【-ずっと、ただ一人を忘れられない-】
「違う」
雅は反論する。
「『ブロッケン』は私の影に潜んでいた。潜んでいたからこそ、『下層部』のあの施設に行き着いたところで姿を現した。つまり、最初から私たちがあの場所に居たことは相手には筒抜けだったんです。そして、リコリスさんの撒いた幾つもの香水が混ぜ合わされた匂いを海魔が嫌って、近寄らないと踏んで安心し切っていた。実際には、地上からでは無く、空からの襲撃。それもマッド・ブレイヴなんていう後先を考えない特攻だけしか考えていない海魔だった。空からであり、匂いにも無頓着なそんな海魔だったからこそ、あの襲撃は起こったんです」
「言うじゃない? でもさー、だったらどうして、クソ男は『ブロッケン』が潜んでいるあなたを、連れて歩いていたのかしら? あの『ブロッケン』の言い方からして、あなたと出会ったときからあのクソ海魔は、あなたの影の中に潜んでいたのよ? だったら、臭いで嗅ぎ分けられるはずじゃないのー?」
雅の影から、『ブロッケン』は“人が海魔を操る様を見ていた”と言っていた。それは姫崎 岬のことだ。海魔の声帯のレプリカを使い、それを笛にして超音波を奏でることで一時的に海魔の理性では無く本能を昂ぶらせる。下級の海魔であれば、従わせることさえできていた。
それを“見ていた”ということは、雅がディルと出会うその前から、『ブロッケン』は影の中に居たということになる。そして、臭いで嗅ぎ分けられるはずのディルがそれに気付かなかったのは、おかしい。
更におかしいことを付け加えるならば、リィが反応しなかったのはどうしてなのか。どうして、リィは雅の影の中に潜む『ブロッケン』に敵対心を抱かなかったのか。それどころか、彼女は雅にどこか懐いている様子さえ見受けられる。
雅は自身の両手を見つめて、困惑する。自分自身が、ディルに容疑を掛ける理由になってしまっている。そのことが、非常に心苦しく、そして耐えられない。
「だんまりは駄目だよー、クソロリ? それとも、クソ男と一緒で、海魔と通じていたりするのかなー?」
「違います、私はそんな」
「否定したってダーメ。あなたの影の中に、『ブロッケン』が隠れ潜んでいたことは否定できない。それは確実に有ったこと。そこを否定することは、絶対にできないの」
「そのガキの中に『ブロッケン』が潜んでいることは、知らなかった」
口を割ったディルの発言にリコリスが「はぁ?」とあからさまに不愉快な表情を作る。
「それで逃げられると思ってんのー?」
「俺が臭いで嗅ぎ分けられたのは、『下層部』での一回だけだ。なにせ、それまで全く臭わなかった。ポンコツですら気付かなかった。海魔が海魔の気を感じ取れないのはおかしい話じゃないか。だから、俺はこう推論する。『ブロッケン』は、八の頭を持つ竜を起こす瞬間、或いはその直前まで、存在が希薄だったのではないか、と。あのときまで『ブロッケン』は概念として存在していて、けれど存在はしていなかった。だから、臭わなかった。ポンコツも感じ取ることができなかった」
全員がリィを見つめるが、当の本人は話に自分が出ているとは分かっていないらしく、驚きも動揺も見えない。
ただ、リィの海魔の気配を読み取る力はディルの想像ではない。客船型戦艦に潜んでいた海魔について、彼女は入浴の最中に既に察知していた。それを雅と葵が気付けていなかっただけだ。そして、ディルもまた臭いで海魔が潜んでいる可能性を示唆していた。それら全てを聞いていながら寸前になるまで、異変に気付けなかったために、あとの祭りとなってしまったのだが。
「そんなの、言い訳じゃないの」
「だが、そうとしか考えられない。俺の鼻が馬鹿になっていたのなら認められるが、そこのポンコツが海魔の気配を感じ取らなかったことの説明にはならない。確かに、出会った当初から『ブロッケン』は影の中に居たのだろう。だが、そのとき、『ブロッケン』に気配は無かった。でなければ、あのポンコツが迂闊にそんな危険な存在だったはずのクソガキに、どうして近付くって言うんだ?」
「精神だけを水に溶け込ませて辛うじて人間の態を保っている人で無しが居るように、『ブロッケン』が肉体を仮死状態に置き、精神だけを影へと溶かし込んでいたとすれば、君の話にも強引に辻褄を合わせることができる。極めて強引にだけれど」
「クソ男の肩を持つつもり?」
「持ちはしない。けれど、人で無し? 考えてもご覧よ。この“死神”が、海魔を見過ごすような人間性を持ち合わせていると思うかい? 僕はどう考えたって、この“死神”が目の前に海魔が居るのに見逃すような慈悲を持っているとは思えない。たとえ人間の影の中に潜んでいようと、海魔だと断定すれば、躊躇わず殺す。その後、人殺しと呼ばれようが『ブロッケン』に復讐を果たせたという事実だけで、“死神”は報われる。そんな彼が、あのときあの瞬間まで気付かなかったのなら、僕はそれを言い訳ではなく事実であるとしか、受け取れない」
そう言いながら、ジギタリスは続ける。
「ただ、偽名にハーブの名を遣っていた。こればかりは僕も納得できない。あの海魔たちと通じていないという証拠を示してもらわないと、やはり“死神”への疑いは払拭することができないだろう」
そればかりは示してもらわないと、と小さく呟いたジギタリスに、ディルは分かりやすいほどの舌打ちをする。
「『ディル』がハーブの名だと知ったのは、そう名乗るよりあとのことだ」
「名乗るより、あと?」
鳴が雅の代わりとばかりに首を傾げた。
「そうだ。ディルという名は、俺の本名となるアルファベットの一文字に棒を付け足して、逆から読んだものだ。だが、本名は少し弄らせてもらった。アルファベットを置き換えただけで、強引に本名として呼ぶことができる程度にだがな。棒を付け足したのは、ただ一人を忘れないため。そして、俺は常に独りであるということを、その名から努々、忘れないようにするためだ。なんだ、この説明じゃ不満か?」
ただ一人を忘れず、独りであることを忘れないための棒の付け足し。ならば、その棒をディルはきっと1と認識しているのだろう。
ハーブの名であるディルの綴りは、『Dill』。アルファベットの一文字から棒を外して、逆から、読む……?
「ただ一人を忘れないため? クソ男のクセに、センチメンタルなことを言うじゃないのー。なら、それが誰なのかも白状できるよねー?」
「……クソ女、テメェは命の駆け引きの中で生きて来たな? あの飲んだくれも、どちらかと言えばそっちの生き方をして来ただろう」
「ええ、クソ男もそっちなんでしょう?」
「真逆なんだよ。俺の人生に、命の駆け引きなんざ有り得ないはずだった。平穏にして安穏、海魔が襲って来ようと知ったことじゃない。少なくとも、俺を守ってくれる輩は、幾らでも居た。俺はテメェと違って、温室育ちの、クソガキの一人だった。それが、どうだ? たった一つの出来事が、俺をここまで堕とさせた。嗤えて仕方がねぇんだよ。本当に、心の底から、嗤えて来る。たった一つの、たった一つだ。一つのことで、命を賭す戦場に俺は立つことになった。この気持ちが、テメェらに分かるか? 名誉なんざ要らねぇんだよ、才能も欲しくねぇ、名声だって求めちゃいねぇ、肩書きも不要だ。なのに、戦わなきゃならねぇ。どうしてか? そこのポンコツに殺されるためにだ」
奇妙な嗤い方をするディルの表情は、雅が今までに見たことの無いものだった。後悔なのか、懺悔なのか、或いは怒りなのか、執着なのか。そのような黒い感情が渦巻き、一つに合わさった嗤い顔は、リコリスやジギタリスでさえたじろぐほどだった。
「俺を信じろとは言わない。なにせ俺はテメェらを信じちゃいない。テメェらだって、真のところは昔と変わらず、誰一人として信用しちゃいないはずだ。だったら、この言葉にどれほどの意味があるかも定かじゃねぇがな。俺は、あのクソ海魔どもを殺してから、そこのポンコツに殺されたい。それまで俺を監視するなりなんなりすれば良い。クソ女、テメェの残滓ならそれぐらい朝飯前だろ? 容疑を晴らす気は無い。テメェらの意見に反論する気も実のところは無い。ただ俺は、首都を目指させてもらう。その道のりを邪魔するんなら、誰だろうと押し退けるだけだ」
その身勝手な物言いに、呆れたのかそれとも恐れを感じたのか、リコリスもジギタリスもなにも言わなくなった。淡々と火を絶やさないように焚き火を調節しているディルの姿を見て、やがて誰と無く、その場をあとにする。一時であれ、空気を払拭したいという思いがあったのだろう。葵も雅に小さく会釈をしたのち、リコリスのあとを付いて行った。そして鳴もまた、ジギタリスの背中を追って行った。
「もう少し、言い方ってものがあったと思うんだけどなぁ」
「……なんだその、自分だけは俺の気持ちを分かっているみたいな顔は」
「分かるよ。私だって独りだった頃があるし」
歩いてやって来たリィの手を掴み、一緒にその場に座らせる。力が抜けて立てないのだから、ディルの傍まで行く気力も湧いて来ない。
「俺とはぐれたときか?」
「もっと前。ディルと出会う前。私は独りだった。お父さんはどこに行ったか分かんないし、お母さんだって死刑になったのかすら分からない。ケッパーが調べていたことなんだけど、“異端者”の親類は、『上層部』での実験に使われることもあるんだって……楓ちゃんの両親は、それで亡くなったみたい。ケッパーは、それを楓ちゃんに知られたくなかったから、破り捨てていたけど」
「そうか」
「ねぇ、ディル。私とリィは信じているからね? 疑う余地も無く、私はずっとディルを信じ続けるって決めたんだよ。リィを助けるために、あの施設に向かって、ジギタリスと対峙してもう駄目だってときに、ディルが現れたときに、そう決めた」
「随分と遅いな」
「当たり前でしょ。それまでの言動の一切のどこに、あなたを信じる要素があったのよ」
ああ、傍に行きたい。寄り掛かりたい。そんな風に思いつつも、今日の疲れでまだしばらくは立てそうにない。そして、そんなことをこの男が許すわけも無い。
「ディルは、ワタシに殺してくれって言うけれど、どうして?」
「……罪滅ぼし、だな」
リィから視線を逸らして、ディルは答える。そして、頭を掻きながら、仕方無さそうに言葉を紡いで行く。
「独りになる前――ただ一人を忘れないようにする前、俺に“約束”を求めて来た女が居た。同い年の、女だった。俺はガキで、そいつもガキだった。突き詰めて言ってしまえば、ポンコツ。俺に“約束”を求め、そして“約束”させたそのガキに、テメェの容姿はなにもかもがそっくりなんだ。海竜の腹を裂いて現れた、その時からずっと、な」




