【-突き進め-】
ディルとともに、マッドブレイヴが特攻してエレベーターのドアに空けた穴から九階の廊下に入る。
八階は巨大水槽があったが、九階にはそもそも設備はほとんど無く、人の姿も人気すらも無い。しかし、それでもマッドブレイヴが荒らすだけ荒らしたと分かるほどの、外壁も内壁も関係無く、ありとあらゆるところが穴だらけであった。床に穴が空いていないのは、天井を貫くことができなかったからだと思われる。加速が無ければ貫く力は得られない。即ち、空から最上階目掛けて突っ込んで来たマッドブレイヴは、九階の天井に至る前に、この施設の厚みに負けているのだ。
しかし、中に侵入さえしてしまえば、廊下という短くも、マッドブレイヴにとって加速するに足り得る距離があれば、上下は不可能であっても前後左右の貫通はお手の物に違いない。でなければ、エレベーターのドアを貫いて、雅とディルが乗り込んだエレベーター上部に落ちて来るようなことなど有り得ない。
「天井に穴が空いていないなら、どうしてマッドブレイヴは九階に居たの?」
「居たんじゃなく、居るんだよ、まだ」
「分からない」
「だから、垂直に落ちて来たんじゃなく、斜めに落ちて来てんだよ。それくらい理解しろ、クソガキ」
三角形で言うところの斜辺。垂直にではなく、施設の斜め上からの特攻。確かに外壁の穴は――ほとんどが衝撃で穴と呼ぶには不釣り合い過ぎるほどの崩壊具合だが、一部は楕円形に空けられていることが、辛うじて分かる。
「じゃぁ、マッドブレイヴは人の少ない八階以上を狙っているわけじゃなく、意図的に八階以下を狙おうとしているってことになるわけ?」
「そうだ。だが、マッドブレイヴは頭が悪い。教えた通りの角度で飛んではくれず、まだ九階までしか狙えていないってところだろ」
「つまり、マッドブレイヴに指示を出している海魔が居る」
「ああ。そして、そいつは恐らく、」
ディルが言葉を切り、床を踏み締めた。踏み締めたところから波紋のように合金が延びて行き、瓦解していた外壁を塞ぐように展開する。間髪を入れず、なにかが合金に激突した。それも断続的に五回。それでも合金は砕けない。しかし、五つの凹みは出来ていた。
嘴が接触した痕跡だとすれば、マッドブレイヴが五度、ここに特攻して来たということになる。
「居場所がバレているの?」
「走れ!」
雅の問いにはハッキリと答えない。しかし、ディルが「走れ」と言ったことは、ほぼ肯定に値する。雅は体の震えを解き放ち、全身全霊で廊下を駆け抜ける。雅の後方にディルが続く。ディルが走り、床を踏み締めるたびに床から薄くも硬質な合金が延び、外部から特攻して来るマッドブレイヴの特攻を妨げる防壁を築く。
生物と金属の激突。最初は硬質なものが激突したときに発せられる独特の金属音。その後に続くのは、グシャリという生物が潰れるときに発せられる、気色の悪い音。それが止め処無く耳に飛び込み、徐々に感覚が狂い始め、遂には吐き気となって体に影響を及ぼし始める。
「吐いても走り続けろよ! 止まったら蹴飛ばして突き進むからな、クソガキ!」
足取りが重くなり、俯き加減になった雅を見て、吐き気を催していることを察したディルが檄を飛ばす。意地で顔を上げ、前方に閉ざされた扉が見えた。迷うことなく空気に干渉し、『風』の力を付与した空気に向かって白の短剣を投擲し、急加速した白の短剣が扉を穿つ。雅は足を縺れさせながらなんとか飛び込み、ディルが前方宙返りをしつつ部屋に飛び込み、更に中空で、身を反転させて足から着地すると、そこから延びる合金が、雅の空けた穴を塞ぐ。
金属音と生物が潰れる音は部屋に入って数秒後、聞こえなくなる。
「うっ……ぉえ」
雅はゴーグルとマスクを脱ぎ、蹲る。走り終えたことの疲れ、そして溜め込んでいた吐き気が一気に押し寄せ、抑制を越えて決壊する。
「テメェはいつも、なにかしら吐いているよな。だからどこにも筋肉が付かねぇんだよ」
暗に胸のことでも言っているのではと思ったが、それは考え過ぎだろう。ケッパーなら有り得るが、ディルはそのようなセクハラ発言はしない。あるとしたらパワハラである。
「これからどうするの?」
吐くだけ吐いて、続いて部屋の中の壁に突き刺さっている白の短剣を引き抜き、鞘に収める。
「ここに入った瞬間から、マッドブレイヴの特攻が止まった。要するに、ここは特攻の範囲ではないってことだ。この部屋だけ穴だらけじゃないのも、証拠だな。いわゆる攻撃の死角。指揮している海魔がマッドブレイヴにここを狙うように指示し直す時間は、五分も無いだろうな」
「マッドブレイヴは頭が悪いんでしょ? 指示を出すのが面倒臭い場合は、私たちが出るまで狙いを変えない可能性だってあるわよ」
「言うじゃねぇか、クソガキ。まぁ、その可能性もあるわな」
一理あるという意思を示しつつ、ディルは長机を蹴り飛ばし、手で掴んで斧鎗を作り出す。
「まさか、真上まで穴を空けて進むつもりじゃないでしょうね?」
「駄目なのか?」
「施設をこれ以上、ボロボロにさせてどうすんのよ! 折角の休息の場所が、」
「こんな襲われ方をしている以上、休息の場所もクソもねぇだろ。あと、クソガキ? テメェだって分かっていたはずだ。俺たちに、安息の地は、無い。あるとすればそれは、この世から海魔が全て消えた、そのときだけだ」
言葉が胸に突き刺さる。
そう、分かっていた。分かっていたはずなのに、まだ雅はここで安らぎの時間を過ごしたかった。その未練が雅の女々しい発言に繋がっていた。
思い出せ。これでは客船型戦艦のときと同じじゃないか。
このままで良いと妥協したとき、牙は抜かれる。
牙は研ぎ澄ますものだ。そうディルに教わった。
雅は両手で頬を叩き、立ち上がる。
「屋上まで行くの? 全方位から、その、マッドブレイヴが突撃して来る可能性は?」
「そのときは全方位に合金を展開させる」
「あぶり出しされているんじゃないの?」
「有り得なくもない」
「なら、下手に動くのもどうかと思うわ。合金を凹ませる上に、あんな音を出す突撃だもの。私の『風』の力でも、反射し切れる自信が正直、無いわ」
「ほぉ? 力に過信はしてねぇのか」
「ええ、まだ私、弱いから」
「まだそれ以上の強さを求めるか。はっ、悪くない」
斧鎗の石突が床を叩く。
「クソ女ぁ! 聞こえているよなぁ?!」
ディルは部屋全体に響くほど大きな声でリコリスを呼ぶ。
「はぁい、はいはいはい。聞こえてますよー」
天井から落ちた水滴が一滴、落ちる。二滴、三滴と重ねると、落ちる水の量は増え、やがて床に出来た水溜まりはリコリスの姿形を形成する。
「なにか用ですかー、クソ男ー」
「ケッパーはどこに居る? いや、テメェらは今、どこに居る?」
「アガルマトフィリアは一階で動いていない。動く気が無いんだろうねー。でも、馬鹿ロリは屋上に向かって移動中。かく言う私も葵に言われて、仕方無しで二人揃って移動中。飲んだくれとそのガキも動いているねー。これは、火竜が施設の屋上で孤軍奮闘しているからだと思うよー。ジギタリスは部下に指示を出して地下に避難させている最中。寡黙ロリが先に屋上に向かってるよー。現状、ケッパーだけが一階でなにかしているって感じかなー」
アジュールが一人で、あのマッドブレイヴの突撃に対抗している?
そのような状況を作ってしまったのは、雅だ。だから、屋上に行くことは雅にとってその責任を取るためにも必要なことになった。
「そうか……それで良い。テメェの手で馬鹿ガキを制止させられるか?」
「やー、あの子は言葉で止まるほどの子じゃないでしょー。だからって、力尽くも私は好まないしさー、なんでそんなアガルマトフィリアとその馬鹿ロリに気を遣うのー?」
「まだあいつは、英雄になりたがっているような、そんな気が、するんだよ」
「無いってー、無い無い。気にするだけ無駄だってー、だからさー、クソ男。屋上に来て、この襲撃を阻止するのを手伝ってー」
「ちっ、火竜をここで見殺しにすると厄介だ」
「アジュールさんの里のドラゴニュートが黙ってないからでしょ?」
「それもあるが、火竜には乗せてもらった借りがある。ドラゴニュートとはそう何度も関わりたくは無いが、みすみす見殺しにするようなこともしたくねぇ」
予想外の返答だった。ディルなら、アジュールを貶すことを言うだろう。雅はそう思っていたのだが、労わりの言葉が出て来たことが、ただただ驚きにしかならない。
白い竜のアルビノ。ひょっとすると、過去の経験からディルは、ドラゴニュートに対してなにかしら、語ることはない思いを抱いているのかも知れない。
だが、この男にそのような感傷があるのだろうか。
ドラゴニュートは、人に害を成す種も存在する。そして、害を成さないはずの種が突如として害を成す種に変わることもある。手を取り合うことはあっても、心を許してはならない相手。きっと、この男もその点は弁えている。そして、ディルの中で、アジュールというドラゴニュートを見殺しにすることは、どのような点においてもマイナスになるという結論に至っただけと考えるならば、物事はもっと簡略化されたものになるが、果たしてどうなのか。
「一言一言から真意を探ろうとして来るんじゃねぇよ、ウゼェな」
「え、なんで分かるの!?」
「テメェが真意を読もうとしているとき、目付きが悪くなる」
「う……そう、なの……気を付ける」
だが、目付きが悪くなるという癖を、今更、直せるのだろうか。しかも、ここまで放り出しておいて今になってその癖を口にするディルの意地悪さに雅は参るしかない。
「タイミングはクソ女、テメェに任せる。誰か一人でも屋上の一歩手前まで来たなら、それに合わせて俺も屋上に出る」
「はいはいー、死にたがりでも無い限りはそうするよねー。あと、まずは九階から十二階まで這い上がってから言ってよねー。じゃー一旦、残滓は切るよー」
リコリスを形成していた水が、重力に任せて崩れ、水溜まりに戻った。




