第4話 魔王様、初めてのお給仕でお小遣いをもらう
翌朝、俺はティアを連れて近くの町まで足を延ばし、着替えや日用品を買い出しに行くことにした。
女神様は実に気前が良く、カウンターの引き出しには金貨が数枚用意されていたのだ。これだけの初期資金があれば、当面の生活には困らないだろう。
ただ、ここはあまりにも辺鄙すぎる。
未舗装の土道を二人で一時間近く歩いても、周囲には荒野が広がるばかりだった。
運良く通りかかった馬車に拾ってもらえたからよかったものの、親切な御者によれば、最寄りの村までまだ歩いて半時間はかかるらしい。彼は快く同乗させてくれただけでなく、ティアの頭に生えた魔族の角を見ても全く気にする素振りがなかった。
どうやら、人と魔族が共存する平和な時代は本当に実現したらしい。前世で何十年も奔走した苦労は、決して無駄ではなかったのだ。
村に到着後、ティアの服や必需品を買い揃え、再び通りすがりの馬車に便乗して、夕暮れ前には帰路についた。
だが――。
「おいアル、あれを見るのだ」
すずし亭の近くで馬車を降りると、ティアが丘の上を指差した。
彼女の視線を追うと、夕日に照らされた宿屋の前に、見知らぬ人影がポツンと立っている。
二人で荷物を下ろし、宿屋へと近づいていくと、向こうもこちらに気づいて歩み寄ってきた。
「すみません……あなたがここの主人ですか?」
どうやら行商人のようだ。ただ、荷馬車は見当たらず、服も泥だらけでひどく疲れ切っている。
「ええ、宿屋『すずし亭』の店主ですが」
「よかった! 少し先で馬車が壊れてしまって……。次の村まではまだかなり距離があるし、途方に暮れていたんです。空き部屋はありますか?」
こんな辺境に、こんなに早く最初の客が訪れるとは思わなかった。
「もちろんです。大歓迎ですよ。うち、今日から営業を始めたばかりなんですよ。――ティア、客室の準備を手伝ってくれ。仕事の時間だぞ」
「なんだと? この儂をこき使う気か!」
「今日の夕飯はコーンスープとハンバーグだぞ」
「さあさあ、人間のお客様こちらへどうぞ! 馬車もここまで運んでおきましょうか!?」
魔王の威厳もへったくれもないな。これからはお子様ランチで手懐けられるんじゃないか?
ともかく、すずし亭に記念すべき第一号の客がやってきた。前世で宿屋に泊まった時に感じたあの温もりを、この宿を訪れる全員に味わってもらえるよう、心を込めてもてなそう。
俺は行商人を客室へ案内して少し休んでもらい、厨房に入って夕食の準備に取り掛かった。
ティアは自ら進んで故障した馬車を運ぶと言っていたが、今の彼女の魔力でまともな魔法が使えるのだろうか。
ティアにはハンバーグを約束したが……さすがに初のお客さんにまでお子様ランチめいたものを出すわけにはいかない。そうだ、さっき村で卵と米と肉を買ったな……よし、チャーハンにしよう!
厨房にある一番大きくて重そうな鉄鍋を手に取ってみたが、勇者の肉体を持つ俺には全く重さを感じない。ただ、備え付けの魔力コンロはどうも火力が心もとない。
そうだ、女神様は「宿屋の中なら勇者の力が使える」と言っていたな。試しにやってみるか。
「――『火球』」
よし、いい感じだ!
予想通り、攻撃用の火球を空中に維持して火加減を完璧に調節できた。やはりチャーハンはこうでなくては。前世の野営でもよくこうやって男飯を作っていたから、このスキルが再現できるのは本当にありがたい。
もしもっと火力が必要になったら、次は『地獄の業火』でも試してみるか……。
あっという間に夕食が完成した。
ティアのほうも、浮遊魔法を使って馬車ごと運んできたらしい。息を切らしているし、あとでハンバーグを一つおまけしてやろう。
「お客さん? 夕食の準備ができましたよ」
客室のドアをノックする。どうやら行商人は眠りについたばかりだったようで、悪いことをしてしまった。次は食事の時間を事前に確認するか、部屋食にしたほうがいいかもしれない。
幸い、行商人は気にする様子もなく起きて、食堂の席に着いてくれた。俺もその向かい側に座る。
「ティア、お客さんの料理を運んできてくれ」
「うう……」
料理はすべて木のお盆に乗せられている。十歳にも満たない幼女の体格では大きなお盆を運ぶのも一苦労らしく、ティアはふらふらと頼りない足取りでなんとか運んできた。
「おや! お手伝いして偉いねえ。店主の娘さんですか?」
「いえ、友人の子供でして。少し預かっているんです」
行商人が微笑みながらティアの頭を撫でようとすると、彼女は少し怒ったようにぷいっと避けた。
「このチャーハン……いい匂いですね!」
目の前の黄金色に輝くパラパラのチャーハンを見ると、行商人はすぐにスプーンを手に取り、大きな口で頬張った。
「美味い! ごく普通の食材なのに、火加減が絶妙だ。ご主人、相当な腕前ですね!」
「買い被りですよ。野営の時に覚えた、ただの男飯ですから」
火加減を攻撃魔法で調整したとは言えないが、味は確からしい。
隣に座るティアは、ハンバーグを口いっぱいに詰め込んでハムハムと咀嚼しながら、大きな目で行商人をじっと見つめている。もっとも、本人の口の周りも肉汁でベトベトだが。
夕食を終え、行商人は何度も感謝の言葉を口にしながら客室へと戻っていった。
馬車の故障のせいか、今日は相当疲れ切っていたらしい。客室からベッドがきしむ音が聞こえたかと思うと、数秒後にはもう穏やかな寝息が響いてきた。
どうやらこの宿には、人を安眠へと誘う不思議な力があるようだ。
厨房では、ティアに皿洗いのやり方を教えていた。昨日彼女に任せたら、厨房中が泡だらけになってしまったのだ。
「まったく! なぜこの儂が、たかが人間のために皿など洗わねばならんのだ!」
ティアは水しぶきを派手にあげながら、ぷんぷんと文句を垂れる。
「そう言うなよ」
俺は彼女が洗った皿を受け取り、布巾で水気を拭き取る。
「こうして疲れ切った人に温かい飯と安心して眠れる場所を提供するのって、なんだか嬉しいと思わないか?」
前世は常に戦場や交渉のテーブルを駆け回っていた。だからこそ、こうして穏やかに誰かのために働ける今の生活に、俺は心からの充実感を覚えていた。
ティアは手元のスポンジを止め、小首を傾げて俺を見た。
「ふん、物好きだな。……ところで、あの人間から宿泊代はいくら取るつもりなのだ?」
「……え?」
「お前まさか……まだ値段も決めてないんじゃないだろうな?」
ティアのジト目に晒され、俺は気まずく視線を逸らした。
言われてみれば、宿屋である以上、お金をもらうのは当然だ。さっきは飯を作ることばかりに気を取られて、完全に頭から抜け落ちていた。
まあいい、明日の朝になんとかしよう。
翌朝。
「ご主人! 本当にありがとうございました!」
カウンターの前に立つ行商人はすっかり顔色も良くなり、昨日の悲壮感は嘘のように消え去っていた。
「こんなにぐっすり眠れたのは久しぶりですよ。全身の疲れがすっかり吹き飛びました!」
一泊銀貨一枚でいいと伝えたのだが、行商人は宿泊代と食事代として気前よく銀貨二枚を支払ってくれた。
さらに去り際、わざわざティアの前に歩み寄ると、微笑みながら銅貨二枚を差し出した。
「お嬢ちゃん、昨日は夕食を運んでくれてありがとうね。お小遣いだよ」
「わ、儂はこんなもの……」
口ではそう言いながらも、ティアはその銅貨二枚を小さな手でしっかりと握りしめた。その素直じゃない態度に、俺は思わず苦笑してしまう。
行商人の馬車を見送った後、カウンターに戻り、硬貨を引き出しにしまおうとした時のことだ。
不意に、カウンターの上に置かれた『宿泊者名簿』が柔らかな光を放ち、自動的にページが開いた。
真っ白だったページに、光る文字がゆっくりと浮かび上がる。
『ウェンデル・ニコラ』
さっきの行商人の名前だろうか。そういえば、こちらの名を名乗るのも相手の名前を聞くのもすっかり忘れていたな。
名前の横にはさらに文字が続いている……。
『銀貨二枚、95』
これは一体どういう意味だ?
文字が浮かび上がった直後、すずし亭の建物全体が微かに揺れた。
俺はさっき行商人が泊まっていた客室のドアを開けた。
元々あった簡素な木のベッドは跡形もなく消え去り、代わりに清潔なシーツが敷かれた、ふかふかで寝心地の良さそうなマットレスが置かれていた。
「どうやら、お客さんの満足度が高いと、この宿の設備がアップグレードされる仕組みみたいだな」
「ふん! くだらんからくりだ! リリアの奴、お前を猿回しの猿扱いしているだけではないか!」
「……女神様と呼びなさい」
俺はティアの両肩をむんずと掴み、ギリィ……と少しだけ力を込めた。
「いっ、痛い! はな、離せ! 女神様……女神様! これでよかろう!」
これも女神様からのご厚意のはず。これ以上、神を冒涜させるわけにはいかないからな。
これからもっと快適な部屋や設備を解放していくためにも、少し真面目にこの宿屋を経営してみるのも悪くないかもしれないな。




