コンラッド東京:Presidential Suite
※この話には心理的支配・精神的暴力の描写が含まれます。
案内されたのは、最上階だった。
エレベーターが開くと、男が一人立っていた。無言で頭を下げる。それだけで、ついてこいという意味だとわかった。
廊下を歩く。絨毯が厚い。足が重く感じた。
扉が開いた。
広い部屋だった。窓が大きい。夜景が見える。街の光が、遠く、静かに広がっている。
グレイ・マルセルは窓際に立っていた。
煙草を指に挟んで、外を見ている。こちらが入っても振り返らない。
案内役の男はリヴァが入ると、廊下へ戻って扉を閉めた。
護衛の姿はなかった。
耳の奥の通信は繋がっていた。表示も正常だった。
癖毛の黒髪が、うなじで少しだけ乱れていた。それだけが、整えられていない部分だった。
ゆっくりと振り返った。
立っているだけで、視線の位置が高かった。
肩幅に、窓の夜景が少し隠れた。
顔が見えた。
笑っていなかった。怒ってもいなかった。
目が、柔らかく穏やかだった。
人を見る目ではなかった。何かを観察する目だった。
Cohibaを一口吸った。
煙を、まるで距離を測るように、リヴァの方にゆっくりと吐いた。
「来てくれましたね」彼は言った。「今日も美しい」
声が低かった。重く、乾いていた。
「呼んだから」リヴァは言った。
「ええ、来ると思っていました」
穏やかにそう答えた。
最上階。護衛なし。開けた空間に見えて、ドアは一つしかない。
窓の外は夜景だけだ。逃げようとすれば必ず彼の横を通る。
グレイはただ、窓際に立っていた。
「来てくださり、ありがとうございます」
Cohibaの煙が部屋に静かに広がっていた。
「通信は、そのままで構いませんよ」
リヴァは何も言わなかった。
「座ってください」
促される。革張りのソファは深く沈んだ。
グレイが向かいに座る。足を組んだ。煙草をテーブルの灰皿に置いたが、火がついたままだった。
「何の用」
「用、ですか」
グレイは繰り返した。
「会いたかった。それで十分でしょう」
「それだけのために呼んだの」
「ええ」
グレイが煙草を取る。また一口吸う。煙が上がる。目がこちらから外れない。
「怖いですか、今」
「別に」
「強がりですね」
「強がってない」
「そうですか」
頷いた。けれど目の奥は変わらなかった。
テーブルの上に、グラスが二つ置いてある。
中身が入っていた。
「飲みますか」
「何が入ってるの」
「ウイスキーです」
「安全って証明できる?」
グレイが少し笑った。今度は目も笑っていた。
「あなたは、それを聞きながら飲むんですよ」
「……」
グラスをこちらに向けて少し押した。
「……どうして私を呼んだの」
グレイが煙草を灰皿で押しつける。火が消える。
「さっき言いましたよ」
「会いたかっただけ、は理由にならない」
「あなたには、ね」
窓の外を一瞬見て、またこちらに視線を戻す。
「私には、十分です」
グラスがまだこちらに向いていた。
「三日前、意味がわからなかったでしょう」彼は言った。
「ちゃんと座ってるって」リヴァは言った。
「そうです」
グレイがゆっくりとウイスキーに視線を落とす。
飲んだら、教えるという意味だろうか。
またゆっくりと、グレイの視線が上がる。まっすぐ見つめてくる。
リヴァはグラスを見た。
グレイは何も言わなかった。
グラスを手に取った。
口をつける。ウイスキーの味がした。普通の味だった。
グレイが満足そうに眼を細めて、煙草に火をつけた。
「では、教えて差し上げましょう」
一回吸って、また煙草を灰皿に置いた。立ち上がった。
座っていた時より、ずっと大きく見えた。
ゆっくりとリヴァの方に近づいてきた。
「動かないでください」彼は言った。
リヴァの横に立った。
「あなたは、私のことが怖いですか」彼は言った。
「怖くない」
「いえ、怖がっています」
反論しようとした口が、止まった。
「 ”Isa” 」
短い言葉だった。日本語ではなかった。英語でもなかった。
聞き覚えがあった。
どこかで聞いた。知っている言語だった。でも何語かわからなかった。
その言葉が耳に入った瞬間。
指が止まった。
呼吸が止まった。
身体が、動かなかった。
気づいたら、涙が出ていた。
怖くなかった。痛くなかった。でも涙が出た。
止まっていた身体が小さく震え始めた。止められなかった。
「……なに」とリヴァは言おうとした。声が、震えていた。「何を、して」
グレイは答えなかった。
ゆっくりとソファの前にしゃがんだ。リヴァと目の高さを合わせた。
「ああ、やはり残っていましたね」
リヴァの息が上がる。呼吸が自分の意志とは別の形で押し寄せてくる。
「やめて」
声が震えた。
グレイは聞いていなかった。
手が伸びてきた。顎にかかった。指の腹で軽く持ち上げる。
涙の流れる方向を確認する角度に、顔を固定した。
「綺麗ですね、こうなると」
リヴァが顔を背けようとした。
グレイの指に力が入った。動けなかった。
「動かないでください、と言いました」
声は穏やかだった。
それでも、顔を背けようとした。
次の瞬間、頬に軽い衝撃があった。
「……っ」
痛みはほとんどなかった。
音だけが部屋に響いた。
リヴァが息を呑んだ。グレイは打った手を、そのままリヴァの頬に置いた。
手が冷たかった。
息が吸えなかった。
「…っ…ごめんなさい」
自分の声だった。
無意識だった。なぜそう言ったのか、わからなかった。
「そう、それです」
グレイが頷いた。
「あなたは、そうなるように出来ている」
息が整わなかった。
「誰が」と言おうとした。声がそこまで出なかった。
息が戻ってきた頃。
最初に気づいたのは、指先の違和感だった。
温度がなくなった。
次に、視界が揺れた。
立ち上がろうとする。足に力が入らない。ソファから立てない。体が重い。鉛を飲んだみたいだった。
「……何、これ」
「あなたが、自分で飲んだものですよ」
グレイの声が近くなった。気づいたら、隣に座っていた。さっきまで向かいにいたのに。
「自分で、さっき選んで飲んだ。そうでしょう?」
「……カイを、呼ぶ」
耳の奥は静かだった。
通信表示は切れていない。
端末を取ろうとする。手が震える。うまく掴めない。
グレイの手が、静かに上から重なった。
「呼んでもいいですよ」
穏やかだった。
「離して」
「焦っていますね」
グレイが端末をリヴァの手から取る。テーブルの上に置く。遠い。届かない。
「何がしたいの」
「話がしたい」
「もう、話した」
「いいえ、まだです」
煙草に火をつける。煙が上がる。目がこちらから外れない。
「動けない状態の方が、反応がよく見えますから」
「…最悪」
「ええ。動けず、もどかしいですね」
グレイは笑った。
"Fuel to Fire" / Agnes Obel




