第二五話 目覚めた眠り姫
遅くなりました。第二章の始まりです。
何だろう? 頭がぼうっとする。自分の身に何が起きているのかまったく分からなかった。世界が重なったように揺れ動く視界の中、心配そうに何度も自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
瞳に映った輪郭がとろけたバターのように歪む。視界に映る物全てが混ざり合い、溶け合うような不思議な感覚。
まるで眩しいものを見るかのように瞳を細めれば、顔の分からない相手が私の手をぎゅっと握りしめてくれる。温かい手のひらに自然と顔がほころんだ。
何だか夢と現実を行き来しているみたいで面白い。でも、次第と瞼が垂れ下がってきてしまい、支えることが困難となってしまった。
自然と閉じる瞼。何か聞こえたような気がしたが、何を言っているのか分からず意識はゆっくりと沈んでいく。
気がつくと再び夢の世界へと旅立っていた。
昔から本は好きだった。いつも一人ぼっちだったエティエンヌに本は色んな知識を与えてくれたし、一時とはいえ夢も見させてくれた。
特に童話が好きだったエティエンヌは童話を読みつくしたものだ。城にある書庫は広く、色んな種類の本が保管されている。一点ものが多い中、その童話は人気のない角の方に置かれていた。
図書館に訪れるたびに何度も読んだため、ページは痛み、他の本よりも使い込んだ形跡が残っていた。
それでも、大切に扱っていた本は壊れることなくエティエンヌの手の中にある。
日の光は本を痛めるため、図書館は常に薄暗く、分厚いカーテンに覆われている。壁に点されたランプだけが唯一の灯りといってもいいだろう。
薄暗い明かりの中、エティエンヌは壁に寄りかかるように座った。本を開くとかび臭い匂いが漂うが、それすら何だか安心する。
お気に入りはもちろん「王と妃と魔女」という童話だが、それとは別に好きな話もあった。
それは「王と妃と魔女」に出てくる妃さまのもう一つの物語。「英雄と傾国の姫君」だ。
「王と妃と魔女」が幸せに満ち溢れた物語ならば、「英雄と傾国の姫君」は悲劇の一言に尽きる。
王と妃が結婚する前の物語で、物語の主人公はユルシュルと呼ばれる美姫だ。傾国の姫君と呼ばれるほど美しい彼女は、幼い頃から一緒に育ったディアスという騎士と恋仲になる。
相思相愛の二人だったが、最終的には身分の違いゆえに引き裂かれてしまうのだ。しかし、その続きの「王と妃と魔女」では二人の仲を引き裂いたと言っても過言ではない相手と、妃は幸せに暮らしている。
もちろん結ばれることのなかったディアスは二人を見守りながら、生涯独身を貫き通すというなんとも物悲しい物語なのだ。
バルドシュア王国では「王と妃と魔女」の童話の方が好まれる傾向があるが、エティエンヌは「英雄と傾国の姫君」も好きだった。
確かにディアスは一生報われない思いを胸に死んでいくかもしれない。だが、ユルシュルと過ごした時間は確かに存在したのだ。
それはかけがえのない思い出だろうし、彼は一度たりともその心情を吐露していない。ただ心の内にしまい込んだまま騎士道に殉じるその姿は幼いエティエンヌの心を大きく震わせた。
――いつかきっと彼のような人と恋をしたい。
きっとそれは燃えるような恋なのだろう。確かに障害は多いかも知れない。それでも、誰かにそこまで必要とされたい。自分だけを見てほしい。
エティエンヌは一時の甘い想像に心ときめかせながら、何度も童話を読み直した。
幼いながらに孤独を知っていたエティエンヌは叶わぬ願いと知りながら、淡い夢を見続けることでしか辛い現実から逃げることが出来なかったのだ。
誰にも必要とされていないとはいえ、仮にもエティエンヌはこの国の王女だ。いずれは政略結婚の駒としてこの国を出て行くことになるだろう。
最初から恋愛結婚などできないことも知っている。
しょせん叶わぬ願いと知りながら何時ものように本棚に童話を戻す。
生まれた時から望まれなかった子供。
それがエティエンヌであり、逃れられない現実であった。
細かく編み込まれたレースのカーテンを揺らし、温かい春風が窓から入りこんできた。
さらさらと布が擦れる音が静かな室内に響き渡る。まるで悪戯好きな風の妖精たちが、競い合うようにカーテンを揺らし、音楽を奏でているようだった。
花瓶に花でも生けてあるのだろうか? 薔薇の甘い香りが鼻孔をくすぐる。自然と意識が浮上するのがわかった。睫毛を震わせながら、ゆっくりと瞳を開く。
もうろうとする意識の中、エティエンヌは目を覚ました。ぼやけた視界に映ったのは見知らぬ広い天蓋。視線を横にずらせば、周囲を覆うように淡い桃色の紗が垂れ下がっていた。
装飾がほどこされた寝台は豪奢で、王城で使っていた物とそう大差ないほど高価なものだと一目で分かる。
――見知らぬ部屋。
一時的とはいえ、ウィレムに与えられた部屋とはまるで違っていた。怠さが残る身体を起こすと、緩く波うつ金髪を撫でつける。
整えるように何度か触れば、指の隙間から艶やかな髪の毛がすり抜けていった。億劫そうに瑠璃色の瞳を動かしながらゆっくり現状を確認する。
まるで身体が鉛になってしまったかのように重かった。
不自然に途切れた記憶を辿るように瞳を伏せる。
確か、帝国軍が攻めてくるから一時的に強欲大陸に避難したはずだった。そしてレギナ様が一人屋敷に残り迎え打って……。
「そうですわっ! レギナ様が、危ない目に遭っているのに耐え切れず、わたくし……移動魔法陣で戻ってきてしまったんでしたわ」
おぼろげな記憶を辿りながらエティエンヌは頬を両手で覆った。身体が恐怖でカタカタ揺れる。底知れぬ不安が足元から這いあがってくるようであった。
確かにレギナ様は強いお方だ。王国軍を容易く往なすだけの力を持っていらっしゃる。だが、それは時と場合によるのをエティエンヌは知っている。
念入りな準備をしていたとはいえ、あの場に予想外の人物が侵略しに来ていたのだから、負けたとしても可笑しくはない。
何故大魔術師の一人であるエルリク様がレギナ様を執拗に狙っているのかは分からない。
だが、レギナ様が放ったあの眩い光が世界を包みこんだ所で記憶は途切れていた。ウィレム様や他の方達がどうなったのかさえ分からない。
あのあと、一体何が起きたのか。それすら分からないエティエンヌは寝台を下りると、ぎこちない動作で歩きだした。
ふらつく足取りのまま解放された窓へと近づいていく。視界を遮るカーテンを押しのけ、バルコニーへと向かえば温かな春の陽気が降り注いできた。
色とりどりの花が咲き誇る光の楽園のような光景にエティエンヌは瞳を見開いたまま固まってしまった。
薄っすらと開いた唇が大きく震える。動揺したのか、金色の睫毛がふるふると震えた。
「どうして……」
搾りだすように漏れた声は酷くか細く、消え入りそうなものだった。
エティエンヌが最後に見ていた光景とはまるで別のものが映っていたのだから当然だ。
ここは先ほどまで隠れていたレギナ様の屋敷とは全く異なる場所。勿論見慣れた自国のバルドシュア王国でもなかった。
――ここはリネシア帝国。
エティエンヌの婚約者でもあるロレンツォの国だ。寒冷地で知られるバルトシュア王国とは異なり、常春の国で有名なリネシア帝国は穏やかな気候が特徴的な国だ。
多種多彩な花たちが年中城の庭園を綺麗に飾り立てている光景はとても美しいという。多分、今見えているのは城の庭園とは別物なのだろう。
バルトシュア王国では花を大量に咲かせることですら、大変だと言うのにこんなにも美しい花が咲き誇っている。
普段ならば夏期の間しか見ることが出来ぬ光景にエティエンヌは顔を歪める。瑠璃色の瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。
手摺を強く握り締めながら唇を噛み締める。もしかして、自分はとんでもないことを仕出かしてしまったのではないだろうか? 自分の望みを叶えるために、関係ない人たちの命を奪ってしまったのではないかと不安になっていた。
現に契約こそなされたものの、無力な自分にはレギナやウィレムが生きているのか確認する術がない。
自分の不甲斐無さにただただ、言葉なく美しい庭園を見つめる。
庭園では小鳥のさえずりに合わせるかのように、蝶々がふわふわと花の間を飛び交っている。
まるでお伽噺の世界に迷いこんでしまったのかと錯覚してしまいそうなほど美しいのに、それを純粋に美しいと思えない自分がいた。
視線を逸らすかのように下を向ければ、手入れのされた芝生が見えた。これは逃亡防止のためだろうか? 部屋の高さは四階に相当するほどで、思わず乗り出していた身体が仰け反ってしまった。
四階もの高さになるとさすがに恐怖を感じるほどだ。そろそろ部屋に戻ろうかとした時だった。
「エティエンヌ姫!」
突然名前を呼ばれ、びくりと肩を震わせた。驚いたように振り返ると、扉から近づいてくる人物が見えた。
脇目も振らず一直線に駆けてくるその姿に思わず息を呑む。ああ、出来れば会いたくなかった。
そっと視線を逸らすと、エティエンヌは居心地が悪そうに「あ、あの……」と声を絞りだした。
本当はこれ以上近づいて欲しくない。
でも、それをいえる相手ではなかった。エティエンヌはすべてを諦めたように困惑した表情を浮かべながら微笑んだ。
「お久しぶりですわ、ロレンツォ様」
ロレンツォは微笑を浮かべるエティエンヌを抱き締めるとただ一言「心配しました」と漏らした。耳元で囁かれ、思わず硬直してしまう。
――それはどういう意味で言ったのだろうか? その裏に隠された言葉の真意を探るようにエティエンヌは瞳を細める。
それはここから飛び降りなかったから? それとも勝手に逃亡しようとしなかったから? 後ろ向きな考えは幾らでも溢れだし、口から吐いて出そうになる。
本当は知っていた。ロレンツォは自分のことなど心配してくれているわけでは無いということを。ただ勝手に死なれたら困ると思っていることも、すべて知っている。
そのことを知っているにも関わらず、微かにでも期待してしまった愚かな自分に笑いばかりが込み上げてきた。
胸元に押し付けられるように強く抱き締められたエティエンヌは痛みを訴えるように「痛いですわ」と苦言を呈せば、腕の拘束を解いてくれた。
目尻のつりあがった鋭い碧玉がこちらをジッと見つめる。まるで深海のように静かで、底の見えぬ瞳。こうして言葉を交わしながら顔を合わせるのは片手で数えるほどしかない。
国同士のつながりを強固なものにするための政略結婚だ。そこに本人達の意思など無きに等しい。
しょせん自分は都合の良いお飾り人形でかないのだから。
昔から色んな人たちに「お飾り人形」と陰口を叩かれていたのは知っていた。他のお姉さまたちのように秀でた才能がない自分は顔こそ整っていても、他の才能は皆無に等しいただの凡人だったのだ。
勉強も優秀ではないし、ダンスも歌も人並み程度。元々造形の美しい他の姉に比べれば見劣りしてしまうのは当たり前で――いつしかついたあだ名が「お飾り人形」だった。
だからだろうか。何か一つ特技を身につけようと覚え始めたのがハープだった。
姉達は他の楽器に興味はあっても、何故かハープには手をつけたがらなかった。だから毎日、一人飽きもせず演奏していたからだろうか。
いつの間にか優秀な姉達ですら叶わぬほど、ハープの演奏だけは得意になった。舞踏会に参加すると、頼まれて演奏を引くほどだ。
だが、それが余計に気に食わなかったのか、更に陰口を叩かれるようになった。今でも悔しいとか、見返してやりたいとか、そういう気持ちは残っている。
でもそんな蔑み以上に――ロレンツォがこちらを見つめる時に宿る仄暗い光に息を呑むことが多々あった。
今まで好奇、嫉妬、妬み、欲情、と色んな負の感情を一身に受けることはあっても、そこまで絶望を宿した瞳で見つめられることはなかった。
最初のうちは何故そんな瞳で見られるのかがよく分からなかった。
数回しか会っていない婚約者。しかし彼から『殺したい』と思われるほど憎悪されている。
何故? どうして? その疑問ばかりが頭の中に過ぎり、いつも考えていた。そして、その答えを知ったのはつい最近だった。そしてすべてを理解した。殺したいと、恨まれても仕方がないほどの憎悪を向けられている理由も。
だからといって簡単に心の整理がつくわけもなく、悩みに悩んだ末出した結論が――条理の魔女の名を持つレギナに願いを叶えてもらうことだった。
これは最後の掛け。望み。そして願い。
わたくしが、わたくしであるために――そして悔いの残らぬ人生を歩むために。
「それより、どうしてわたくしはここに……?」
困惑気味にロレンツォを見上げれば漆黒の前髪が風に揺れたのがわかった。
口元には僅かな笑みを貼り付けているが、その瞳はまるで探るようにエティエンヌ見つめていた。
言葉遣いこそていねいだが、尋問されているようだ。
「魔術師――鉄壁のウィレムに連れ浚われたのは覚えていますか?」
――鉄壁のウィレム。初めて聞く魔術名に瞳を瞬く。ついで思い出したのは優しい青年のことだった。そんな凄い人だとは露知らず、色々と迷惑をかけてしまったものだ。
レギナ様からよくお人好しの莫迦と罵られていたが、その通りだろう。自分が城を抜け出し、王国騎士兵から追いかけられているところを本当に助けてくれるとは思いもしなかった。
魔術師は悪い存在だと、常日頃から言い聞かされてきたが、その常識を覆すような優しさを兼ね備えていた。
きっと今まで出会ってきた中でも、一番優しい人だったに違いない。
鋭い眼差しが突き刺さるほど見つめているのを感じながらエティエンヌは顔を伏せる。片手を頬に沿えると、考え込む素振りを見せながら「そこまでは覚えているのですが……」と言葉を濁らせた。
そのあと城でどんな大騒ぎになっていたのかなど知らないし、ハッキリとした発言は避けた方がいい。
この会話を聞いているのがロレンツォ一人とは限らないのだから。怪しまれていることは確実なのでゆるゆる頭を上げ、上目づかいで見つめる。
微かに体を震わせ、不安そうに瞳を揺らした。
「見知らぬ場所に閉じ込められていたので、何が起きていたのかまったく知らないのです」
「――ええ、そうでしょう。姫がいた部屋は強力な結界が施されており、隔離された状態でした。そのお陰で無事だったのでしょう」
「無事だった、とは?」
「あなたを連れさらったのはウィレムという魔術師ですが、その魔術師は他にも大魔術師のレギナと繋がっている厄介なやつでした。そのため、激しい戦闘になったのですが……ああ、もちろんあなたを連れ去った魔術師は今回の掃討作戦で討ち取ったのでご安心ください」
「……っ! そ、そうだったのですか」
ウィレム様と、レギナ様が……死んだ? そんな、でも……それじゃあ、あの二人はわたくしのせいで……。
思わず嗚咽が漏れそうになったが、ここで泣いたりしたら怪しまれるのは確実だ。少しでも疑いを晴らさなければ、後々面倒なことになる。
安堵したように見えるように肩を撫で下ろせば、労わるような声が頭の上から降り注いだ。
「私も王国からエティエンヌ姫が連れさらわれたという話を聞いて大変驚きましたが、無事に連れ戻すことが出来て良かったです。しかし、連れ帰ってきてからもずっと目を覚まさず、ずいぶんと心配しました。一週間も目を覚まさなかったのですよ?」
「そんなに眠っていたのですか?」
まさか最後に記憶が途切れてからそんなに眠っていたとは驚きだ。一週間も寝込んでいたなんて……。
衝撃を受けたように動かなくなってしまったエティエンヌに、ロレンツォはそっと肩に手を回し、エスコートするように手を重ね合わせた。
紳士な仕草にも思えるが、有無を言わさぬ雰囲気があり、エティエンヌは彼に従うしかなかった。
「我が国は常春といえ、朝の風は冷たいものです。姫はまだ目を覚まされたばかりですので、もう少し寝台で休息をとられた方が宜しいでしょう」
「ありがとうございます。ロレンツォ様」
礼儀を欠かさぬように、不自然にならない程度に微笑めば、ロレンツォの表情も少しだけ解れるのが分かった。
彼は優しい。優しく接してくれる。でも、それは上辺だけの優しさだ。本当に自分を愛してくれるわけではない。むしろ憎んでいるほどだ。
そしてこれから先、彼に愛されることは永遠にないことも知っている。
幾ら世間から三大美女と呼ばれようとも、愛せるかどうかは別の話だ。彼には彼の大切な人がいるように、自分には自分の大切な人がいる。
婚礼の儀は半年後に控えているし、自分はこのままこの国で花嫁修業に勤しむのだろう。
でも、これも自分自身で、くいが残らぬように選んだ道だ。
けして口に出してはならぬ言葉を心の奥底にひっそりとしまい込むと、誰もが魅了される微笑みを張りつける。
微笑みの裏側で泣いている少女の心など、誰も知らなかった。




