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『リヴァ・アルカ ―世界を確定させるアンカーと最強たちの執着譚―』  作者: Ilir Noct
第三章「境界圏 ― Threshold Zone」

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太平洋の端



 成田空港の、一般ターミナルとは別の区画。


 チャーター機専用のゲートは、どこか空港の文法から外れた場所にある。保安検査もない。搭乗案内のアナウンスもない。免税店もない。ただ、機体がある。


 機体はBombardier Global 6000。


 東京からダラスまで、無給油で届く航続距離を持つ長距離機だった。


 外装は光を吸うようなダークグレー。派手さはないのに、近づくと質量だけが先に伝わってくる。登録上の機体番号は存在しているが、アルノ曰く「それは通関用の仮の個体情報だろう」とのことだった。


 つまり、正規の書類の上では“いる”ことになっているが、実態としてどの会社にも属していない機体だ。


 ダラスまで直行できる距離を、誰の顔色も見ずに飛ぶためだけに用意された移動手段だった。


 タラップの前に、ヴィクトルが立っていた。


 いつも通りの格好だった。ジャケットの下はシャツではなくカットソー。Sobranie Black Russianを指に挟んでいた。煙を吐きながら、こちらを見た。


「遅い」


「定刻通りだよ」とリヴァが言った。「ヴィクトルが早いの」


「そうか」彼はリヴァをもう一度見た。それから荷物を持った。「乗れ」






 機内は、思っているよりずっと静かだった。


 前方に6席のシングルシート、ウォールナットのサイドテーブルが各席に付いている。中央に向かい合わせの4人用テーブル席、革張りのソファが左右に一脚ずつ。後方に個室が一室。天井が高く、窓が大きい。照明が落ち着いた電球色で、朝の光の中でも機内だけ夜みたいな色をしていた。


 後方の区画だけ、少し空気が違った。灰皿がある。ヴィクトルのチャーターだから当然だった。


 ギャレーには専任のクルーが一人。40代の男で、余計なことは何も言わない。


 リヴァが先に乗って、窓際のシングルシートに荷物を置いた。AXMCのケースはカーゴに預けてある。機内に持ち込んだのは、小さいバックパックひとつ。


 シートに座って、窓の外を見た。成田の朝の空は薄く曇っていた。


 カイが乗ってきた。リヴァの席の隣、通路を挟んだシングルシートに座った。無言でGauloisesの箱をシャツのポケットから出して、テーブルに置いた。


 アルノが前方のシートにすでに着席していた。テーブルに端末を展開して、離陸前から資料を確認していた。ジャケットは脱がない。


 ヴィクトルが最後に乗ってきた。タラップを上がる前に煙草を一口吸って、機内に入る直前に灰皿で押した。中央のテーブル席に荷物を置いて、リヴァの斜め前のシートに座った。


「バーテンのハッカーがいない」とヴィクトルが言った。


「日本に残ります」とアルノが端末から目を離さずに言った。「あと、ハッカーのバーテンですので」


 溜息。


「ローワンと二人で待機しています。現地との無線サポートと、帰国後の案件の準備があります」


「本人は何て言ってた」


「最悪、と言っていました」


「だろうな」とヴィクトルが言った。


「ローワンはなぜ来ない」カイが言った。


アルノは目を離さず答える。


「拠点が手薄になります。…本来はもう一人いなくはないですが」


 通信が入った。ユキナガだった。


『聞こえてるよ。まあ仕方ない』


「ちゃんと寝てね」とリヴァが言った。


『寝る。向こうついたら連絡して。あと』


 少し間があった。


『気をつけて』


 短かった。ユキナガにしては珍しい言い方だった。


「わかった」


 通信が切れた。




 エンジン音が低く上がった。機体が動き出した。


 滑走路へ。加速して、日本の地面を離れた。


 機体が傾いた瞬間、窓の外で成田の街が小さくなった。田んぼの緑、住宅地の屋根、遠くに見える湾岸のコンビナート。それが全部、窓枠の中に収まって、それから雲に隠れた。


 水平に戻った。シートベルトサインが消えた。




 クルーが動いた。無言でギャレーを開けて、ワゴンを出してくる。音がしない動き方だった。


 ボトルが並んだ。


 バーボンのバッファロー・トレース、スコッチのグレンリベット12年、ジンのタンカレー。それからシャンパンがマグナムボトルで一本。氷入りのアイスペールと、チェイサー用のミネラルウォーター。グラスがシートごとに配られた。


 つまみは、スモークナッツと薄切りのチャルキュトリが木の板に並んでいた。


 ヴィクトルが迷わず手を伸ばして、バーボンをロックで頼んだ。クルーがグラスに注いだ。


 アルノがグレンリベットのストレートをテーブルの端に置いた。端末から目を離さなかった。


「何飲む」


 カイがリヴァに聞いた。


「コーヒー」


「酒じゃないのか」


「朝だよ」


「朝でも飲む」


「私は飲まない気分」


 カイがクルーに目で合図した。コーヒーが来た。ブラックで、小さいカップに入っていた。


 リヴァがそれを受け取った。一口飲んだ。


 悪くなかった。




 カイがGauloisesに火をつけた。マッチだった。擦る音が機内に小さく響いて、煙草の匂いが広がった。


 ヴィクトルがSobranie Black Russianを取り出した。金のフィルターが照明を反射した。火をつけた。甘みのある煙が広がった。


 アルノがJPSに火をつけたのは、しばらくしてからだった。銀のライターが窓からの光を反射した。


「リヴァは」とヴィクトルが言った。「飛行機で吸えるなんてめったにない」


「……うーん」


 ヴィクトルがSobраnieの箱を差し出した。


 カイが手を伸ばす。Gauloisesの箱を、リヴァに差し出した。あくまで選択肢。


 リヴァはカイを見た。ヴィクトルを見た。


「……ユキナガに貰ったやつにする」とリヴァはバックパックを開けた。


 ヴィクトルが小さく息を吐いた。


 カイは何も言わなかった。ただ、灰皿をリヴァの方に少しだけ寄せた。


 ヴィクトルがバーボンを一口飲んだ。窓の外を見た。

 




 しばらくして、ヴィクトルがリヴァの方を向いた。


「調子は」


 おそらく、何があったか詳細に知っている様子だった。彼なりの気遣いだと思う。


「ちょっと飛行機に酔ってる」


「そうか」ヴィクトルは煙草を一口吸った。「着いたら俺は別件がある。すぐ動く」


「テキサスで別件」


「仕事だ。詳細は言えない」彼は煙を吐いた。「お前たちとは別行動になる」


 リヴァは少しだけヴィクトルを見た。


「帰りは」


「帰りは同じ機体で戻る」ヴィクトルはリヴァを見た。「その時にステーキを食え。テキサスで一番旨い店を予約しておく」


「任務が終わってから言え」とカイが言った。


「終わる前提で動く方が効率がいい」


「お前の中ではな」


「リヴァはどうだ」とヴィクトルはリヴァに聞いた。「ステーキ、食べたことあるか」


「ない気がする」


「じゃあ決まりだ。帰りに連れていく」


「俺も行く」とカイが言った。


「おいおい、野暮だな」


「関係ない」


 アルノが端末を置いた。


「行程は私が管理します」と彼は言った。「任務後の行動は、状況次第です」


「状況次第でステーキを食う、ということだな」


「そういうことです」


 ヴィクトルが肩をすくめた。諦めていない肩のすくめ方だった。


 リヴァは窓の外を見た。雲の切れ間に、海が見えた。太平洋の端が、朝の光の中で銀色に光っていた。


「ねえ」とリヴァが言った。


「なんだ」とカイが言った。


「テキサスって、空が広いって聞いた」


「広い」


「見てみたい」


「見える」とカイは言った。「嫌でも」


「嫌じゃない」


 カイが少しだけ間を置いた。


「……ああ」と彼は言った。窓の外を見た。「嫌じゃないな」


 ヴィクトルはその横顔を一瞬見た。


 何も言わなかった。


 煙草を灰皿に押しつけた。


 帰りまで、待つか。と思った。


 声には出さなかった。






 シャンパンの泡が細く上がって、静かに消えていった。


 アルノが端末を閉じた。珍しかった。


「少し寝ます」と彼は言った。


「仕事終わったのか」とヴィクトルが言った。


「終わりません。でも今日はここまでにします」


 ヴィクトルが少し目を細めた。


「お前が自分でそれを言うのは珍しいな」


「……うるさいです」


 アルノがシートを倒した。目を閉じた。テーブルの上には、飲みかけのグラスが置いたままだった。


 カイがGauloisesを灰皿に押しつけた。窓の外を見た。


 雲が厚くなっていた。日本の海岸線がもう見えなかった。


 リヴァはコーヒーカップを両手で持ったまま、窓の外を見ていた。


 巡航高度35000フィート。ダラスまであと12時間。

”Glass” / Hania Rani

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