ルクセンブルク
乾いた音が鳴った。
音と同時に、リヴァの顔が横へ振れた。
カイが手を下げて、リヴァの手首を掴んで上に持ち上げた。
「何度言ったら分かる」
「……っ、」リヴァの目から水滴が溢れた。
近くにいた女がグラスを持ったまま口を閉じた。隣で話していた男も言葉を止め、少し離れたテーブルでは笑っていた三人組が揃ってこちらを見た。
天井近くでは弦楽の演奏が続いている。シャンパンを載せたトレーを運んでいたスタッフが一度だけ足を緩め、そのまま何も見なかったように通り過ぎた。
カイはリヴァを見下ろした。
リヴァが頬へ手を当て、顔を戻した。
カイの眉が寄った。
「泣くな、みっともない」
リヴァの手首をさらに強く掴む。
「痛い」リヴァが言った。
近くの女が一歩連れの男へ寄った。さっきまでこちらを見ていた客の何人かは視線を外したが、会話はまだ戻っていない。
「その態度やめろと言っている」
声が低くなった。
リヴァは黙った。
瞬きをした拍子に頬へ水滴が落ちた。もう一度瞬くと、反対側からも流れた。
カイがそれを見た。
「泣けば済むと思うな」
カイは声を荒らげて数秒リヴァを見てから、掴んでいた手首を乱暴に離した。リヴァがよろめいて、カウンターに手をついて体を支えた。髪が乱れている。
「もういい、勝手にしろ」
カイはそのまま背を向けた。
カイが人の間を抜けていくと、進路にいた客が自然に道を開けた。
止まっていた会話が少しずつ戻り始める。
男は少し離れたところから、リヴァを見ていた。
テーブルに座って、一人でワインを片手に持っていた。
「……」
男の隣のテーブルで、フィンがグラスを口元へ運んだ。
「……またやってる」
男がフィンの方に顔を少し向けた。
フィンの正面に座っていたヴィクトルが、煙を吐いた。
「怖えな。あいつ、どっかの国の軍人だろ」
「そうだよ。怖い怖い」
ヴィクトルがリヴァを見る。
「あの女、死ぬほど綺麗なのにな。俺じゃ声かけらんねえ」
「見た?青あざもすごいんだよあの子」
「マジかよ」
フィンがため息をついた。
「はー。ほんと信じらんない」
男は手元のグラスを持ったまま、リヴァとカイが消えた方を交互に見ている。
リヴァは頬を押さえたまま、落ちた涙を指で拭った。
近くを通ったスタッフが足を止めた。
「……平気、」
リヴァが答え、手で涙を拭く。
スタッフはそれ以上聞かずに離れた。
男がグラスを強くテーブルへ置いて、立ち上がった。
紺色のスーツ。髪はオールバックに整えた黒髪。立ち上がると身長はフィンと同じくらいで、金の指輪に、大きな腕時計をしている。
少し迷ってから、リヴァの前まで来た。
「……大丈夫ですか」
リヴァが男を見た。
「……平気、」
「そうは見えないけど」
男がポケットからハンカチを出した。
「使う?」
リヴァは少し見てから受け取った。
「……」
周囲ではもう会話も演奏も元に戻っていた。ただ、さっきリヴァを見ていた女が、連れと話しながら時々こちらを気にしている。
男がカイの消えた方へ目を向けた。
「彼は?」
リヴァもそちらを見た。
「……いつもあんなかんじ」
男の視線が戻る。
「……彼、戻ってくる?」
「いつも二時間くらいしたら、戻ってくる。私が反省したらって」
男は少し眉を下げた。
「じゃあ、少し飲みません?」
リヴァが男を見る。
「見つかったら怒られる」
男は少し黙った。リヴァの顔を見て、それから、涙で濡れた胸元を見た。
二の腕や首元にも、薄くあざが見えた。
「……奥の席をとるよ。あそこなら見つかりにくい」
男が手を挙げて、スタッフを呼び止めた。
スタッフと同じ黒のタキシードを着たアオイが止まった。
男がアオイに札束を握らせる。
「Sir, どうされました…?」
男がバーの一角を指す。そこはセキュリティがおり、奥には半個室が見えていた。
「席を」
「わかりました…」
アオイは札束をポケットにしまい頭を下げて、男とリヴァを誘導した。
リヴァはハンカチを持ったまま、その隣を歩き出した。
「名前は」
「……あ……」
男がリヴァの肩を抱いた。
「いい。ゆっくりでいいよ。私はマルク・ロイター。マルクでいい」
「マルク、」
リヴァは繰り返した。
涙が止まっているのを見て、マルクが笑った。
アオイが奥のスタッフルームへ入った。
扉を閉めると、会場の弦楽と話し声が一気に遠くなった。
『カーイ、大丈夫?』
イヤーピースからフィンの声が入った。
カイは壁際に立ち、腕を組んだまま返事をしなかった。
「白目向いてます」アオイが言った。
『リヴァちゃんとセリフ言えてたね』
『いい台本だ』ヴィクトルが言った。
『まあね。目薬もたくさんつけといて良かった』
アルノは長机の上に端末を置いた。
画面にはマルクの顔写真と、いくつかの会社名が並んでいた。
「確認します。マルク・ロイター。三十四歳。ルクセンブルク国籍。表向きは資産管理会社の共同経営者です」
アルノが一つの会社名を開いた。
「こちらの物流会社へ、過去三年間で複数回送金しています。金額も時期も不規則ですが、そのうち二件がグレイの周辺で確認した法人と一致しました」
カイが顔を上げた。
「皆さんが対応した船の件とも、つながっているかもしれませんね。人身売買系かも」アオイが言った。
「可能性はあります」
アルノが別の資料を表示した。
「さらに、マルクが管理に関与する口座から、すでに閉鎖されたVRG関連会社へ送金された記録が一件あります。名目は研究設備の輸送費です」
スタッフルームが静かになった。
アオイの顔から笑いが消えた。
「……関与確定、ですか」
「まだ分かりません。だから彼の端末と、本人しかアクセスできない管理画面が必要です」
『それをリヴァに取らせるんだね?』フィンが聞いた。
「可能なら。もしくはユキナガが接続できる時間を作れば十分です」
カイがラウンジをドアの隙間から覗いて、言った。
「……部屋まで行かせるな」
アルノがカイを見る。
「マルクが情報を持っていると確認できるまでは、こちらから接触を切る理由がありません」
「肩を抱いていた」
「はい」
「触る必要はない」
「それを決めるのはリヴァです」
カイが黙った。
アオイが二人を交互に見てから、ポケットに入れた札束を取り出した。
「これ、どうしたらいいですか」
アルノが見た。
『もらっとけ』ヴィクトルが言った。
「業務上受領した金銭は記録してください」
「返さなくていいんですか」
「今返したら不自然でしょう」
アオイは札束を見て、またポケットへ戻した。
「……」
アルノが端末へ視線を戻した。
「彼が何を知っているか確認します。まだ誰も動かないでください」
バーの奥は、一段高くなっていた。
三段ほどの短い階段を上がると、低い壁と厚いカーテンで区切られた半個室が並んでいる。完全には閉じておらず、入口側からは中に人がいることだけが分かった。
マルクが奥のソファを示した。
「ここなら大丈夫」
リヴァは腰を下ろした。
テーブルは低く、二人掛けのソファが向かい合っている。会場の演奏は聞こえるが、周囲の会話までは入ってこなかった。
マルクは向かいではなく、リヴァの隣へ座った。
「何飲む?」
「いらない」
マルクが少し笑った。
「そっか」
スタッフが来ると、マルクが銘柄をいくつか挙げた。
注文が通ると、リヴァは借りたハンカチを膝の上に置いた。
マルクが体のあざを見る。
「痛い?」
「そんなに」
「慣れてる?」
「……」
運ばれてきたグラスをリヴァへ渡し、自分はワインを受け取った。
「彼とは長いの?」
「んー」
「恋人?」
リヴァがウイスキーを一口飲んだ。
「たぶん」
マルクが笑った。
リヴァはグラスの中を見た。
「マルクは何してる人なの」
「金を動かしてる」
「いっぱい?」
「え?何が?」
「お金」
マルクが声を立てずに笑った。
「まあ、いっぱいだね」
「ふうん」
間があった。
「…すごい」リヴァが言った。
マルクは頷いて、背もたれへ身体を預けた。
「会社の金も、人の金も。持ってる奴ほど、自分で動かしたがらないからね。税金、投資、会社、国。全部こっちで綺麗にする」
「へー」
マルクが袖を少し引いて、大きな時計をリヴァに見せた。
「見せ方を変えるだけさ」
リヴァが腕時計を見て首を傾げた。
「時計みたときは…」小声で言った。「あ、すごい」
マルクは自分の時計を見ていた。
「すごいだろ?」
「すごいすごい」
「素直だね」
リヴァがマルクを見た。
「悪いお金?」
マルクの口元が少し止まった。
リヴァはグラスを持ったまま待っていた。
マルクが笑った。
「君怖いこと聞くね」
「だめだった?」
「いや?」
マルクはリヴァの膝に置かれたハンカチを取り、まだ水滴が残っていたリヴァの胸元を拭った。
視線をハンカチからリヴァの目に上げた。
「……どう思う?」
「……」
マルクはそのままリヴァと目を合わせながら、あざのある肩のあたりを触った。
「もしかして君の存在が、罠だったらって思ったんだけど」
「……」
リヴァは眉を寄せて、横を一度見た。
マルクは肩に置いた手を頬に移動させて、自分へ向かせた。
「こんなに独特な受け答えで罠は無いよね。かわいいなあ」
「……」
「彼が戻ってくる前に、上へ行こうか」
リヴァは眉間にさらに深く皺を寄せた。
「…うん」
その顔を見てマルクは笑った。
「お誘いに応える顔には見えないんだけど。まあいいや。行こうか」
『おい部屋行くぞ』ヴィクトルの通信が入った。
カイが扉に手をかけた。
「行く」
「カイ。端末取らせます。もう少し我慢してください、ユキナガ」
『はいはーい。なんか久々任務すぎてなんかダレる』
「真面目にやってください。わざわざルクセンブルクまできてるんですよ」
『わかってるよ。時差ボケで目ギンギン』
「俺もヴィクトルとそっち行くね。ユキナガの部屋集合する」フィンが言った。
部屋へ入ると、マルクはジャケットを脱いで椅子へ掛けた。
リヴァは窓際まで歩いた。雨がガラスを細く流れ、下の通りを走る車の灯りが濡れた路面へ伸びている。
マルクはデスクへ鞄を置き、ノート端末を開いた。スマートフォンを横へ置き、指を触れる。
同じホテルの別室で、ユキナガが画面を見た。
「開いた」
アルノがユキナガのいる部屋へ来ていた。
覗き込むように隣へ寄る。
カイは少し離れたところに立っていた。
スピーカーから、部屋の音が小さく流れている。
リヴァのドレスに仕込んだマイクだった。
リヴァからこちらの声は聞こえない。
マルクが端末を操作しながらネクタイを緩めた。
『ルクセンブルクは初めて?』
『うん』
『この季節は天気が悪くて参っちゃうよ』
マルクの足音が近づく。
衣擦れの音がした。
カイがスピーカーを見る。
ユキナガは画面から目を離さなかった。
「入った。管理画面の手前。まだ認証が残ってる」
スピーカーから、リヴァの声がした。
『マルクが優しいから』
少し間があった。
フィンがスピーカーへ顔を向けた。
「ちゃんと言えてる」
ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま笑った。
「死ぬほど練習した甲斐あったな」
「ちょっと脈絡ない気もするけど」
「いい、いい。この局面の男はもうなにも考えて無い」
ユキナガが吹き出して、フィンが笑った。
カイは何も言わなかった。
部屋では、マルクがリヴァの顎へ触れていた。
そのまま顔を寄せる。
唇が重なる。
マルクの手が腰へ回り、リヴァの背中が窓際の壁へ触れた。
リヴァはマルクのシャツへ手を置いた。
「さっきお金いっぱい動かすって言ってた」
マルクが笑った。
「そうだよ。悪い男は、駄目?」
リヴァがシャツのボタンを一つ外した。
別室でユキナガが言った。
「認証抜けた」
「これ聞いてる俺ら拷問じゃねえか」ヴィクトルが言った。
「急いでユキナガ」フィンが言った。「俺ら限界」
アルノが画面を見る。
「口座は」
「七つ。名義全部違う」
マルクの手がリヴァの肩へ移った。
ドレスの細い布がずれる。
「本当に戻らなくていい?」
「…戻りたく、ない」
マルクがリヴァを抱き寄せる。
シャツのボタンがもう一つ外れた。
ユキナガが画面を切り替える。
「コストフの法人出た」
アオイが後ろから画面を見る。
「船の?」
「うん」
次の一覧が開いた。
ユキナガの手が止まった。
「当たり。VRGもある」
「続けてください」
ホテルの部屋では、リヴァの背中へマルクの手が回っていた。
ドレスのファスナーが下がった。
マイクが拾う衣擦れの音が大きくなる。
カイが壁に手をついた。足先は小さく揺れている。
ヴィクトルが親指の爪を噛んで、膝が揺れていた。
アオイが腕を組みながら、右手をジャケットに入れ、銃を触っていた。
フィンが横目で見た。
「まだだよ」
「分かってる」カイとヴィクトルの声が重なった。
「……」アオイが目を閉じた。
ユキナガが一つのデータを開いた。
「これ送金じゃない」
一覧には番号と名前が並んでいた。
ユキナガが一件を開く。
顔写真が表示された。
表情が消えた。
「……船にいた。人間の管理番号」
アオイが身を寄せる。
「間違いないですか」
「覚えてる」
もう一件開く。
「こいつも」
アルノが画面を見たまま言った。
「保存してください」
スピーカーから、マルクの声がした。
『どうした?』
『なんでもない』
『……綺麗だ』
『あんまり、見ないで欲しい…』
『恥じらう姿も素敵だ』
「……」
カイが壁に頭をつけた。
「移送先もある」
「場所は」
「ルクセンブルク南部。複数」
「リスト出してください」
「今出す」
ユキナガの画面に一覧が映った。
アルノが息を吐いた。
「よし」
その声を皮切りに、カイが扉へ向かった。
部屋は、月明かりと間接照明に沈んでいた。
リヴァはベッドの端にいた。ドレスの肩紐は片方が落ちていた。
マルクはシャツを脱いでいた。
ドアのロックが外れた。
マルクが振り向いた瞬間、扉が開き、照明がついた。
カイ、フィン、ヴィクトル、アオイが一気に入ってきた。
銃口がマルクへ向いた。
「動くな」
「っ……」
マルクの両手が跳ねるように上がった。
「さっきの、軍人……!?お、女は返す!返すから許してくれ!殺さないで!」
リヴァへ伸びかけていた手も、そのまま頭の横で止まる。
アオイは脇を抜け、デスクへ向かった。ノート端末を閉じ、スマートフォンと一緒に確保する。
「取れました」
マルクがそちらへ顔を向けた。
「!?」
身体が動いた瞬間、三つの銃口も動いた。
「撃つなっ…」
声が裏返った。
マルクは背中をヘッドボードへ押しつけ、両手をさらに高く上げた。
「まさか、罠……!?」
カイはベッドの前まで歩いた。
リヴァがずれた肩紐を戻した。
マルクがリヴァを見た。
「……君も、最初から……?」
「ごめんね」
リヴァは背中のファスナーを半分上げた。カイが手を回し、上まであげた。
「わ……私は何もしていない!!金を通しただけだ!」
「その話をこれからゆっくり聞きましょうね」アオイが言った。
「もう天国見ただろ」ヴィクトルが言った。
アオイが端末を離れた場所へ置き、ベッドへ戻ってくる。
「手、後ろお願いします」
マルクの肩が強張った。
マルクは三つの銃口を見て、何度も頷いた。
ベッドから降りる。
マルクはその場で膝をついた。
上半身裸のまま両手を背中へ回す。
アオイが手首を取り、拘束具を締めた。
「はい、そのまま」
「痛い痛い!!」
「うるさいです」
アオイが拘束を確認して立ち上がる。
「終わりました。皆さんもう銃下げていいですよ」
三人ともすぐには銃を下げなかった。
マルクが肩越しに銃口を見た。
「……殺さないでくれ、何が望みだ……」
誰も答えなかった。
フィンが先に銃を収めた。
ヴィクトルも渋々続く。
カイはまだマルクを見ていた。
数秒して、カイも銃をしまった。
マルクは上半身裸のまま膝をつき、後ろ手に拘束されていた。
カイがリヴァを抱き上げ、腕の上に座らせた。
リヴァがずれたドレスを押さえながら、カイの首元にしがみついた。
その時、マルクが少し身を捩ったのを見て、カイが片手で銃を再度構えた。
「こら」
リヴァが一言言うと、カイが銃をしまった。
マルクがリヴァを見上げた。




