【-状況整理-】
会議室の扉前でリィが立ち止まり、雅に開けるように催促して来る。他の四人にも目線で会話をしたが、誰一人として開ける役を受けてくれるような反応をしてはくれなかった。なので、雅は緊張しつつ、且つ息を呑み、ゆっくりと会議室の扉を開けた。
「なんだろうねぇ、人で無しの顔を見ていると吐きそうになる。この嘔吐感は君から発せられる香水をたくさん混ぜ合わせたことによる臭いとは別物だよ」
「黙りなさい、アガルマトフィリアー。でないと、あなたの大事な大事なあの子にもイタズラしちゃうからー」
「テメェらは黙って待つこともできねぇのか、一々、顔を合わせるたびに毒舌を吐いて、餓鬼は餓鬼のままだよなぁ、本当に」
「飲んだくれはきっと真っ当なジジイにはならねぇから、耄碌したジジイになる前にさっさとくだばれよ」
「それを言うなら、“死神”の君が一番先に死んでくれないと、僕は安心して死ねないな。さっさと死ぬのは君の方だな」
帰りたい。
雅は扉を開けたまま硬直し、切にそう願った。しかし、リコリスとケッパーがまず気付き、続いてナスタチウムが「さっさと入れ、餓鬼ども」と脅しを掛ける。そしてディルとジギタリスは犬猿の仲のように、口を閉ざして視線を逸らしていた。
会議室は五角形を描くようにテーブルが用意されており、五人の隣の席が空いている。どうやら、それぞれが師事している相手の隣に座らなければならないらしい。が、よく知らない相手よりも、よく知っている相手の隣の方が、落ち着く。
リコリスの隣に葵が座り、ナスタチウムの隣に誠が、ケッパーの隣に楓が腰を降ろした。そして、ジギタリスの隣に鳴が座り、最後にディルの隣にリィが座って、その隣のもう一つの椅子に雅が腰を降ろした。
「それじゃ、面子も揃ったことだし、会議にもならないだろう会議を始めようかぁ。議長はジギタリスに任せるけど、まぁ堅苦しいことは無しで、提案に質問、返答なんかは各々、自由にしてくれて良いよぉ。僕もそういう堅苦しいのは、嫌いだしねぇ」
ダラーッとテーブルに体を預け、あとのことを全てジギタリスに任せたのか、ケッパーはなにも話さなくなった。楓がしばしケッパーに注意を引いてもらおうと、わざと椅子の音を立ててみたり、喉の調子を整えるフリをして咳き込んでみたりしたが、ケッパーは一切、動かない。視線すら楓には合わせようとせず、ただテーブルに体を預け、だらけ切っている。そんな男の姿を見て、楓の表情が翳ったのが分かった。
「さて、とても難しい話になるけれど、君たちは付いて来られるかい?」
これは恐らく雅たちに向けられたもので、ディルたちに向けられたものではない。ジギタリスであれば、ディルたちが「もう一度言ってくれ」と言おうものなら「聞かなかった方が悪い」という一言で済ませるだろう。逆に言えば、雅たちよりもジギタリスは二十年前の生き残りの優秀さを理解している、ということにもなる。きっと本人は認めはしないのだろうが。
「現状、この『下層部』の施設について、『上層部』には目立った変化無しという報告を部下にはさせている。その後、なんの返答も無いところ見ると、ここであったいざこざについては、どうやら不干渉を貫くようだ。まぁ、なにがあったか自体を伝えていないせいもあるのだろうけれど、しかし、伝えたところでどうにもなるわけでもないからね」
「つまり、この施設は自由に使える、と?」
誠が臆せず訊ねた。
「今のところは、ね。ただ、君たちの襲撃のおかげで五行の壁は崩壊。ついでに、海竜を使った実験体は全て責任をもって埋葬した。警報は生きているけれど、警備は居ない。何者かの襲撃に、酷く脆弱になった。それでも警報が鳴る上に、ここには“死神”も、人で無しも飲んだくれも人形狂いも、僕も居るわけだから、そう容易く侵入を許すことはないだろう。ダムの近くということで、周辺から海魔が襲って来る可能性もあるわけだけど、これについては人で無しによって、ある程度は追い払うことができるだろうと考えている」
「どういうことですか?」
楓はリコリスの力について知らないため、素直にリコリスへと質問を飛ばす。
「香水の匂い、人工物の香り、あとはアンモニアのような強烈な刺激臭を配合した特別な水を雨のように散布させてもらったのよー。私たちの鼻じゃ、ちょっと異臭がする程度でも、あいつらみたいな鼻の良い海魔は悶えて逃げるくらいの代物にはなっているんじゃないかしらー。なんなら、今、この場所をその匂いの詰まった水で包むことぐらいできるけどー、吐くだけじゃなくて失禁や脱糞ぐらいまでしちゃうかもねー。いやー、私の鼻で悪臭と思うくらいだからさー、そりゃもう、強烈よー?」
楓が全力で首を横に振る。失禁や脱糞より先に、それほど強烈な悪臭だったなら、気絶するのが先ではないだろうかと思いつつも、ここでリコリスに刺激を加えるような一言を発すると「実験で一人、嗅がせてみるねー」とか言いかねない。そして、大抵、そういうことの犠牲になるのは、雅である。現に、ケラケラと嗤いながらリコリスは雅を見ている。だから、黙っているのが正しいのだ。
「現状、ここに居れば安全なんですか?」
葵がやや震えた声を発しつつ、ジギタリスに訊ねる。
「安全とは言い切れない」
「そんな……」
「はっ、この世が腐ってから、安全な場所なんてどこにもねぇだろうが。ウスノロは夢見がちだなぁ、おい。そこはちゃんと教育しておけよ、人で無し」
「クソ男が葵を貶すのだけはちょっと許せないなー。でも、強ち間違ってもいないから、報復するのはやめておこうかなー。安全じゃない理由はー、ちゃーんと話してよ、正義漢」
ディルの辛辣な言葉から葵を庇いつつ、分からないままで居る雅たちに説明するようにリコリスは上手く話を進める。
「ベロニカ、『バンテージ』に、『ブロッケン』。この三匹の行方が掴めていない。どうやら“死神”に話を訊いたら、殺し損ねたらしいから、ベロニカは生きている。次に『バンテージ』。資料整理のために割いた時間を使って、調べてもらった」
ジギタリスは誠に視線を移す。
「君に懐いているドラゴニュートに、改めて『バンテージ』が埋まっただろう大穴を調べてもらった。そのときには、里に身を潜めていたドラゴニュートにも協力してもらえたそうだが、どこにも『バンテージ』の死骸は見当たらなかったそうだ。つまり、『バンテージ』は生きている。飲んだくれが殺し損ねた、と言ったところか」
「殺し損ねたんじゃねぇ、あのときはああするしか無かったんだよ。そもそも、選定の街付近に滞在しろと五年前に指示を出して来たのはテメェじゃねぇか」
ジギタリスにナスタチウムは物申す。
ああ、だからディルもナスタチウムがあの街の近くに居ることが分かっていたのかと、納得する。五年前からあの街の付近に滞在しているということをディルならどこかしらで耳にしていたはずだ。だから、雅はナスタチウムに会えたのだ。
「結果、海魔に囲まれていた街から数百を超える一般人と使い手が生き延びた。あれは殲滅戦ではなく逃走を前提とした戦いだ。殺し損ねるのも仕方がねぇ」
「最初に『バンテージ』と出くわしたのはナスタチウムだ。その一年後に再び、そして今回で三度目。さすがに三度目ならば始末してくれるだろうと期待していたんだけれど」
「それは高望みってやつだなぁ。『バンテージ』はドラゴニュートだ。そこらの脳の足らない海魔と違って引き際を知っている。まぁ、この俺が生きることを優先して臆病な戦いを――滑稽な戦闘を繰り広げてしまっていた可能性もあるわけだが、俺はいつだって海魔に対しては殺す気で戦っている。それだけは誓って、あり得ねぇ」
『バンテージ』はナスタチウムと交戦したとき“戦神”と呼んだ。それはナスタチウムの異名というか、通り名のようなもので、あのときが初めての遭遇であったなら『バンテージ』がナスタチウムをそう呼ぶことはできなかったはずだ。これでまた一つ、謎のままだったことが紐解けた。
「殺し損ねた、殺したの話は無しと行こうぜ、正義漢。テメェのやっていたことに文句を言わせないようにしたいならなぁ」
ディルはジギタリスにそう脅しを掛ける。それでもジギタリスは表情を変えない。むしろ変えないことの方がこの場合は怖い。
「過去のことをいつまでも引き摺っているのはどっちなんだろうね……まぁ、良いさ。これはもうお互い様のことだろう。“死神”はベロニカを殺し損ね、ナスタチウムは『バンテージ』を殺し損ねた。そして、二十年前からずっと僕たちが始末したくて仕方が無い『ブロッケン』はまた姿を消した。この三匹が共謀していない可能性は低いだろう。一つも二つも飛び抜けている。ベロニカは進化し、『バンテージ』は進化していなくともドラゴニュート、そして影に潜む『ブロッケン』と来ている。これは、実に厄介だ」
「そもそも、どうして皆さんは『ブロッケン』を始末したくて仕方が無い、んですか?」
「奴は二十年前の首都防衛戦において、“一般人の影に自身を潜ませて操り、海魔と共に侵攻して来た”。この意味が分かるか? 数百、数千かも知れねぇ海魔の最中に、なんの落ち度も、なんの関係も、なんの因果も、なんの罪も無い、ただの人間が、海魔の肉の盾にされていたんだ。それは、グレムリンの習性よりも、質の悪い……腸が煮え繰り返るほどの、悪だ」
“死神”であるディルが「悪」と言い放った直後、ジギタリスが俯きつつ安堵の息を零す。『ブロッケン』は「悪」。その感覚だけは、一緒なのだという気持ちが表に出たのだろう。
「『上層部』では、二十年前の全ては、『ブロッケン』が引き金だろうという結論が出されている。一般人だけでなく、海魔の影にすら、自らの一部を忍ばせて、種も生態系も異なる海魔で首都を蹂躙しようとした。だから、『ブロッケン』は『悪』なんだ。海魔の中じゃ、飛び抜けて厄介な上に、その海魔すらも操る力から、海魔の王と呼ぶ討伐者も居る」
「俺たちはなぁ、あれからずっと『ブロッケン』だけを探し求めていた。奴だけは殺さなければ気が済まねぇからな。『バンテージ』とやり合ったのも、『ブロッケン』を探していたときだった。おい、ディル。テメェが外国にまで行ったのも、『ブロッケン』を始末するためだったよなぁ?」
ナスタチウムが腹立たしげに、忌々しげに、表情を強張らせている。『ブロッケン』に対する怒りが、傍に居るわけでもないのに強く伝わって来る。
「そうなの?」
怯えつつ、ディルに雅は問う。
「ああ。だが、外国じゃ、海魔よりも人間とドンパチやっている輩の方が多く、そして『ブロッケン』の情報も碌に得られやしなかった。その帰りに、あのベロニカとか名乗り出したセイレーンの急襲に遭って、右目を失った。あとは、クソガキも知っているだろう。顔の右半分がケロイド状になっているのは、その後の追撃を防ぐために焦って深くまで皮膚を『土』に変質させちまったからだ」
右目を失った理由は以前に聞かされていた。だから、顔の右半分の皮膚がケロイド状であるのも、恐らくはそのときの傷痕なのだろうと予想はしていたため、そこへの驚きは少なかった。ただ、『ブロッケン』への執着が強すぎる。外国にまで行くほどのことなのだろうか。
理由なんて、リィが外国に行きたいから外国に行った。きっとそうに違いないと思っていたことが、覆されたこの感覚は、表現しにくいものがある。
「でー、外国まで行って無駄足だった上に片目を潰されたクソ男は、そこの胸ロリに出会ったとー」
「はっ、外国と言ってもほんの数ヶ月だがな。さすがに数十年も外国で一般人を殺すようなドンパチは繰り広げてねぇよ」
言いつつ、続ける。
「なんで『ブロッケン』にここまで執着しているのかって、クソガキはクソガキのクセに思っていやがるんだろうが」
「え、あ……思って、いた、けど」
「言わなきゃ分かんねぇか? 『ブロッケン』が潜んだ影の主――一般人は、海魔と共に押し寄せて来た。つまり、」
「そこまでで良い!」
雅はその先を察して、大声を出して発言を止めた。
要するに、殺したのだ。殺さなければならなかったのだ。海魔と人間を分けて処理なんてできるわけがない。混ぜこぜになって、一斉に襲い掛かって来たから、構わず殺したのだ。でなければ、生き残れなかった。それが二十年前の首都防衛戦の本質だったのだ。
そして五人しか生き残れなかった。人間が、それもただの一般人が海魔と共に襲い掛かって来るなど想定していなかった使い手は躊躇い、動揺し、そして狩られたに違いない。
そんな凄惨で、惨憺たる戦いに身を投じなければならなかったのならば、五人の頭のネジが外れてしまうのも当然である。殺したくもないのに人を殺し、殺してしまった罪悪感に押し潰され、死んだ方がマシなのではないかと思うほどに苦悩し、けれど生きたいという本能に後押しされて生き足掻いてしまった。それが、ここに居る五人なのだ。




