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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第三章「境界圏 ― Threshold Zone」

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コンラッド東京:Presidential Suite

※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。



 案内されたのは、最上階だった。


 エレベーターが開くと、男が一人立っていた。無言で頭を下げる。それだけで、ついてこいという意味だとわかった。


 廊下を歩く。絨毯が厚い。足が重く感じた。


 扉が開いた。


 広い部屋だった。窓が大きい。夜景が見える。街の光が、遠く、静かに広がっている。


 グレイ・マルセルは窓際に立っていた。


 煙草を指に挟んで、外を見ている。こちらが入っても振り返らない。


 案内役の男はリヴァが入ると、廊下へ戻って扉を閉めた。


 護衛の姿はなかった。


 耳の奥の通信は繋がっていた。表示も正常だった。


 癖毛の黒髪が、うなじで少しだけ乱れていた。それだけが、整えられていない部分だった。


 ゆっくりと振り返った。


 立っているだけで、視線の位置が高かった。


 肩幅に、窓の夜景が少し隠れた。


 顔が見えた。


 笑っていなかった。怒ってもいなかった。


 目が、柔らかく穏やかだった。


 人を見る目ではなかった。何かを観察する目だった。


 Cohibaを一口吸った。


 煙を、まるで距離を測るように、リヴァの方にゆっくりと吐いた。


「来てくれましたね」彼は言った。「今日も美しい」


 声が低かった。重く、乾いていた。


「呼んだから」リヴァは言った。


「ええ、来ると思っていました」


 穏やかにそう答えた。


 最上階。護衛なし。開けた空間に見えて、ドアは一つしかない。


 窓の外は夜景だけだ。逃げようとすれば必ず彼の横を通る。


 グレイはただ、窓際に立っていた。


「来てくださり、ありがとうございます」


 Cohibaの煙が部屋に静かに広がっていた。


「通信は、そのままで構いませんよ」


 リヴァは何も言わなかった。


「座ってください」


 促される。革張りのソファは深く沈んだ。


 グレイが向かいに座る。足を組んだ。煙草をテーブルの灰皿に置いたが、火がついたままだった。


「何の用」


「用、ですか」


 グレイは繰り返した。


「会いたかった。それで十分でしょう」


「それだけのために呼んだの」


「ええ」


 グレイが煙草を取る。また一口吸う。煙が上がる。目がこちらから外れない。


「怖いですか、今」


「別に」


「強がりですね」


「強がってない」


「そうですか」


 頷いた。けれど目の奥は変わらなかった。


 テーブルの上に、グラスが二つ置いてある。


 中身が入っていた。


「飲みますか」


「何が入ってるの」


「ウイスキーです」


「安全って証明できる?」


 グレイが少し笑った。今度は目も笑っていた。


「あなたは、それを聞きながら飲むんですよ」


「……」


 グラスをこちらに向けて少し押した。


「……どうして私を呼んだの」


 グレイが煙草を灰皿で押しつける。火が消える。


「さっき言いましたよ」


「会いたかっただけ、は理由にならない」


「あなたには、ね」


 窓の外を一瞬見て、またこちらに視線を戻す。


「私には、十分です」


 グラスがまだこちらに向いていた。


「三日前、意味がわからなかったでしょう」彼は言った。


「ちゃんと座ってるって」リヴァは言った。


「そうです」


 グレイがゆっくりとウイスキーに視線を落とす。


 飲んだら、教えるという意味だろうか。


 またゆっくりと、グレイの視線が上がる。まっすぐ見つめてくる。


 リヴァはグラスを見た。


 グレイは何も言わなかった。


 グラスを手に取った。


 口をつける。ウイスキーの味がした。普通の味だった。


 グレイが満足そうに眼を細めて、煙草に火をつけた。


「では、教えて差し上げましょう」


 一回吸って、また煙草を灰皿に置いた。立ち上がった。


 座っていた時より、ずっと大きく見えた。


 ゆっくりとリヴァの方に近づいてきた。


「動かないでください」彼は言った。


 リヴァの横に立った。


「あなたは、私のことが怖いですか」彼は言った。


「怖くない」


「いえ、怖がっています」


 反論しようとした口が、止まった。


「  ”Isa”  」


 短い言葉だった。日本語ではなかった。英語でもなかった。


 聞き覚えがあった。


 どこかで聞いた。知っている言語だった。でも何語かわからなかった。


 その言葉が耳に入った瞬間。


 指が止まった。


 呼吸が止まった。


 身体が、動かなかった。


 気づいたら、涙が出ていた。


 怖くなかった。痛くなかった。でも涙が出た。


 止まっていた身体が小さく震え始めた。止められなかった。


「……なに」とリヴァは言おうとした。声が、震えていた。「何を、して」


 グレイは答えなかった。


 ゆっくりとソファの前にしゃがんだ。リヴァと目の高さを合わせた。


「ああ、やはり残っていましたね」


 リヴァの息が上がる。呼吸が自分の意志とは別の形で押し寄せてくる。


「やめて」


 声が震えた。


 グレイは聞いていなかった。


 手が伸びてきた。顎にかかった。指の腹で軽く持ち上げる。


 涙の流れる方向を確認する角度に、顔を固定した。


「綺麗ですね、こうなると」


 リヴァが顔を背けようとした。


 グレイの指に力が入った。動けなかった。


「動かないでください、と言いました」


 声は穏やかだった。


 それでも、顔を背けようとした。


 次の瞬間、頬に軽い衝撃があった。


「……っ」


 痛みはほとんどなかった。


 音だけが部屋に響いた。


 リヴァが息を呑んだ。グレイは打った手を、そのままリヴァの頬に置いた。


 手が冷たかった。


 息が吸えなかった。


「…っ…ごめんなさい」


 自分の声だった。


 無意識だった。なぜそう言ったのか、わからなかった。


「そう、それです」


 グレイが頷いた。


「あなたは、そうなるように出来ている」


 息が整わなかった。


「誰が」と言おうとした。声がそこまで出なかった。




 息が戻ってきた頃。


 最初に気づいたのは、指先の違和感だった。


 温度がなくなった。


 次に、視界が揺れた。


 立ち上がろうとする。足に力が入らない。ソファから立てない。体が重い。鉛を飲んだみたいだった。


「……何、これ」


「あなたが、自分で飲んだものですよ」


 グレイの声が近くなった。気づいたら、隣に座っていた。さっきまで向かいにいたのに。


「自分で、さっき選んで飲んだ。そうでしょう?」


「……カイを、呼ぶ」


 耳の奥は静かだった。


 通信表示は切れていない。


 端末を取ろうとする。手が震える。うまく掴めない。


 グレイの手が、静かに上から重なった。


「呼んでもいいですよ」


 穏やかだった。


「離して」


「焦っていますね」


 グレイが端末をリヴァの手から取る。テーブルの上に置く。遠い。届かない。


「何がしたいの」


「話がしたい」


「もう、話した」


「いいえ、まだです」


 煙草に火をつける。煙が上がる。目がこちらから外れない。


「動けない状態の方が、反応がよく見えますから」


「…最悪」


「ええ。動けず、もどかしいですね」


 グレイは笑った。

"Fuel to Fire" / Agnes Obel

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