煙草と車について
閑話
5月の夕方は、日が長い。
新拠点に西日が入り始める時間帯、共用スペースの窓ガラスが橙色に染まっていた。フローリングの上に光の四角が落ちて、ゆっくりと伸びていた。
ユキナガはモニタールームから出てきて、ソファに横になっていた。マルボロメンソールを天井に向かって吸いながら、煙が光の中に溶けていくのを眺めていた。昨日からずっとデータを追っていた。アルバンの情報を掘れるだけ掘った。
結果は、ほとんど何もなかった。
「……まじで空白なんだよな」と彼は天井に向かって言った。「名前は出てくる。でもそこで終わる。関わった人間の記録が、ことごとく途切れてる」
「途切れてる、というのは」とアルノがデスクから言った。
「死んでるか、消えてるか」ユキナガは煙草を指先で回した。「どっちにしろ、情報が出てこない理由が、関わった人間がいなくなってるから、って感じ。証言者がいない」
部屋が少し静かになった。
アルノが眼鏡のブリッジを静かに押し上げた。
そこにインターホンが鳴った。
カイがモニターを見た。一秒。
「ヴィクトルだ」
ユキナガが天井から視線を外した。
ヴィクトルが入ってきた。
マセラティのキーを指に引っ掛けていた。ディープボルドー、ほぼ黒に近い深い赤のギブリだった。夕方の光の中で塗装が鈍く、濡れたように光っている。
本人もそれに似た色気があった。白寄りのグレーの髪、ジャケットの下はシャツではなくカットソー。それでも様になっていた。
「悪いな、急に」と彼は言った。悪いと思っていない声だった。
「いつものことです」とアルノが言った。
ヴィクトルはアルノを一瞥して、リヴァを見た。視線が一拍、止まった。
「よ」
「うん」とリヴァは言った。
ヴィクトルはリヴァの隣に自然な動作で座った。テーブルの上のリヴァのカップを一度見て、そのまま立ち上がった。キッチンに向かった。
「借りるぞ」
「どうぞ」
コーヒーを入れ始めた。カップを二つ出した。リヴァのも入れ直した。注ぐ前に一度だけリヴァの方に向けて持ち上げた。確認、というより、見せた、という動作だった。
リヴァが小さく頷いた。
ヴィクトルがカップをリヴァの前に置いた。音がしないような置き方だった。
「昨日のこと、聞いた」と彼は言った。自分のカップを手に持ったまま、軽い声で言った。
「アルバンのやつ」とユキナガが言った。ソファから起き上がって、煙草を灰皿に押しつけた。「あいつのこと知ってるんだろ」
「少しな」
「少し、ってどのくらい」
ヴィクトルはSobranie Black Russianを取り出した。真っ黒のシガレット、金のフィルター。一本抜いて指に挟む。火をつけた。最初の一口を吸って、煙を横に流した。甘みのある煙の匂いが、コーヒーの香りと混ざって広がった。
「昔、仕事が一回重なった」と彼は言った。「それだけだ」
「どんな」
「言えないようなやつだな。2回くらい本気で死にかけた」
「生きて帰れたんだ」
「アルバンを雇った組織と敵対していた人員は全滅した。俺は微妙な立ち位置だったから助かった」
ユキナガが少し間を置いた。
「……昨日のデータ掘ってたんだけど」と彼は言った。「アルバンって、関わった人間の記録がほとんどない。途切れ方が、自然じゃない」
「だろうな」とヴィクトルは言った。否定しなかった。
「証言者がいなくなってる感じ」
「まあ」ヴィクトルが煙草を一口吸った。「そういう種類の男だ」
カイがその言葉を聞いていた。腕を組んだまま、何も言わなかった。
「お前らは運がよかったな」
リヴァはヴィクトルのSobраnieの煙が、他の煙草と違う匂いがすることに気づいていた。甘い。蜂蜜に近い何かがある。
「それいい匂いがする」と彼女は言った。
ヴィクトルがリヴァを見た。口元が少し動いた。
「吸うか」
「いい」
「そうか」彼は煙草を少し持ち上げた。「トルコのブレンドが入ってる。それだろうな」
「へえ」
「お前に似合いそうだ」
カイがヴィクトルを見た。
ヴィクトルはリヴァを見たまま、カイの視線に気づいていた。気づいた上で、続けた。
「今度試してみろ」
「考えとく」とリヴァは言った。
カイがGauloisesを取り出した。マッチを擦った。一発で火がついた。煙を吐く方向が、ヴィクトルから遠い側だった。
しばらくして、ユキナガがマルボロメンソールを新しく取り出した。
横からリヴァが一本抜いた。何も言わず、ユキナガが青い使い捨てライターで火をつけた。
一口。
まるでチョコでも食べているように。
Gauloisesより全然軽い。煙が細い。喉に引っかかるものがない。
「やっぱりこっちの方がマシ」とリヴァは言った。
「だろ」とユキナガが言った。得意そうな顔をした。「Gauloisesはないよ」
カイは何も言わず、手元の一本に視線を落とした。
ヴィクトルが横で聞いてきた。
「吸い始めは?」
「与那国にいた頃に手に入った」とカイは言った。「基地の近くで拾った。フランス系の部隊が使ってた煙草だ。安かった」
「それだけ?」
「最初はそうだ。続けてたら、これじゃないと合わなくなった」
「愛着じゃん」
「慣れだ」
ヴィクトルが小さく笑った。
「似たようなもんだ」と彼は言った。「モルドバにいた頃、黒い煙草を吸ってる人間が周りにいた。自分も吸い始めた。Sobranieにしたのは後からだ。色々試して、これに落ち着いた」
「なんでSobranieに」とリヴァが言った。
「金のフィルターが綺麗だろ」とヴィクトルは言った。煙草を少し持ち上げて見せた。「見た目がいい煙草は、吸う気になる。それだけだ」
「それだけなんだ」
「見た目は大事だろ」とヴィクトルはリヴァを見て言った。「煙草も、人間も」
リヴァはそれを受け流した。
ユキナガが横で「うまいこと言いやがって」という顔をした。声には出さなかった。
アルノがJPSを一本抜いた。ジッポではなく、コンビニのライターが鳴る。リヴァのためにジッポは使わないが、それ以外なら何でもいい、といった感じだった。
火がつく前に、ユキナガがそれを見た。
「アルノってJPS以外吸わないよな」
「ええ」
アルノは短く答えたまま、火を落とす。
「なんで」
「ドイツにいた頃は違いました」煙が細く上がる。「Westという煙草でした。日本にはなかったので」
アルノは灰を落としながら、淡く続けた。
「どこでも同じものが手に入る。考える必要が減る」
「今は?」
「帰ってきてから切り替えました。入手が安定しているものの中で、癖が残っただけです」
「それがJPS?」
「はい。どこでも同じ品質で手に入る。余計な選択をしなくて済みます」
ユキナガが肩をすくめる。ヴィクトルが笑った。
「なんですか、ヴィクトル」
「いや」とヴィクトルは言った。「お前は変わらないな、と思って」
「変わる必要がありません」
「そうだな」ヴィクトルは煙草を灰皿に置いた。「それがお前のいいところだ」
アルノが眼鏡を押し上げた。
返答しなかった。それが、珍しく返答に困っている時の顔だとリヴァは思った。
話が一段落したところで、ヴィクトルが足を組みなおした。
「…アルバニアの話になるが」と彼は言った。
「アルバンの出身」とリヴァが言った。
西日がさらに傾いていた。部屋の橙色が濃くなっていた。ヴィクトルの白寄りのグレーの髪が、その光の中で少し赤みを帯びて見えた。
「古い慣習法がある。カヌンという。部族の法だ」とヴィクトルは言った。「その中に、ある感覚についての考え方がある。ある人間が誰かに対して『必要だ』という感覚を持った時、それは欲しいとか好きとか、そういう軽いものじゃない。もっと根に近い。骨に近い感覚として扱われる」
「骨」とユキナガが繰り返した。
「義務に近い、と言った方がわかりやすいか。理由を説明できない。説明しようとも思わない。ただ、そうなっている」
部屋が静かになった。
コーヒーメーカーのランプだけが、小さく光っていた。
「……まあ、もしかしたらの話だが」とヴィクトルは続けた。「数回会っただけの人間の話をしてる。確証はない」
「もしかしたらの温度感で言う話じゃなさそうだけど」とユキナガが言った。
「参考程度に聞いておけ」
「参考程度にするには重すぎる」
ヴィクトルが小さく笑った。
リヴァはマルボロメンソールを一口吸った。煙を吐きながら、窓の外を見た。
空が赤くなっていた。
骨に近い感覚、とヴィクトルは言った。
昨日のアルバンの目を思い出した。サングラスのレンズ越しの、動かない視線を。
「リヴァ」とヴィクトルが言った。
「うん」
ヴィクトルは煙草を灰皿に置いた。
「まあ、俺がいるからいいだろ」
カイが短く息を吐いた。
「お前がいる必要はない」
「いた方がいいだろ。アルバンのこと、俺が一番知ってる」
「数回会っただけだろう」
「お前は何回会った」
カイが黙った。
「わかっただろ。あいつの異質さ」
カイは何も言わない。
「俺の方が情報がある」とヴィクトルは言った。余裕のある声だった。「そういうことだ」
アルノが眼鏡を押し上げた。
「……情報提供は歓迎します」と彼は言った。「ただし」
「ただし」
「それ以上の関与は、今のところ必要ありません」
「冷たいな」
「事実を言っています」
ヴィクトルが肩をすくめた。それからリヴァを見た。
「お前はどう思う」
「助かる」とリヴァは言った。
ヴィクトルが少し目を細めた。
「そうか」
「情報的な意味で」
「わかってる」と彼は言った。わかっていない声だった。
西日が窓から消えた。部屋が少し暗くなった。
ユキナガが立ち上がって、照明をつけた。
白い光が部屋に広がった。さっきまでの橙色が消えて、全員の顔がはっきりした。
ヴィクトルがコーヒーカップを持ち上げた。リヴァのカップも、空になっているのを見た。
「もう一杯どうだ」とリヴァに向かって言った。
「いい」
「遠慮するな」
「遠慮じゃない。もう充分飲んだ」
「そうか」ヴィクトルはカップを置いた。「残念だな」
カイがヴィクトルを見た。
ヴィクトルは見返した。
2人の間に、何も言わない数秒があった。
ローワンが共用スペースに入ってきたのは、照明がついてしばらくしてからだった。
ハーブの土がついた手袋を片手に持っていた。中庭から来たらしかった。もう片方の手にDunhillがあった。火はついていなかった。
「賑やかですね」と彼は言った。
「ヴィクトルが来てる」とユキナガが言った。
「見ればわかります」ローワンはヴィクトルを見た。「また急にですか」
「悪いか」
「別に」ローワンは手袋をカウンターに置いて、Dunhillに火をつけた。煙を一口吸って、ゆっくり吐いた。それからヴィクトルの隣、リヴァの斜め後ろに立った。
自然な位置取りだった。誰も指摘しなかった。
「そういえば」とユキナガが言った。マルボロメンソールの箱を弄びながら。「ヴィクトルのギブリ、色変わった?」
「変えた」とヴィクトルは言った。「前のは飽きた」
「何色から」
「シルバー」
「今のが似合うな。なんていう色なの」
「ディープボルドー」ヴィクトルはキーを指で引っ掛けた。「黒に近い赤にした。夜は黒に見える。昼は赤に見える。一台で二度おいしい」
「マセラティにコスパとか言うなよ」とユキナガが言った。「あれいくらすんだよ」
「気にするな」
「気になるだろ普通に」
ヴィクトルは答えなかった。余裕のある笑みだけがあった。
「高いの?」リヴァがローワンに耳打ちする。
「トロフェオでオーダー色でしたら…」指を二本たてる。
「まあ、一本足りないくらいか。把握してない」というヴィクトルの声に、ユキナガが息をのんだ。
「MC20とグラントゥーリズモは家に置いてある。今度乗せてやる」
「ローワン、それは?」
「更に高いやつですね…」
ローワンが煙草を一口吸った。
「まあ、私のボルボが一番賢い買い物ですよ」と彼は言った。
「ボルボはいい車だが」とヴィクトルは言った。「色気がない」
「色気は必要ありません。安全性能が高い」
「医者らしい発想だ」
「当然です」ローワンは少し間を置いた。「ただ、アイスホワイトは気に入っています。雪の色に近い」
「アイスランドの」とリヴァが言った。
ローワンの故郷のアイスランド。前に一度話していたのを覚えていた。
「ええ」ローワンは静かに答えた。煙草を一口吸った。「あちらの雪は、日本の雪と少し違います」
「どう違うの」
「日本の雪は湿っている」とローワンは言った。「重いですね。積もると音を吸う。アイスランドの雪は乾いています。風で動く。地面に積もらず、空中を横に走るんですよ」
「吹雪みたいな」
「ブリザードとも違います」と彼は言った。「もっと静かです。音がない。ただ白いものが横に流れていく。視界がなくなるのに、うるさくない」
部屋が少しだけ静かになった。
ユキナガが煙草を指先で止めた。
「……それって怖くない?」とユキナガが言った。「視界ゼロで音もないって」
「慣れます」とローワンは言った。「ただ」
一拍。
「慣れても、怖いものは怖い」
それ以上は続けなかった。
Dunhillを一口吸って、煙を細く吐いた。
ヴィクトルが窓の外を一瞬見た。
「アイスランドから、よく日本に来たな」と彼は言った。
「縁があったので」とローワンは言った。穏やかに。何も語らない穏やかさだった。
それ以上は続けなかった。
部屋が少しだけ静かになった。
「アルノのクラウンは」とユキナガが言った。話を動かすように。「なんで白」
「視認性が高い。夜間でも認識されやすい。任務後の移動が多いので、追跡されにくい色より、一般車両に見える色を優先しました」
「また実用」とユキナガが言った。
「何か問題がありますか」
「ないけど。アルノってクラウン乗ってる感じしないんだよな。もっとベンツとかBMWとか乗ってそう」
「ドイツにいた頃はそうでした」とアルノは言った。「ただ、日本では国産車の方が目立たない。クラウンは適切な選択です」
「ドイツにいた頃は何乗ってたの」
アルノが一拍止まった。
「……E63です」
「メルセデスのやつ」とユキナガが言った。「AMGじゃん。ぜんっぜんクラウンの話してる顔じゃない」
「今は必要ないというだけです」
ヴィクトルが小さく笑った。
「カイのスカイラインは」とヴィクトルが言った。
「何だ」
「ブルーパール、だったか。あれ特別色だろ」
「受注生産の色だ」とカイは言った。
「なんでその色にしたんだ」
カイが少しだけ間を置いた。
「海の色に近い」
部屋が少し静かになった。
「与那国の海か」とヴィクトルが言った。
「ああ」
それだけだった。
ユキナガが煙草を指先で止めた。カプセルをつぶすのを忘れていた。
「カイって海好きだよな」と彼は言った。「ダイビングするし」
「ああ」
「スカイラインで海の色、か」ユキナガが少し笑った。「かっこいいじゃん」
「別に」
「いや、かっこいいって。素直に受け取れよ」
カイはユキナガを見た。何も言わなかった。
リヴァはカイのダイブコンピュータを見た。左手首にある、いつものやつ。
「どんな感じなの、あそこの海」
カイはリヴァを見た。少しの間。
「透明度が高い」と彼は言った。「深く潜っても光が届く」
「見てみたい」
カイが少し止まった。
ヴィクトルがリヴァを見た。
「俺が連れていってやろうか」と彼は言った。「船舶免許持ってるぞ」
「与那国に船で行くのか」とカイが言った。
「俺の船なら」
「やめとけ」
「乗り心地いいぞ。シャワーとスライダー付きだ」
「そんな船で荒波は越えられない」
ヴィクトルが肩をすくめた。
リヴァはカイを見た。
「連れていってくれるの?」
カイが止まった。
ヴィクトルがカイを見た。
ローワンが煙草を一口吸いながら、天井を見た。
「……」とカイは言った。「考える」
「考えるってさ」とユキナガが言った。
「うるさい」
ヴィクトルが小さく、本当に小さく舌打ちをした。リヴァにしか聞こえない程度の音だった。
リヴァはそれを聞かなかったことにした。
「ユキナガはどれ?車」とリヴァが言った。
「アコード」
少し間があった。
ヴィクトルが言った。
「あそこに置いてたのお前のセダンか」
「そう」
「意外だな」
「なんで」
「もっと派手なの乗ってると思った」
「いいだろ別に」とユキナガは言った。「俺がセダン乗ってても」
「悪くない選択です」とアルノが言った。「燃費もいい」
「アルノに言われると複雑」
「なぜですか」
「なんとなく」
ローワンが少し笑った気配がした。
「本当はNSX乗りたかったんだけど」とユキナガは続けた。マルボロメンソールを一口吸った。「もうないから」
「NSX」とカイが言った。
「ホンダの。生産終了してる」ユキナガはヘッドホンを首に下ろした。「スーパーGTとか見てると乗りたくなる。まあ無理だから、アコードにした」
「拠点にアウディがあります」とアルノが言った。「社用車ですが、使えますよ」
ユキナガが止まった。
「……何系」
「A6です」
「セダンじゃん」
「そうですね」
「俺のアコードとかぶる」
「かぶりません」とアルノは言った。「別の車です」
「そういう意味じゃなくて」ユキナガは煙草を一口吸った。「まあ、いいか。乗るかもしれない」
「どうぞ」
「アルノの車に乗る気はしないけど、アウディなら」
「社用車です」
「アルノが選んだんでしょ」
「……選びました」
「やっぱり乗らなくていいか」
アルノが眼鏡を押し上げた。
「似ていますよ、アルノと」とローワンが言った。穏やかに。「車への執着の仕方が」
「似てない」即答だった。「アルノはクラウンでしょ」
「クラウン クロスオーバーです」とアルノが言った。
「俺とは全然違う」
「入口は違いますが、合理と愛着が混在しているあたりは」
「似てない」
アルノが静かに眼鏡を押し上げた。
リヴァはユキナガを見た。
「好きな車が、一番似合うとおもう」
ユキナガが少し止まった。
「……まあね」と彼は言った。声が少し明るくなった。
しばらくして、ヴィクトルがリヴァを横目で見た。
「お前は車、どれが好きだ」
「私?」
「そう。どれに乗りたい」
リヴァは少し考えた。全員の車を順番に思い浮かべた。
「乗り心地なら」と彼女は言った。「カイのスカイライン」
カイが少しだけ、顔をリヴァの方に向けた。
「あんまり揺れない」とリヴァは続けた。
「それだけか」とヴィクトルが言った。
「うん」
「俺のギブリは」
「他のはほとんど乗ったことない」
「乗ってみるか」
「今度ね」
「今でもいいぞ」
「今じゃなくていい」
ヴィクトルが少し笑った。諦めていない笑い方だった。
カイはGauloisesを一口吸った。煙を吐いた。いつもより少しだけ深く吸って、長く吐いた。
「スカイラインは」と彼は言った。誰にともなく。「助手席はリヴァのものだ」
部屋が少し静かになった。
ユキナガがマルボロメンソールを灰皿に押しつけた。
「……さりげなくすごいこと言ったな、今」と彼は小声で言った。
カイは何も言わなかった。
リヴァはカイを見た。カイは正面を向いていた。
ヴィクトルがSobranieを取り出した。
「そうか」と彼は言った。余裕のある声だったが、少しだけ何かが混じっていた。「まあ、俺のギブリもそうだが」
「後部座席があるだろ」とカイが言った。
「お前こそ後部座席に乗れ」
「俺は運転する側だ」
「俺もだ」
2人が静かに見合った。
アルノが眼鏡を押し上げた。
「クラウンは後部座席が広いですよ」と彼は言った。静かに。「快適性は高い方だと思います」
そういえば、アルノの車には乗ったことがあった。確かに広かった。でもリヴァにはあまり違いがわからなかった。
ユキナガが天井を見た。
「アルノまで参戦してる…」と彼は言った。
「ボルボは安全性能が最も高い」とローワンは言った。穏やかに。「長距離でも疲れません」
「アコードのハイブリッドが一番静かで燃費いい」
「全員言いやがった」
リヴァはその会話を聞きながら、マルボロメンソールの煙を吐いた。
煙が照明の光の中で薄く広がって、消えた。
「そうだ、リヴァに今度運転させてーー」
「みんな」と彼女は言った。
全員が少しだけ止まった。
「私、運転したことない」
"Feeling Good" / Michael Bublé




