第十九話 悪魔と取引
まだ日も高く、穏やかな春風が吹き込んでくる午後ことだった。軽快なノックと共に一礼し、執務室に入ってきた諜報員の男は、部屋の主の前で敬礼をした。
「ロレンツォ殿下。先刻、王国側が壊滅したそうです」
突然耳から入ってきた情報に、ロレンツォと呼ばれた男は書類から視線を外すことなく「そうだろうな」と頷いた。
もともと、バルトシュア王国が大魔術師相手に勝てるとは微塵も思っていなかった。平和ボケした国に極悪非道な魔術師を討ち取れるはずもなかったのだ。
息巻くだけいきまいて、無様に壊滅とは笑い話にしかならない。
「それでどうなった。大隊で挑んでいったのだろう? 死者はどのくらい出た? さすがに全滅ではないのだろ?」
「それなのですが……」
妙に歯切れの悪い言葉に書類を捲っていた手が止まる。怪訝そうに視線を上げると、報告書を手にした諜報員が珍しく困惑しているのが分かった。
自分で確認して集めてきた情報だというのに、納得していないような表情だ。躊躇したのは一瞬で、男の口から出てきた報告は驚きの内容だった。
「今回の戦闘で戦死者は出ていません。半分以上は実際に魔術師と手合わせしているのにも関わらず、生きているそうです」
「……戦死者が、いない、だと?」
「はい。負傷はしているものの、命には別状がないそうです。王国側は必死で隠したがっていますが、敗退した事実は変えようもありません」
「……」
死者が一人もいないということは、そうとう手加減されていたということになる。そして相手の魔術師は大隊相手でも、それくらい手抜きをして普通に勝てるということだ。
確かにこれほど莫迦にされていることはないだろう。今頃彼らのプライドはズタボロになっているに違いない。
顔に泥を塗られた国王は怒り狂っているのだろう。想像するだけで笑みが零れた。
「なるほど。さすが大魔術師と呼ばれるだけのことはある。ルベリエが一般の魔術師とは比べ物にならないといっていたのは本当のことだったようだ」
だが、こちらとてただ手をこまねいているわけではない。無能な王国兵とは違い、こちらの準備は粛々と進んでいる。
それに確かに大魔術師の実力は本物なのだろう。油断すればやられるのはこちらだ。
「仕方がない、計画を前倒しするか。その時の戦場の状況など詳しく調べておけ。何か参考になるかもしれないからな」
「はっ! 失礼します」
敬礼しながら退出する諜報員を尻目に、ロレンツォはゆっくり椅子から立ち上がった。
衝立にかけてあった外套を羽織ると、出かける準備を進める。短杖と指輪をチェックしたあと、ロレンツォは執務室を後にした。
ロレンツォが向かった先は人々がけして近寄らない自然豊かな場所だった。周辺に建物一つない場所にぽつねんと、建っている。
それは見晴らしの良い、塔のような縦に長い建物だった。出入り口もなく、円柱のような構造をしたそれは、窓一つ見受けられない。
長いこと誰も訪れることのなかった古塔は、人々の記憶から忘却されていた。もちろん入り方など覚えているはずもない。
一体いつ、誰が、何の目的で建てたのかさえ分からない、石で造られた塔。深い森の奥にひっそりと建てられた、名も知れぬ塔。
そんな塔を意味深にロレンツォは見上げた。
漆を塗ったかのような艶やかな黒髪は風に揺らされる。冷め切った碧玉の瞳は天辺すら見えぬ塔の先を見つめているようだった。
飾り気もない、質素な外套に身を包んだ男は言霊を唱えた。
「エーリエル」
すると、ロレンツォの足元に風が巻き起こり、小さな突風が周囲を駆け抜けた。その風を利用するように駆け出すと、円柱の塔を足場にするように蹴った。
重力を感じさせぬ身軽さでロレンツォは塔の真上まで登ってしまった。その高さは尋常ではなく、周囲を軽く見渡せてしまうほどある。
傲慢大陸全域を見渡せるように考えられて造られたこの塔は、傲慢の名を持つこの大陸には相応しいほど立派だ。
このような高い塔を造る技術を人間は持ち合わせていないし、ここまで身軽に塔の天辺まで辿り着けるものもあまりいない。
魔道士でなければここまで来ることすら困難であろう。少なくとも、この塔の天辺に辿り着ける者でなければ自分に会う資格すらないと。
そういいたいのだ。この塔に住んでいる悪魔は。確かに傲慢の名に相応しい悪魔だと思う。
だが、それ故にロレンツォは思う。この悪魔ならば力を貸してくれるだろう、と。今回の諍いの原因は、この悪魔と契約している魔術師が引き起こしたものなのだから。
塔の天辺に出来ている大きな穴を眺めながら男は踏み出した。底の見えぬ穴に痩躯な身体はいとも簡単に滑り落ちる。
音も、光も、視界すら全て闇に染まった。唯一感じることが出来るのは自分が落下している浮遊感だけ。
それだけでも、まだ自分が生きていることを実感できた。一体どこまで落ちていくのかは分からない。もしかしたらこのまま悪魔に殺される可能性もあるのだ。
しかし、終わりは唐突に訪れた。
「最近は随分と慌しいものだ。同胞が訪れたかと思えば、今度は人間か」
闇の中、低い声が響いたかと思うと、突然地に足が着いた。勢いよく倒れそうになるが、両手を付き耐える。
いつのまにか周囲にかけていた風の魔法が消え去っていた事実に冷や汗が浮かんだ。
指を鳴らす音が響くと同時に視界が明るくなった。すぐ傍に大悪魔がいる。その事実に身体が震えそうになったが、ロレンツォはゆっくりと身体を起き上がらせると音のする方に視線を動かした。
先程とは打って変わり、大きな窓からは眩いばかりに光が差し込んでいる。広い執務机には山のような書類の束が置かれ、椅子には一人の男が座っていた。
流れるような金髪に、伏せられた金色の睫毛から見えるのは、血が滴れたかのような紅玉の瞳。白皙の肌に整った鼻梁。硬く結ばれた唇が綻べば、それだけで数多の女性が虜になるだろう。
しかし男からすると、これだけ整った顔立ちをしていると逆に人間離れしていて恐ろしかった。
何より引き締まった身体から溢れだす魔力は感じたことがないほど強力なものだった。一目で自分では叶わぬ相手だと判断できるほどだ。
来客に興味すらないのか、椅子に座ったまま書類を捌いていく。一体何の仕事をしているのか分からないが、ろくなものではないだろう。
それに自分は態々そんなことを観察するためにこんな敵陣まで乗り込んできたわけではないのだ。
内心の動揺を悟られぬように出来るだけ声を抑えるように低く呟いた。
「先日バルトシュア王国の第三王女が連れさらわれた。……お前なら理由は既に知っているだろう?」
「知っているが、それがどうした」
「王女は私の婚約者だ。一体何を企んでいるのだ、お前らは」
「企んでいるなどとは人聞きの悪いことをいう。見ての通り俺は傲慢大陸の統治者として忙しい日々を送っている身だ。あれの面倒までは見切れない」
あれとは自身の契約した魔術師のことだろう。最近では傲慢のレギナなど歴史の表舞台に出てこなかったというのに、何故今更現れたのかそれはロレンツォも不思議ではあった。
しかし、婚約者であるエティエンヌが連れさらわれたとなれば話は別だ。一体どれだけの苦労と時間を費やして婚約者という地位を勝ち取ったと思っているのだ。
簡単に横取りされていい得物ではない。あの女を不幸のどん底にまで突き落とし、生まれてきたことを後悔させるのは自分だ。
名を聞くだけで荒ぶる感情を押し込めながらあくまでこちらに視線を向けない悪魔を睨みつけた。
「だが、実際には起きている最中だ。王国兵は敗退し、撤退を余儀なくされた。未だに王女の生死すら不明の状態でどう安心しろというんだ」
「ならば力ずくで奪い返せばいい。それだけの話だ。それをなすだけの実力はあるのだろう? 魔術師殺しの異名を持つお前ならば」
「だからこそ、力を貸して欲しい。せめて不可侵の森に張られた結界を一時的でいいから解く手助けをして欲しい。あの結界はある種アエネーイスの障壁結界と同等の強度を誇っているからな」
「アエネーイスと同等、か……どちらも同じ人間が創り出した障壁結界だというのに破れないとは、可笑しなことをいうものだ」
確かに目の前の悪魔がいっていたように、アエネーイスの障壁結界を作ったのは一人の魔導師だ。人々はかの者を伝説の勇者と呼び、またある時代は古の賢者とも呼んだ。
当時の悪魔などに蹂躙されていた時代の人間達からすれば彼は奇跡の象徴に違いない。
輝かしい栄光と共に常にいつの世もその名を人間に知らしめる男――それこそが、伝説の魔導師でもあるシリウス=ルキフェルだ。
だが、過去の偉業を達したのは何も彼だけではない。もちろん埋もれてしまいそうな過去にも幾多の英雄は存在した。
ただその誰もがシリウス=ルキフェルの名前では霞んでしまうだけで、有名な武勇伝も数多く残っていた。
もちろんその英雄の一人が創り出した結界に苦しめられているのは確かだった。結界周辺に幻術がかけられているせいか、解除しようとする術者もいつの間にか幻覚にかかってしまい、作業が一向に進まない。
せめてあの結界だけでもどうにか出来れば何とか出来るものを、あの屋敷を根城にしている魔術師はこちらを莫迦にしているのだ。
でなければ逃げる事もせず、そのような場に留まっているはずがない。
「とにかくノア=ディアスが創り出したエクフラシスの障壁結界をどうにかしてもらいたい」
「ノア=ディアスか。確かにそんな人間もいたな。……まあ、いいだろう。それで戦争が防げるのなら容易いものだ。だが、悪魔に些細な願いでも、叶えてもらう場合何かを奪われるのを知っているか?」
「もちろんだ。命以外で捧げられるものならくれてやる」
「随分と潔いな。まあ、最初からお前が来るのは知っていたから、もらう物も既に決めてある。お前の真名だ」
「真名、だと……?」
まさか体を成す名を要求されるとは思っていなかったロレンツォは僅かに身体を強張らせた。悪魔は書類に落としていた視線を男に向ける。怪しく光る紅玉の瞳が男を貫いた。
「そうだ。お前の真名を寄越せ。ロレンツォ=ウナ=ザカリアス。でなければ、取引は成立しない」
「このまま全面戦争になっても構わないというのか!」
「構わん。何ならリネシア帝国から潰してやっても良いのだぞ?」
「っ……!」
確かに目の前の悪魔にならそのくらい容易いだろう。だが、それを回避する為、秘密裏に自分が訪れたのではないか。
何のための行動なのか、それを考えれば自分の真名一つくれることなど容易く思えた。それよりも、大事なのは姫君の安否だ。
「それよりも本当に大丈夫なのだろうな、王女は」
「さて。俺は人間嫌いのレギナではないからそこらへんは保障しかねる。そこまで心配ならば早く王国に出向き、連れ帰るしかないだろうな」
そういって投げて寄越されたのは欠けた指輪だった。不自然な形に割れた指輪は、要である宝石が欠け、見るも無残な姿になっていた。
怪訝そうに指輪を眺めていると、悪魔は再び書類に視線を落とした。
「一度だけその指輪でエクフラシスの障壁結界を無効化することが出来る。使い方次第はお前の自由だ。さて、用件は終わっただろう。早くどこにでも消えろ」
指輪を受け取ると、頭を下げることなどせず、男は悪魔に背を向けた。特に何もされなかったが、本当に真名を取られたのだろうか?
壁に出来た把手に手をかけながら思い出そうとするが、何も思いだせなかった。