第二十話 強欲な願望
屋敷に戻ると、何故か勢いよくエティエンヌが抱きついてきた。突然のことに支えきれず、腰を強かに打ちつけてしまったエレアノーラは呻き声を漏らす。思わず何事かと、眉をつり上げた。
視線を向ければ、今にも泣き出しそうな、それでいて安堵したかのような微妙な表情を浮かべたエティエンヌがこちらを見つめていた。
涙にぬれた瑠璃色の瞳がきゅっと細められた。
「ご無事で安心しました。それから、無闇に王国兵の命を奪わないで下さり、ありがとうございます」
一体どこで見ていたのやら。傍らでその光景を傍観しているノアディアを一睨みしながら、溜息をつく。
そもそも王国兵を殺す気など最初からなかったのだ。そのために早朝から巨大な移動魔法陣を準備しておいた。
とはいえ、そのまま王都に送り返してもまた襲撃してくるのは分かっていたから、適当に半分ほど戦力を削っただけだ。
別に姫君に感謝されるような優しいことなど、少しも考えていなかったし、エレアノーラの予想通り王国兵がかなり弱かったからすんなりと計画通り進んだだけだった。
しかし、そんな人の気も知らずに引っ付いた姫君は「レギナ様だから出来る芸当ですわ!」と褒めたたえる始末。
人に褒められることになれていないエレアノーラはしかめ面を浮かべると、そっぽを向いた。
「別に殺すと後々面倒そうだったから、強制転移させただけだ。それよりも、早く退け。ドレスが汚れるぞ」
殺していないとはいえ、今の今まで戦っていたのだ。敵を殴った時に血は浴びたし、土埃で全体的に汚れているため、大変な姿になっていた。
エレアノーラとすれば早く風呂に入りたい所なのに、そんなことすら気にせず人の手をぎゅっと包んできた。人の温もりが冷たい手のひらに広がる。
「そのような些細なことわたくしは気にしませんわ。それよりエレアノーラ様が無傷で帰ってきてくださったことの方が奇跡のように思えます」
「別にこんなもの奇跡とは呼ばん。王国側が私の知略に負けただけだ」
「まあ。まるで参謀長のようですわね。わたくしには真似出来ませんわ」
「当たり前だ。深窓の令嬢なんぞに真似できたらそれこそ奇跡だ」
それだけ告げるとエレアノーラはエティエンヌを退け、浴槽場へと向かう。その背中にはっきり着いて来るなと書いてあったからだろうか。
さすがにエティエンヌが追いかけてくることはなかった。
長い廊下を迷うことなく歩いていくと、浴槽場に辿り着いた。室内に置かれた籠の中に汚れた外套から衣類まで投げ捨てる。
美しい肢体を隠すことなくそのまま扉を開けば、広い浴槽場がそこにはあった。大理石がふんだんに使用された床は豪奢で、張られた湯には朝摘んだばかりの薔薇の花弁が浮いていた。
色とりどりの花弁を尻目にシャワーで身体を洗った。湯煙でうっすら曇った鏡越しには湯を滴らせた自分が立っていた。
氷のように冷え切った金色の瞳に、壁に掛けられたランプにより、仄かに照らされた銀色の髪が頬に張りついている。
髪と同じ色をした長い睫毛は白皙の頬に影を落とし、唇は不機嫌そうに引きしめられていた。
――そう、これが今の自分。
「まるで人形のような、作りモノめいた美だな」
はっきりそう自分の顔を評価すると、エレアノーラはばっさり切り捨てた。人間のような温かみのある姿とはほど遠いその姿は人形と言ったほうが似合っていた。
虚ろな瞳が見つめ返す。そこに昔の面影などどこにも存在しなかった。当たり前だ。髪の色はおろか、瞳の色すら変わってしまったのだから。
一体どこで選択肢を間違えてしまったのかといえば、分からない。だが、けして自分が人間のようになれるわけがないのだ。
魔術師になった時から分かりきっていたのに、こうも人の温もりが優しいと寄りかかりたくなってしまう。
ただのエレアノーラとして、この屋敷で過ごす時間はあと僅かだ。時が来たら逃げなければならないし、この屋敷も見捨てなければならなくなるかもしれない。
それはそれで困った。とエレアノーラは乳白色の湯船に沈みながらそんなことを思った。
屋敷ごと場所を移動させるのは非常に面倒だし、かといってこの屋敷に土足で踏み躙られるのはどう考えても我慢ならない。
他の結界を発動させたところで、発見されるのは時間の問題だ。
「……しかたがない。奥の手を使うとするか」
出来れば頼みたくはなかったのだが、こればかりはしょうがない。結界を張るのであれば、エレアノーラよりも特化した者の方がいいに決まっている。
転移魔法の類ならば彼女が一番優秀だろう。ただ、知り合いとはいえ悪魔を屋敷に招き入れるようなことをしたくないのと、頼むのがどうしても嫌なのだ。
自分で頼むと決めた手前、どうしようもないのだが、眉間に刻まれた皺は深くなるばかりだった。
とにかく善は急げという諺もあるし、早めに行動した方がいいだろう。王国軍が敗退した今、帝国軍も色々な意味で騒がしくなりつつあるようだ。
奴らが動き出す前に片付けないと。そんなことを考えながら湯船から上がると、エレアノーラは用意しておいたタオルで身体を包み、浴槽場を出た。
違う籠には着替え用の衣類が置かれている。どうやら用意しといてくれたようだ。
すぐに着替えると髪を乾かし、脱衣所を出た。
それからエレアノーラの行動は早かった。倉庫から通信用の魔鏡を引っ張り出してくると、自室の机に置いた。
普通の鏡と違い、重量のあるそれは運ぶのですら一苦労だ。エレアノーラでなければ一人で運ぶことなどまず無理だろう。
元々、持ち運びすることを想定されて作られていない鏡は重厚な構造をしていた。
デザインは丸い鏡の縁を悪魔の両手が掴んでいるという何ともありきたりで不気味な鏡だが、鏡がはめられた表面は何にも映っていなかった。
目的の悪魔がいる大陸の座標軸と、所在地の地図を用意したエレアノーラは、器用に丸めた紙を鈍色の鏡に突っ込んだ。
しばらく何かを探すように揺らいでいた水面であったが、突然画面が明るくなり、一人の悪魔が映し出される。
艶やかな桃色の長髪につり上がり気味の紫玉の瞳。悪魔の癖に日光浴を好んでいるせいか、滑らかな肌は小麦色をしていた。
頭部からは二本の捩れた黒い角が伸びている。エレアノーラが知る限り、一番悪魔らしい外見をしている悪魔だ。
悪魔は紫玉の瞳を瞬かせた後、整った顔立ちに獰猛な笑みを広げる。薄っすらと色付いた唇がゆっくりと動いた。
「よう! 久しぶりだなぁ、レギナ。この俺に何の用だ?」
可憐な外見とは裏腹に、桜色の唇から零れた言葉は、思わず口を噤みたくなるような口調だった。初めて聞いたら違和感を覚える光景にも、慣れているエレアノーラは気にしない。
それどころか、隠居して何百年も再会していなかったのにこの気さくな口調に思わず苦笑を漏らすほどだった。
今起きていることにしか興味を示さない彼女らしい態度にエレアノーラは用件を告げた。
「この屋敷を半年の間、強欲大陸で管理保管していて欲しいのだが、可能か?」
「あ? 屋敷って……お前が今住んでいる屋敷のことか?」
いぶかしむように眉をつり上げながらエレアノーラの背後を覗き見るように視線を送る悪魔。
首を傾げながら不思議そうに瞳を瞬く。紫玉の瞳が思案するようにきらりと光った。
「いや、別に構いやしないが……仮にその屋敷を俺の領地に持ってきたとして、代わりに何を置くんだ?」
「確か似たデザインの屋敷を持っていただろう。それと交換してくれると助かる。あと、破損しても気にならないような屋敷にしといてくれれば尚助かる」
「最初から戦闘行為ある前提での話かっ! ……まったく、お前じゃなけりゃあそんな条件なんかで絶対受け入れたりしねぇけどな!」
ぶつぶつ文句を言いながらも、該当する屋敷を確認した悪魔は鷹揚に頷いた。
「まあ、結論から言えば出来る。一瞬で屋敷を入れ替えることも可能だろうなぁ。だけど、それに対する見返りは何だ? 別に今の所、お前から欲しいものはないぞ?」
「強欲なお前にしてはずいぶんと謙虚な言葉だな」
「しょうがねぇだろ。欲しいものは大体持っているんだから。まあ、いいや。さっさと交換してしまおう。どうにもさっきから雲行きが怪しいような気もするからな。報酬は欲しいものが決まったらまた連絡するからよろしく!」
それは悪魔の直感なのか、嫌な予感がするというのはあながち間違っていないだろう。何せ帝国軍が近くにまでやってきていることは事実なのだから。
一方的に通信を切られたかと思えば、次の瞬間部屋に移動魔方陣が広がり、画面越しに会話していた悪魔が現れた。
動きやすさを重視した服装を好んでいるのか、ワイシャツに、スラックス姿と随分とラフな姿だ。外套すら身に着けていない悪魔はエレアノーラを見つめると、片手を振るった。
「ほら、入れ替えてやったぞ」
「もう入れ替えたのか?」
「当たり前だ。俺を誰だと思ってやがる。強欲のアヴァリティア様だぞ。転移魔法なんてお手の物だ」
難なくそう告げるが、そう簡単に出来るものではない。エレアノーラも出来ないし、同じ悪魔であるスペルビアでも不可能だろう。
ただただ仕事の速さに感心しながらお礼を告げれば、ひらひらと手を振りながら「このくらい朝飯前だ」と何てことなさそうに告げる。
屋敷の外を確認すれば確かにそこは傲慢大陸から随分とかけ離れた光景が広がっていた。
そもそも、昼間だったのにこちらでは完全に深夜の時刻だ。必要なものは既に入れ替えた屋敷の方に揃っているから問題ないというアヴァリティアに礼を告げながら、傲慢大陸に戻れば突然屋敷が入れ替わったことに気がついたのか、ノアディアが驚いたように屋敷を見上げていた。
呆然と見上げながら「屋敷が……」と呻いている始末。相談一つせず進めてしまったため、びっくりしたのだろう。だが、そんなこと一々確認している暇もなかったし、どう考えてもこちらの方が後々有利に決まっている。
何せ相手はザカリウスの魔術師殺しだ。屋敷が無事で済むとはエレアノーラも考えてはいない。
そんなこんなで、色んなことがあった一日が漸く終わったのであった。




