医務室、昼過ぎ
日本。新拠点。昼過ぎだった。
医務室でローワンが書類を整理していた。ユキナガが入ってきた。用はなさそうだった。椅子を引いて座った。
「ローワン、年上の女性と付き合ったことある」
ローワンが書類から目を上げた。
「唐突ですね」
「暇だから」
「私は暇ではありません」
「ちょっとだけ」
ローワンが書類を置いた。諦めた顔だった。
「…ある」
「何個上」
「あなたと同じくらいの歳の頃に、4つ上の女性と付き合ってました」
「どんな人」
「患者です」ローワンは窓を見た。「アイスランドにいた頃の話ですが」
「それ、倫理的に」
「当時はまだ患者ではなかったですよ」一拍。「順番の話です」
「別れたの」
「アルカに入りました」ローワンは短く言った。「それだけです」
ユキナガは煙草を出した。ローワンを見た。ローワンが目で外を示した。ユキナガは煙草をしまった。
「未練あんの」
「ない」
「即答」
「時間が経ちました」ローワンが書類に戻った。「それだけです」
「俺も年上がいいと思って。5個上くらいの。ちゃんと自分持ってる感じの」
「いい趣味ですね」ローワンは書類を見たまま言った。「振り回される」
「それがいい」
「あなたの歳の頃は皆そう言います」
「ローワンもでしょ」
ローワンが少し止まった。
「……言ってましたね」と少し経ってから言った。静かだった。遠かった。「確かに」
ユキナガはその顔を見た。
何も言わなかった。
書類をめくるローワンの横顔が、少しだけ違う時代にいる気がした。
ユキナガはローワンを見た。
「アイスランド、どんなとこ」
「寒いですよ」とローワンは言った。書類に目を落としたまま。「年の半分は暗い」
「暗い?」
「日が出ない時期があります。昼でも夜みたいな空です」
「それ、しんどくない?」
「慣れます」一拍。「ただ、慣れても暗いものは暗い」
ユキナガは少し考えた。
「その人と、暗い時期に付き合ってたの」
ローワンが書類をめくる手を止めた。
「……そうですね」と少し経ってから言った。「暗い季節が多かった」
「別れたのも暗い季節?」
「いいえ」ローワンは窓を見た。「私が出ていったのは、夏でした。白夜の頃です」
「白夜」
「ずっと明るい。夜中でも空が白い」ローワンは続けた。「暗い季節より、白夜の方が孤独な気がします。明るいのに、誰もいない感じがして」
ユキナガは何も言わなかった。
ローワンが書類に戻った。
「アルカに入ったのは」とユキナガは言った。「逃げたかったから?」
「逃げた、とは少し違います」ローワンは静かに言った。「ただ、いられなくなった。それだけです」
「何かあったの」
「色々と」
「色々って」
「色々です」
ユキナガは煙草を取り出しかけて、やめた。
「ローワンって」
「何ですか」
「後悔してる?」
ローワンが少し止まった。
窓の外を見た。武蔵境の昼の空だった。アイスランドとは全然違う空だった。
「後悔、という言葉が正確かどうかわかりません」と彼は言った。「ただ」
一拍。
「たまに、白夜の夢を見ます」
それだけだった。
続けなかった。
ユキナガはローワンの横顔を見た。
何か言おうとした。
やめた。
「俺さ」とユキナガは言った。話を変えた。「アルカ入る前、年上の常連さんがいたんだよね。バーテンの時の」
「どんな方ですか」
「50過ぎのおじさん。毎晩ウイスキーを3杯だけ飲んで帰る。無口で、いつも同じ席に座って」
「あなたと話したのですか」
「最初は全然。でもある時急に話しかけてきて」ユキナガは天井を見た。「お前は何がしたいんだ、って」
「何と答えたのですか」
「わかんない、って言った」
ローワンが少し口元を動かした。
「正直ですね」
「そしたらそのおじさんが」ユキナガは続けた。「わかんないなら、何でもできるな、って言って。それだけ言ってウイスキー飲んで帰った」
「……いい言葉ですね」
「そのおじさんが後で俺にハッカーのこと教えてくれたんだけど」ユキナガは笑った。声が出た。「今思うと布石だったのかもしれない。あの言葉も含めて」
「それでも」とローワンは言った。「言葉は本当だったと思いますよ」
ユキナガは少しの間、天井を見ていた。
「……ローワン」
「何ですか」
「年上がいいって思うの、なんでだと思う」
ローワンが書類から目を上げた。
ユキナガを見た。
ユキナガは天井を見たままだった。
「さあ」とローワンは言った。「あなたはどう思いますか」
「わかんない」
「わかんないなら」
「何でもできる、ね」ユキナガは笑った。今度は声が出なかった。「すぐ使うじゃん」
「いい言葉です」
ユキナガが立ち上がった。
ドアに向かった。
出る前に少しだけ振り返った。
「ローワン」
「何ですか」
「白夜の夢、悪い夢じゃないといいね」
ローワンは少しの間、ユキナガを見た。
「……ええ」と彼は言った。静かだった。「そうですね」
ドアが閉まった。
医務室に、昼の光だけが残った。
ローワンは書類に戻った。
戻ろうとした。
手が止まった。
書類の端に、今夜の任務の概要が印刷されていた。
ドアが再び開いた。
ユキナガだった。
「そういえば」と彼は言った。「今夜の任務、ローワンが行くんだっけ」
「……ええ」
「カズマ謹慎中だから」
「……アルノにたまに働けと言われちゃいました」
「ひでぇ」
ユキナガはローワンを見た。
ローワンは書類を見たまま動かなかった。
「行きたくなさそう」
「そんなことはありません」
「顔に出てる」
ローワンが書類を置いた。
窓の外を見た。
「……ユキナガ」
「なに」
「あなた、実戦訓練を積む気はありませんか」
「は」
「今から鍛えれば、半年後には現場に出られます」
「半年後の話してる場合じゃないでしょ今夜なんだから」
「鍛えてくれれば、私が行かなくて済むんですが」
「絶対嫌だ」
「そうですか」ローワンは溜息をついた。深い溜息だった。「残念です」
「なんで行きたくないの」
「理由はないです」ローワンは書類を手に取った。「ただ」
一拍。
「今夜は雨の予報です」
「……それだけ?」
「膝が痛むんです」とローワンは言った。穏やかに。完全に穏やかに。「古傷が」
ユキナガは止まった。
ローワンに古傷はない。
少なくともユキナガの知る限り。
「……嘘じゃん」
「医療的な予防措置として、雨の日の実働は控えるべきです」
「それローワンが決めてる基準でしょ」
「私は医師なので」
「自分に診断下すな」
ローワンが書類をめくった。
ため息が、もう一回出た。今度は小さかった。
「その膝のやつって今テキサスでリヴァたちといる人のやつ」
「よく知ってますね」
本当に行きたくない時の顔だった。
「……ユキナガ」
「なに」
「カズマはいつ謹慎が明けますか」
「数か月後じゃなかった?」
「任務を延期する方法はありませんか」
「ない」
「……わかりました」ローワンは立ち上がった。白衣を手に取った。「行きます」
「急に諦めた」
「諦めたのではありません」ローワンは白衣を羽織った。「準備をしています」
「さっきまで全力で回避しようとしてたじゃん」
ローワンはユキナガを見た。
穏やかだった。
完全に穏やかだった。
「……していましたね」
それだけ言って、ドアを開けた。
「気をつけて」とユキナガは言った。
ローワンが少し止まった。
「ええ」と彼は言った。「あなたも」
ドアが閉まった。
ユキナガは医務室に一人残った。
窓の外を見た。
空が、少し曇っていた。




