【-樹は枯れ、花は咲く-】
♭
音も無く、静かで、穏やかで、のどかで、和やかで、それでいて美しい。
小鳥のさえずりが男の耳には聴こえた気がした。
だが、それは幻聴だ。小鳥はもう、この世には居ない。家畜で飼われている鶏ならば居るが、その子供はヒヨコと呼ばれる。空は飛ばない。
「走馬灯でも見ているのかえ?」
「は…………ぁ」
男の体には鋭利な爪が、深く、深く突き刺さっていた。天秤刀は手から落ち、泥沼の中に沈んでいる。
「結構、粘った方だと思うけどねぇ」
「手間取らせおって! この戦場を作って、もう十五分じゃぞ!? 十五分も妾とたった一人で戦い続ける人間がこの世におるなど、あってはならないことじゃ!」
「そこの」
男はディルを指差す。
「討伐者は一時間ぐらい頑張ると思うよぉ?」
「まぁたそのような世迷言を!」
爪を引き抜き、ベロニカが男から離れる。男の血飛沫に連動するように、木々や植物から昆虫やハチが飛び出し、彼の者へ張り付く。
「ええい、忌々しい!! 特にこのハチという虫は大嫌いじゃ!!」
体を振り乱し、腕を動かして虫を払い落とし、次々と泥沼に沈めて行く。
「ヒィッヒィッヒィッ」
何故だか引き笑いが零れる。
ああ、滑稽だ。
笑える話じゃないか、と男は思う。
ヒーローを目指した男は、途中で挫折し、ヒーローらしくない身の振り方をして来た。
なのに、ここで今にも死にそうな自分自身は、まるでヒーローが死ぬときのような、あの侘しさと、虚しさと、悲しみを抱いている。
触腕が泥沼を叩き、瀕死の男をベロニカに近付ける。
「もうすぐ死ぬんだけどさぁ、その前に言っておきたいことがあったんだよねぇ」
狂気染みた表情にベロニカが凍り付き、ついで触腕が彼の者を殴り飛ばす。木々で背中を打った彼の者を、二本の触腕が押さえ込み、男は顔を近付ける。
「醜い君をどうやって犯そうかと考えたんだよ! その結果、三十回は犯せたよ!! これがどういうことだか分かるかい!? 人間や人形、二次元以外にも性の対象を増やすことができたってことさ!! ああ、実に爽快で愉快な話じゃぁないか!! 君の魚のような体臭に興奮し、その露出度の高い衣服を引ん?いて! そこにあるだろう柔肌を揉みしだき、男の象徴を君の中へと突き入れる!! ああぁ、なんて気持ちの良さそうなことだと思わないかい!? これ以上無い至福を、妄想の中でさえ感じ取ってしまったよ!!」
「ひっ」
ベロニカが男の言葉に鳥肌を立て、汚らわしい眼差しに身を震えさせる。
「ああ、そうだ。そういう顔が見たかった。僕はそういう顔を糧にして、ずっとずっとずぅっと、おかしな人間と思われようと生きて来た」
男はベロニカに更に顔を近付ける。
「でもそれは、僕が抱くコンプレックスを押し隠しているだけに過ぎないんだよねぇ! 分かっているけどやめられない! 分かっていたけれど、抑え切れない! この衝動に、今、海魔である君がドン引きしてくれたことに、僕は心の底から最低で最悪で最高の仕返しが出来たと思っているよぉ!!」
「そ、れ以上、顔を近付けるでない、この人間!」
ベロニカは爪を振り乱すが、男は瞼を見開き、視線は一向にベロニカから外さない。
「この狂った僕が、君のようなクソみたいな海魔に最期に言えることはただ一つ! 僕が死んだあと、死ぬ気でこの場から逃げるんだ。でないと、君は絶対に後悔する。癒えない傷痕を付けることになるだろう!」
男は舌を出し、ベロニカの顔を今にも舐め回しそうな素振りを見せ、その後、気怠そうに触腕の拘束を解き、そしてその触腕の力を頼りにフラフラと移動し、泥沼の外にある植物に覆い尽くされた場所に辿り着く。
背中に突き刺さっていた木の根が外れる。男はボトッと植物のベッドに横たわるようにして落とされる。
己の生涯は、果てしないほどにコンプレックスに満ちたものであった。
ヒーローになれず、人形に性の衝動をぶつけても、チェリーボーイであることには変わりなく、それを隠すようにおかしな言動を続けた。
二十年前のあの日から、そうなった。そうなった方が、楽だった。コンプレックスと向き合うのが怖くなり、克服することもただただ怖くて仕方が無かった。
ひょっとすると、己は、そんなコンプレックスをひた隠しにしている自分を看破してくれるような異性が現れることを、望んでいたのかも知れない。
結局、そのような異性は現れることはなかったが。
己の器は、小さかっただろうか。いや、決して大器とは言えないけれども、己は、己としては真っ当な器を抱いていた。だから、己の人生に、悔いなど無い。
惜しむらくは、珠玉の作品が、花開く瞬間を見ることができないこと、だろうか。
「才能の花が咲く……さぁ、逃げ惑え、海魔」




