太平洋の端
成田空港の、一般ターミナルとは別の区画。
チャーター機専用のゲートは、どこか空港の文法から外れた場所にある。保安検査もない。搭乗案内のアナウンスもない。免税店もない。ただ、機体がある。
機体はBombardier Global 6000。
東京からダラスまで、無給油で届く航続距離を持つ長距離機だった。
外装は光を吸うようなダークグレー。派手さはないのに、近づくと質量だけが先に伝わってくる。登録上の機体番号は存在しているが、アルノ曰く「それは通関用の仮の個体情報だろう」とのことだった。
つまり、正規の書類の上では“いる”ことになっているが、実態としてどの会社にも属していない機体だ。
ダラスまで直行できる距離を、誰の顔色も見ずに飛ぶためだけに用意された移動手段だった。
タラップの前に、ヴィクトルが立っていた。
いつも通りの格好だった。ジャケットの下はシャツではなくカットソー。Sobranie Black Russianを指に挟んでいた。煙を吐きながら、こちらを見た。
「遅い」
「定刻通りだよ」とリヴァが言った。「ヴィクトルが早いの」
「そうか」彼はリヴァをもう一度見た。それから荷物を持った。「乗れ」
機内は、思っているよりずっと静かだった。
前方に6席のシングルシート、ウォールナットのサイドテーブルが各席に付いている。中央に向かい合わせの4人用テーブル席、革張りのソファが左右に一脚ずつ。後方に個室が一室。天井が高く、窓が大きい。照明が落ち着いた電球色で、朝の光の中でも機内だけ夜みたいな色をしていた。
後方の区画だけ、少し空気が違った。灰皿がある。ヴィクトルのチャーターだから当然だった。
ギャレーには専任のクルーが一人。40代の男で、余計なことは何も言わない。
リヴァが先に乗って、窓際のシングルシートに荷物を置いた。AXMCのケースはカーゴに預けてある。機内に持ち込んだのは、小さいバックパックひとつ。
シートに座って、窓の外を見た。成田の朝の空は薄く曇っていた。
カイが乗ってきた。リヴァの席の隣、通路を挟んだシングルシートに座った。無言でGauloisesの箱をシャツのポケットから出して、テーブルに置いた。
アルノが前方のシートにすでに着席していた。テーブルに端末を展開して、離陸前から資料を確認していた。ジャケットは脱がない。
ヴィクトルが最後に乗ってきた。タラップを上がる前に煙草を一口吸って、機内に入る直前に灰皿で押した。中央のテーブル席に荷物を置いて、リヴァの斜め前のシートに座った。
「バーテンのハッカーがいない」とヴィクトルが言った。
「日本に残ります」とアルノが端末から目を離さずに言った。「あと、ハッカーのバーテンですので」
溜息。
「ローワンと二人で待機しています。現地との無線サポートと、帰国後の案件の準備があります」
「本人は何て言ってた」
「最悪、と言っていました」
「だろうな」とヴィクトルが言った。
「ローワンはなぜ来ない」カイが言った。
アルノは目を離さず答える。
「拠点が手薄になります。…本来はもう一人いなくはないですが」
通信が入った。ユキナガだった。
『聞こえてるよ。まあ仕方ない』
「ちゃんと寝てね」とリヴァが言った。
『寝る。向こうついたら連絡して。あと』
少し間があった。
『気をつけて』
短かった。ユキナガにしては珍しい言い方だった。
「わかった」
通信が切れた。
エンジン音が低く上がった。機体が動き出した。
滑走路へ。加速して、日本の地面を離れた。
機体が傾いた瞬間、窓の外で成田の街が小さくなった。田んぼの緑、住宅地の屋根、遠くに見える湾岸のコンビナート。それが全部、窓枠の中に収まって、それから雲に隠れた。
水平に戻った。シートベルトサインが消えた。
クルーが動いた。無言でギャレーを開けて、ワゴンを出してくる。音がしない動き方だった。
ボトルが並んだ。
バーボンのバッファロー・トレース、スコッチのグレンリベット12年、ジンのタンカレー。それからシャンパンがマグナムボトルで一本。氷入りのアイスペールと、チェイサー用のミネラルウォーター。グラスがシートごとに配られた。
つまみは、スモークナッツと薄切りのチャルキュトリが木の板に並んでいた。
ヴィクトルが迷わず手を伸ばして、バーボンをロックで頼んだ。クルーがグラスに注いだ。
アルノがグレンリベットのストレートをテーブルの端に置いた。端末から目を離さなかった。
「何飲む」
カイがリヴァに聞いた。
「コーヒー」
「酒じゃないのか」
「朝だよ」
「朝でも飲む」
「私は飲まない気分」
カイがクルーに目で合図した。コーヒーが来た。ブラックで、小さいカップに入っていた。
リヴァがそれを受け取った。一口飲んだ。
悪くなかった。
カイがGauloisesに火をつけた。マッチだった。擦る音が機内に小さく響いて、煙草の匂いが広がった。
ヴィクトルがSobranie Black Russianを取り出した。金のフィルターが照明を反射した。火をつけた。甘みのある煙が広がった。
アルノがJPSに火をつけたのは、しばらくしてからだった。銀のライターが窓からの光を反射した。
「リヴァは」とヴィクトルが言った。「飛行機で吸えるなんてめったにない」
「……うーん」
ヴィクトルがSobраnieの箱を差し出した。
カイが手を伸ばす。Gauloisesの箱を、リヴァに差し出した。あくまで選択肢。
リヴァはカイを見た。ヴィクトルを見た。
「……ユキナガに貰ったやつにする」とリヴァはバックパックを開けた。
ヴィクトルが小さく息を吐いた。
カイは何も言わなかった。ただ、灰皿をリヴァの方に少しだけ寄せた。
ヴィクトルがバーボンを一口飲んだ。窓の外を見た。
しばらくして、ヴィクトルがリヴァの方を向いた。
「調子は」
おそらく、何があったか詳細に知っている様子だった。彼なりの気遣いだと思う。
「ちょっと飛行機に酔ってる」
「そうか」ヴィクトルは煙草を一口吸った。「着いたら俺は別件がある。すぐ動く」
「テキサスで別件」
「仕事だ。詳細は言えない」彼は煙を吐いた。「お前たちとは別行動になる」
リヴァは少しだけヴィクトルを見た。
「帰りは」
「帰りは同じ機体で戻る」ヴィクトルはリヴァを見た。「その時にステーキを食え。テキサスで一番旨い店を予約しておく」
「任務が終わってから言え」とカイが言った。
「終わる前提で動く方が効率がいい」
「お前の中ではな」
「リヴァはどうだ」とヴィクトルはリヴァに聞いた。「ステーキ、食べたことあるか」
「ない気がする」
「じゃあ決まりだ。帰りに連れていく」
「俺も行く」とカイが言った。
「おいおい、野暮だな」
「関係ない」
アルノが端末を置いた。
「行程は私が管理します」と彼は言った。「任務後の行動は、状況次第です」
「状況次第でステーキを食う、ということだな」
「そういうことです」
ヴィクトルが肩をすくめた。諦めていない肩のすくめ方だった。
リヴァは窓の外を見た。雲の切れ間に、海が見えた。太平洋の端が、朝の光の中で銀色に光っていた。
「ねえ」とリヴァが言った。
「なんだ」とカイが言った。
「テキサスって、空が広いって聞いた」
「広い」
「見てみたい」
「見える」とカイは言った。「嫌でも」
「嫌じゃない」
カイが少しだけ間を置いた。
「……ああ」と彼は言った。窓の外を見た。「嫌じゃないな」
ヴィクトルはその横顔を一瞬見た。
何も言わなかった。
煙草を灰皿に押しつけた。
帰りまで、待つか。と思った。
声には出さなかった。
シャンパンの泡が細く上がって、静かに消えていった。
アルノが端末を閉じた。珍しかった。
「少し寝ます」と彼は言った。
「仕事終わったのか」とヴィクトルが言った。
「終わりません。でも今日はここまでにします」
ヴィクトルが少し目を細めた。
「お前が自分でそれを言うのは珍しいな」
「……うるさいです」
アルノがシートを倒した。目を閉じた。テーブルの上には、飲みかけのグラスが置いたままだった。
カイがGauloisesを灰皿に押しつけた。窓の外を見た。
雲が厚くなっていた。日本の海岸線がもう見えなかった。
リヴァはコーヒーカップを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。
巡航高度35000フィート。ダラスまであと12時間。
”Glass” / Hania Rani




