【プロローグ 02】
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あの時、自分は死んでいたのではないか。
女は不意にそう思うことがある。それは人で無し――人外に自らすすんで成ったときのことだ。その時のことは今でも悪夢として自らに襲い掛かり、碌に眠れず一夜を明かすこともある。
人で無しがそもそも、夢を見るのかと、そういった指摘に対して人外になった女は、どうにもよく分からないが見るのだと答えることしかできない。水に意思を溶け込ませ、体全てを水という水に変えた。それでも女は夢を見る。良い夢は見ない。見るのは常々に、悪い夢だ。
体を水に変えたことを後悔しているのだ、と誰かは言うかも知れない。しかしながら、あの時ネジを外さなければ、きっと己は生きていないと女は思っている。あの場で、あの選択が間違いであったのならば、むしろ正解は一体なんであったのかと問い返すぐらいの余裕もある。
それでも悪夢を見る。水という流動的で、形としても不安定で、人間としての形を構成するだけでも一苦労なその体でも、夢は見る。
衣食住には困っていない。全身が水である以上、衣服など纏えない。だからこそ、女は常に裸体を晒していることになる。そのことに興奮は覚えない。そのような性癖は無い。そして裸体と言っても、ありのままの姿を見せているわけではない。水で描き、作り出した形だけの衣服――全てが水であるため、衣服という呼び名ですらないのかも知れないそれを纏っている風に見せ掛けている。だから、身に纏うものに困らないと言えば困らない。
自らも水である以上、髪の毛だって拘らない。拘らないのだが、どれだけ髪色を変えようとしても金髪に白のメッシュは変えることができないし、どれだけ体付きを自分自身から遠ざけようとしても、そうはならない。目の色だってそうだった。そして、生きるために必死だった幼少の頃より手放せないキャップ帽と、大切な贈り物である外套も、何故だか濡れることなく身に付けることができてしまう。それはまるで、水に残っている己の意思が、己を認識するために必要な情報だけは手放さないように頑丈に、頑なに守っている最後の砦――水で言うならばダムであるかのように思えてならない。
食べ物には困らない。食べるに困らないことは良いことだ。しかし同時に、味が分からなくなった。別に構わない。
住む場所にも困らない。残滓を置けば、女はどこにでも現れることができる。そして、どこの男とも快楽に文字通り溺れることができる。この体は、人間性だけは露骨に残しており、そういった快感も伝えては来てくれる。だが、人であった頃よりも鈍いような感は否めない。だからといって、己はそこまで経験がある女ではないのだが。
衣食住の現状、どれにも困っていない。心配事などなにも無いのだ。行きずりの男に託された娘を討伐者として一人前にすること以外に、困ることなどあるはずがない。
しかし、女は悪夢から逃れられない。それは、無機質なはずの水に記録されている映像だから、なのかも知れない。




