第十話 ギブアンドテイク
ノアディアが連れ帰って来た人間がそれこそ普通の人間であったのならさほどの問題もなかったはずだ。しかし拾ってきたのはこの国の王女であり、なおかつ魔術師殺しの異名を持つ魔道士まで動き出している以上、悠長にことを構えている余裕はなかった。
魔術師の中でも長いこと生きているが、個人的に二大国家に命を狙われる機会など初めてだった。魔術師は異端という風習の時代はいくつもあったが、どちらかといえば今はその傾向が和らいでいる方だ。
そんな中、二大国家に命を狙われるとは、ある意味珍しいのだろう。いくら大魔術師の称号を持つエレアノーラとて何の準備もなしに無傷で勝てるわけもない。
圧倒的な数で勝る人間に勝つにはそれなりに小細工が必要なのだ。例えば、複雑な魔法陣を必要とする大魔法や、現在では禁止された禁術など、勝つ方法はいくらでもある。
ただし、それを使うかどうかはエレアノーラの作戦次第だろう。禁術など考えなしに発動してしまったら、今度こそ間違いなく近隣の集落など完全に壊滅してしまうだろうし、大魔法とて同じだ。
後々の被害を考えないで良いのならば、時間はかかるが大魔法を発動させた方が手っ取り早いだろう。
もっとも大魔法などはあくまでも手段の一つに過ぎず、おいそれと使うものではなかった。
それこそ人間と全面戦争をやっている最中はよく発動したものだが、一時的とはいえ和解協定をしている最中だ。
その平和を壊すようなことをしてはならない。それも魔術師側からその協定を覆すようなことを仕出かすなど以ての外だった。
だからこそ、エレアノーラが頭を痛ませながら悩んでいた。当たり障りなく、かといって人間どもに侮られない良い方法はないものかと。
そう考えるとやはり一番手っ取り早いのは力量の差を見せつけることに繋がり、最初から考え直すこととなる。
しまいには考えることすら面倒になってくるほどだ。幸いなことにまだ人間たちがこの屋敷までやってくるには時間がたんまりとある。
やり方はまた明日にでも考えればいい。それよりも今はいつまでものんきに紅茶を飲んでいるヴェルンヘルを屋敷から追い出す方が重要だった。
「それよりもいい加減帰れ」
「ああ、そのことなのだが……少々問題があって、な」
「どうしたんだ? ヴェルナー」
ヴェルンヘルは歯切れ悪そうに言葉を切ると、持ち上げていたティーカップを受け皿に置いた。妙に深刻そうな表情を浮かべるものだから柄にもなく心配してしまった。
様子を窺うようにヴェルンヘルの名を口にした瞬間、何故かエレアノーラの身体はソファに押し倒されていた。軽い力で押さえつけられているだけなのに、身体が思うように動かない。
まるで部分的に麻痺しているような感覚にエレアノーラは吐息がかかるかどうかというほど近くにある端整な顔立ちを睨みつけた。一瞬でも油断した自分が莫迦だった。
そうだ、コイツはこういう奴なのだ。何を考えているか分からない半面、相手の嫌がる事をするのが大好きな性癖の持ち主だった。
「テメェ……紅茶に何を仕込んだ?」
「口調が可笑しくなっているよ、ネリー」
「質問に答えろ、ヴェルンヘル」
今すぐにでも目の前にある横面を殴り飛ばしたいところだが、全身に回った痺れはそう簡単にとれそうもなかった。
悪態をつきそうになる唇を震わせながら殺気の篭った眼差しで睨みつけるが、組み敷いている相手はそしらぬふりを決め込んでいる。
頬を撫でる手のひらが妙に気持ち悪く、鳥肌が立った。
瞳を伏せている癖に、そういう雰囲気を楽しんでいるのだろう。とことん悪趣味な奴である。
「麻痺茸の粉末を少々入れさせてもらったよ。それにしても、数秒で普通は効果が出るはずなのだけど……さすがネリーといったところかな? 竜並の鈍さ……いやいや、耐性だよ」
「下らないことはいいから、早く退けこの変態」
「ここからが問題でね。色欲大陸まで戻る魔力が無くなってしまったようでね、ちょっと魔力を補充したいんだ。いいだろう? ネリー」
「寝言は寝てからいえ。魔力を貰うだけで人に薬を盛り、更に押し倒す必要がどこにある」
「だって、普通にお願いしても君は魔力を分けてくれないだろう? だったら実力行使するしかないよね」
甘ったるい声音が思考を徐々に奪っていく。抵抗出来ないのをいいことに、楽しげに近づいてくる端整な顔を眺めながらエレアノーラはとっさに強く唇を噛み締めた。
激しい痛みが口内に広がり、唇の端から血が零れ落ちる。生ぬるい鉄の味が口内に広がると同時にエレアノーラは魔法を発動させた。
次の瞬間、動かない身体が信じられない力を発揮し、ヴェルンヘルの横面を殴り飛ばした。
エレアノーラが繰り出した渾身の一撃により、盛大に吹き飛ばされたヴェルンヘルはそのまま壁を貫通し、隣の部屋まで吹き飛んでいった。
唇を噛み切った血を媒体とし、瞬時に魔法を展開させたのだ。右腕だけ肉体強化したため、詠唱することなくヴェルンヘルを殴り飛ばすことが出来たのだが、どうやら寸前の所で頬を撫でていた手で防がれてしまったようだ。
とはいえ、魔法で強化されていた拳の勢いを押し殺すことが出来ず吹き飛んでいったのだ。
元々、魔術師の癖に接近戦を得意とするエレアノーラは力が尋常じゃないほど強い。それは彼女が魔術師となる際、悪魔との契約によって得た副産物といっても良かった。
実際にエレアノーラが万全の状態で、ヴェルンヘルを本気で殴ったら百メートルは軽く吹き飛ぶだろう。
怒らせると問答無用で拳を振るう癖もあいまって、周りから色々と恐れられているほどだった。そんなエレアノーラに自ら手を出し、痺れ薬入りの紅茶を飲ませたのだから殴られて当然だ。むしろその程度で済んだことが奇跡に等しい。
魔法で強制的に動かしている右手で何とか上半身を起こすが、それだけで一苦労だ。怒りのあまり腸が煮えくり返っているためか、掴んだソファの背が嫌な音を立てて壊れるのが分かった。
それなりに気に入っていたソファだっただけに青褪めるエレアノーラ。当然のように怒りの矛先はヴェルンヘルに向けられた。
「エルリクに引き続き、お前もこの私を愚弄するとはいい度胸をしている。望みどおり消し炭にしてくれるわ!」
エレアノーラの怒号と共に殺気が風圧となり室内に吹き荒れる。制御しきれない魔力の波動も混じり、既に部屋は半壊状態であった。
自分の力では動かすことも出来ない体を魔法で無理やり動かす。やっとのことで、ソファから立ち上がると、破砕音を聞きつけたのか慌てた様にノアディアが部屋の扉を開いた。
「どうしたの、ネリー!?」
敵襲かと勘違いしたのか、妙に切羽詰ったようにこちらを見る。しかし、その手に人間がいないことに気づいたエレアノーラは顔を強張らせた。
身体が痺れて動かないのにも関わらず、自身の心配よりも人間をこの屋敷に一人にさせている事実の方がよほど心配だった。
力の入らない両足を震わせながらエレアノーラは入ってきたばかりのノアディアを睨みつける。
助けに来たはずなのに何故か睨まれたノアディアが困惑したように後退った。
「何故お前が一人でいる! あれだけ屋敷では人間を一人にするなといっただろう!」
「いや、でも……敵襲かと思って……」
「人間がそう簡単に結界を破れるか! むしろ結果以内にいる人間を野放しにするほうが危険だ。お前はもう少し危機感を持て!」
何のために人間の世話をノアディアに任せたと思っているのか、阿呆らしく思えてくる。
自分の周りにはまともな奴がいないことを思い知らされながらエレアノーラは思わずソファに崩れ落ちた。相変わらず手足が痺れてまともに動くことすらままならない。
魔法で強制的に動かしているとはいえ、その負担はかなりのものだ。解毒薬を飲んだほうがいいだろう。いや、そのまえにあの莫迦をもう数発殴り飛ばしてから――
などと考えていると、いきなり顎を掴まれ上に向けさせられた。驚いたように瞳を見開けば、いつの間にか側に戻ってきたヴェルンヘルに唇を塞がれる。
突然の行為に混乱するエレアノーラを他所に、塞がれた唇から何かが流れ込んできた。
妙に冷たい液体が喉を下っていく。ごくり、と無理やり飲まされた得体の知れない液体を呑み込んだのを確認したヴェルンヘルは唇を離した。
どうやら一緒に魔力も搾りとられたのか、頭がくらくらする。貧血状態だが、痺れていた指先に力が入ることに気がついた。
すぐさま視線をヴェルンヘルに向ければ、頬を盛大に腫らしながら楽しそうに微笑んだ。
「ギブアンドテイクだよ、ネリー。魔力を貰ったから、解毒薬を飲ませたんだ」
一石二鳥だろう? と阿呆らしい言葉を口にする魔術師に今度こそエレアノーラは憤激した。
「死ね! この変態女装野朗がぁ!」
エレアノーラの怒号と魔力の暴走により、屋敷が半壊したのはいうまでもなかった。