分だけを討つこともできない。
ならば殺さなければならない。平和のために、命を取らなければならない。しかし、それをたった一人で決めることは、人殺しや殺人鬼の思考と同格になってしまう。
殺さなければならない。そう決めたのなら、話し合う。是非を問う。正しくないことは分かっている。けれど、決して悪では無い。そうやって理由を付けて行く。慎重に、自身の精神が「ただ殺したいから殺す」というものを持っていないことを確かめて行く。
そうやってようやく、雅たちは動けるのだ。人殺しでも無く、殺人鬼でも無い、ただ討伐者として元人間の海魔を討つという目的に辿り着くことができる。
ただ、ナスタチウムが始末を受け持つと言っても、半殺しにはしなければならず、葵に至っては旧知の友を討たなければならない。なにも、話し合って、良い結論に達したわけではない。殺す殺さないが関わっているのだから、そもそも良い結論など伴わないのだが。
「それじゃ、ディルをお願いね?」
リィの耳元で囁く。
「……会わないの?」
「今、会ったら、ディルを心配して上の空になっちゃうかもだから」
これは誰にも聞かれたくなかったこと。だからこそ、わざわざ耳元で囁いたのだ。
ディルが普段のディルでは無くなった。使い物にならなくなったディル。そんな風に言われたら、心配して戦いどころではなくなってしまう。ましてやその姿を見てしまったら、やり切れない思いに駆られて、小さな失敗で大きな過ちを冒しかねない。




