猫と飛行機
帰国の当日。
朝だった。出発まで二時間あった。
リヴァはソファに座っていた。ミントが膝の上にいた。のどを鳴らしていた。
荷物はもう玄関にまとめてあった。テキサスに来た時より、少し増えていた。
ミントのキャリーケースが増えた分だった。イーサンが昨日、近くのペットショップで買ってきた。何も言わずに玄関に置いてあった。
アルノが廊下を歩いていた。端末を見ながら。いつも通りだった。
ヴィクトルが出てきた。紙を持っていた。
「できたぞ」
アルノが端末から目を上げた。
「早いですね」
「一年前から飼ってたことにしてる」
「子猫では」
「なんとかなる。検査機関の記録も存在する。正式な機関の、正式な記録としてだ」
アルノは少し間を置いた。
「……わかりました」
「文句あるか」
「ありません」アルノは眼鏡を押し上げた。「助かります」
ヴィクトルは紙をアルノに渡した。アルノは受け取った。一度だけ見た。それ以上何も言わなかった。
「じゃ、次に会うのは日本だな」
「ヴィクトルはテキサス残るの」
「ちょっと西海岸に用がある」目の下のクマがすごかった。さすがに二徹はこたえたらしい。「ハリウッドが俺を呼んでる」
リヴァはカイを見て言った。
「ヴィクトル、テンション変になってる」
「疲れてる。放っとけ」カイが言った。
ミントがリヴァの膝でのどを鳴らした。
チャーター機の中。エンジン音が低く続いていた。
ミントはキャリーケースに入っていた。リヴァの足元に置いてあった。丸くなっていた。緑色の目が、格子越しにリヴァを見ていた。
「大丈夫?」リヴァは言った。
ミントはのどを鳴らした。
「大丈夫みたい」
「当然だ」カイは言った。隣のシートから。「この猫は肝が据わっている」
「テキサスの猫だから」
「テキサス関係ない」
リヴァはケースのロックを外した。
「規則上は」アルノが言いかけた。
扉が開いた。アルノが止まった。
ミントが顔を出した。周りを見た。匂いを嗅いだ。それからゆっくり出てきて、リヴァの膝に乗った。
アルノは少し間を置いた。
「……チャーターですので」と言った。眼鏡を押し上げた。
しばらく、エンジン音だけが続いた。
リヴァは窓の外を見た。雲があった。高度が高かった。地面が見えなかった。
ミントが膝で伸びをした。それからまた丸くなった。
「ミント」リヴァは言った。
ミントが目を開けた。
「日本って、知ってる?」
ミントは答えなかった。また目を閉じた。
「知らないよね」
リヴァはケースを少し見た。
「テキサス生まれの猫が日本に行くって、どんな気持ちだろう」
「気持ちはない」
「あるよ」
「……あるかもしれない」カイは少し間を置いた。「ただ、あの猫は大丈夫だ」
リヴァはミントを見た。ミントは目を閉じていた。エンジン音の中で、静かに眠っていた。
動物検疫のカウンターに向かった。
アルノが書類を出した。
担当者が確認した。ページをめくった。また確認した。戻った。また確認した。
アルノが眼鏡を押し上げた。カイが腕を組んだ。
リヴァはミントのケースを足元に置いて、担当者を見ていた。
ミントも格子越しに担当者を見ていた。
担当者がミントと目が合った。のどを鳴らした。担当者が少しだけ表情を崩した。
「テキサスから?」
「そうです」
「ロシアンブルーですか」
「そうです」
「目が綺麗ですね。いつから飼われてるんですか」
「昨日——」
アルノがリヴァの肩に手を置いた。
「一年前です」アルノは言った。「彼女が一目惚れしてしまって、それからずっと一緒にいます。日付の感覚がなくなるくらい」
担当者がリヴァを見た。アルノを見た。
「……かわいい彼女さんですね」
アルノが少し止まった。
「はい」と言ってリヴァの肩を抱いた。
カイの空気が変わった。
担当者は書類に戻った。
「お気持ち、わかります」
カイがアルノを見た。アルノはカイを見なかった。書類の方を見ていた。
カイがアルノを睨んだ。アルノは眼鏡を押し上げた。
担当者がまた書類を確認した。
「……問題ありません」
「ありがとうございます」
カウンターを離れた。
カイがアルノを見た。
「彼女」
「成り行きで」アルノは端末を取り出した。「他に言い方がありますか」
「ある」
「たとえば」
カイは少し間を置いた。
「……仲間、とか」
「不自然です」
リヴァはミントのケースを持ち直した。
「助かった」リヴァは言った。アルノに。
「次からは黙っていてください」アルノは端末を見たまま言った。「事前に言いましたが」
「言ってない」
「二度言いました。朝と、飛行機の中で」
「聞いてなかった」
アルノが少し止まった。
「……聞いていてください」
カイがまだ微妙な顔をしていた。ミントがのどを鳴らした。
東京、新拠点に帰り着いた。
ドアを開けた瞬間、ユキナガが立っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「で」ユキナガはリヴァの手元を見た。キャリーケースを見た。「本当に連れてきたの」
「連れてきた」
「マジか」
その後ろに、オラヴルがいた。
オラヴルはリヴァを見ていた。上から下まで、一度。それから、もう一度。
リヴァの手首を取った。指が脈の上に乗った。
リヴァは取られた手首を見た。苦笑いした。
「大丈夫だよ」
「……うん」オラヴルは手を離した。離す前に、一瞬だけ間があった。「なかなか連絡してもらえなかったから」
「忙しかったから」
電話をすれば、オラヴルは必ずリヴァの体調をひとつずつ確認する。
後回しにしているうちに帰国の日になった——とは、言わなかった。
代わりに、ユキナガが横でにやついていた。
リヴァはユキナガを軽く睨んだ。
ユキナガは口の端を上げたまま、視線を逸らした。
「……オラヴルが心配性なだけ」リヴァは言った。
「…そうかもしれない」オラヴルは言った。否定しなかった。心配性、で済ませてくれたことに、少しだけ救われた顔をしていた。
「…写真で見たより小さいね」オラヴルはケースを見た。
「子供だから」
ユキナガがケースの前にしゃがんだ。ミントがユキナガを見た。
「……めっちゃかわいい」
「でしょ」
「目が綺麗」
「テキサスで全員そう言った」
「そりゃ言うよ」
ミントをケースから出した。
ミントがリビングに出た。部屋を見渡した。ゆっくり歩いた。隅々まで確認した。
全員が黙って見ていた。
ミントが歩くのをやめた。顔を上げた。全員を一度、見回した。
それから、まっすぐオラヴルのところへ歩いた。
オラヴルの足に体をこすりつけた。一周した。もう一周した。それから、座った。オラヴルの足の上に、前足を乗せた。見上げた。のどを鳴らした。
部屋が静かになった。
「……は?」ユキナガが言った。
オラヴルが動かなかった。自分の足元を見ていた。
「僕は」オラヴルは言った。少し止まった。「動物と接点があんまりなかったから」
「なんかすごいけど」ユキナガが言った。
「……そう、なのか」
オラヴルがゆっくりしゃがんだ。ミントの背に手を伸ばした。ミントは逃げなかった。手のひらの下で、のどを鳴らし続けた。
オラヴル本人が、一番驚いた顔をしていた。
「テキサスの猫だから」カイが言った。
「テキサス関係ありません」アルノが言った。
ミントがのどを鳴らした。




