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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第三章「境界圏 ― Threshold Zone」

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コンラッド東京:Aftermath

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。



 時間が経った。どれくらいかわからない。グレイはずっとそこにいた。煙草を吸っていた。


 思えば、グレイは時計をしていなかった。部屋にもなかった。


 気が遠くなる。思考にもやがかかる。


「寝ないでください」


 声がする。


 目を開ける。グレイがいる。近い。


「……」


 頭が重い。体が熱い。


「苦しいですね」


「……うるさい」


「そういう顔をするんですね」


 離れなければ。身をよじると、ソファから落ちた。


 床に手をつく。


 このまま這ってでも扉まで行かなければ、と思った。


 グレイが立ち上がる。


 ゆっくりと、リヴァの前に立った。


 革靴のつま先が、視界に入る。


 その先が、リヴァの顎の下に入った。


 軽く、押し上げる。


 顔が上を向く。


 グレイを見上げる角度に、固定された。


「こちらを見てください」


 声が上から降ってきた。


 顎を上げる靴の先には、力がなかった。けれど、外せなかった。


「よく見えますね。可哀想に」


 リヴァの目に、新しい涙が浮かんだ。


 グレイがそれを見て、少し首を傾けた。


「いい角度です」


 そう言った。


 顔が上を向く角度。


 涙の流れる方向。


 呼吸の浅さ。


 グレイは見ていた。


 靴の先が、ゆっくりと離れた。


 リヴァの顔が、力なく下に落ちた。


 グレイがしゃがむ。リヴァの頭に手を伸ばして、まるで子供にするように、撫でる。動けない。振り払えない。


「帰…して」


 その言葉に、グレイが答える。


「帰る場所がありますか、あなたに」


 言葉が詰まった。あるはずだった。


「アルカに、」


「助けに来ませんでしたね」


 窓の外の夜景が、遠くて綺麗だった。こんな状況なのに、綺麗だと思った。


 撫でていた手で髪を一束摘み、親指と人差し指で弄んだ。


 それから、その一束つまんでいた髪に、ゆっくりと口づけた。


 時間が、ゆっくりと流れた。穏やかな声と、髪をなでる行為。


 恐怖と交互に襲ってきて、あたまがおかしくなりそうだった。


 グレイの指が、ふと、リヴァの唇の端に触れた。


 軽く拭うような動きだった。


「滲んでいますね」


 口紅のことだった。


 頬を打たれたとき、唇の端が少し動いて、紅が滲んだのだろう。グレイはそれを、親指の腹で、丁寧に拭った。


 拭った指を、自分の目の前で確認した。


 赤が、指についていた。


 グレイはそれを、ハンカチで拭いた。


 ハンカチをポケットに戻した。


「これで綺麗です」


 そう言った。


 体の感覚が少しずつ戻ってきた。指が動く。足に力が入り始める。もう一度、立ち上がろうとする。今度はかろうじて、立てた。


 グレイと距離を取る。


 壁に手をつく。ふらつく。でも立っている。


「もうそんな時間ですか」


「……」


 扉に向かう。足が重い。一歩ずつ。


「また会いましょう」


 背後からグレイの声がした。


 扉を開け、廊下に出る。空調の冷たい空気だった。


 扉が閉まる音がした。


 廊下に、案内役の男はいなかった。


 できるだけ扉と距離を取り、廊下の壁に背中を預ける。


 ずるずると、そのまま座り込んだ。手が震えていた。カーペットが無機質で、でも柔らかかった。


 まだ、グレイに見られている感覚がする。


 しばらく、動けなかった。


 涙がまだ出ていた。


 蹲って、ひざに額を付けた。


 耳の奥で短いノイズが走った。


『リヴァ』


 通信だった。アルノの声だった。


 答えようとした。声が出なかった。


『リヴァ、聞こえますか』


「……聞こえる」


 かろうじて出た声が、自分のものじゃない気がした。


『カイが向かっています』


 その後ろで、ユキナガの声がした。


『ごめん。気づくの遅れた』


「……何」


『最初の音声、返されてた。同じ会話がループしてた。接続表示も落ちてなかった』


 少し間があった。


『空調のノイズまで同じ位置で繰り返してて、そこで気づいた』


 廊下の向こうから足音がした。


 カイだった。


 走ってきた気配があった。息が少しだけ上がっていた。


 廊下の端で床に座っているリヴァを見た。


 一秒、止まった。


 それから歩いてきた。


 走らなかった。


 リヴァの前に片膝をついてさらに、屈んだ。


 目線が同じ高さになった。リヴァは少しだけ顔を上げた。


 顔を見た。何も言わなかった。


「……カイ」リヴァは言った。


「ああ」


「……帰りたい」


「わかった」


 彼はリヴァの背中に手を通し、抱き上げた。


 歩き出した。エレベーターに向かった。


 涙が止まらない理由をまだ考えていた。


 体が覚えていた。


 誰かがそう設計した、とグレイは言った。


 誰かが。


 エレベーターの扉が開いた。カイが乗り込んだ。扉が閉まった。


 鏡張りの壁に、二人が映った。


 カイは正面を向いていた。左手首のダイブコンピュータが、蛍光灯を反射していた。


 リヴァは自分の顔を見た。


 涙が出ていた。震えていた。


 自分の顔が、知らない顔みたいだった。


「カイ」


「ああ」


「カイ」


「ここにいる」


 カイは少しの間、リヴァを見た。


 エレベーターが降りていった。


 リヴァはカイの胸に、少しだけ頭を預けた。


「…カイ」


 カイは何も言わなかった。


 エレベーターが減速した。


 エレベーターがロビーに着いた。


 扉が開いた。


 カイが抱えたまま出た。


 アルノが立っていた。


 ロビーの端だった。壁を背にして、腕を組んでいた。ユキナガがその隣にいた。端末を持ったまま、画面を見ていなかった。


 二人ともリヴァを見た。


 カイは止まらなかった。


 アルノの横を通り過ぎようとした。


「カイ」アルノが言った。


 カイが止まった。


 振り返らなかった。


「説明します」アルノは言った。「私は——」


「途中から聞こえてた」


 カイの声だった。


 低かった。いつもより低かった。抑えている声だった。


 ユキナガが顔を上げた。


「最初は俺が騙された」ユキナガは言った。「接続は正常だった。音声だけ、前の会話を返されてた」


「ユキナガの責任ではありません」アルノが言った。


 カイがようやく振り返った。


「じゃあ、気づいてからは」


 アルノが少し止まった。


「聞こえていました」


「それでも止めなかった」


「はい」


「突入すれば」アルノは言った。「グレイは持っているものを使います」


 カイはリヴァに視線を落とした。


「神経薬理学の専門家が同行していました」アルノは声の温度を変えなかった。「密室で強行すれば、グレイが次に何を使うか予測できなかった」


 カイが少し止まった。


「グレイはそれをわかった上で、あの部屋を選んでいます。通信を偽装し、こちらが異常に気づいた時には、突入の判断そのものを遅らせる状況を作っていた」


「それが一つ」とアルノは続けた。「もう一つは情報です。グレイはリヴァの過去を知っている可能性があります。今夜それを確認する必要があった。突入すれば、グレイは二度と話をしない」


「それがお前の判断か」


「はい」


「リヴァを使って?」


「……リスクを取ると判断した。それは事実です」


 カイが一歩、アルノに近づいた。


 アルノは退かなかった。


「お前が聞いてた声は」とカイは言った。「情報か」


 アルノが止まった。


 眼鏡のブリッジに手をかけた。手が止まった。


「……聞こえていました」彼は言った。「途中から、全部」


「ならわかるだろ」


「わかっています」アルノは視線を外さなかった。「わかっていて、止めなかった。それが今夜の私の判断です。正しかったと今も思っています」


 ユキナガが床を見た。


 カイはアルノを見たまま、しばらく動かなかった。


 それ以上何も言わなかった。


 リヴァを抱えたまま、カイは歩き出した。


 出口に向かった。


 車に乗った。


 カイのスカイラインだった。後部座席にリヴァを乗せた。自分が運転席に座った。


 エンジンをかけた。


 アルノが助手席のドアを開けた。


 カイは何も言わなかった。


 アルノとユキナガが乗った。ドアを閉めた。


 車が動き出した。


 誰も何も言わなかった。


 首都高の入口に差し掛かった頃、アルノが口を開いた。


「……リヴァ」アルノが言った。前を向いたまま。


「今夜のことは」一拍置いた。「あなたに負担をかけました」


 リヴァは窓の外を見ていた。


「アルノ」リヴァの声は小さかった。


「はい」


「怒るカイの声、初めて聞いた」小さくそう言った。


 アルノが少し止まった。


「……はい」彼は静かに言った。


 カイはハンドルを握ったまま、何も言わなかった。


 首都高の光が、フロントガラスを流れていった。


 リヴァは後部座席で靴を脱いで、膝を抱えて蹲った。


 体がまだ重かった。

"A Minute to Breathe” / Trent Reznor & Atticus Ross

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