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リヴァ・アルカ ―特殊部隊は、一人のアンカーを檻に乞う―  作者: Ilir Noct
第十四章「帰還偏差 ― Return Deviation」

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ルクセンブルク



 乾いた音が鳴った。


 音と同時に、リヴァの顔が横へ振れた。


 カイが手を下げて、リヴァの手首を掴んで上に持ち上げた。


「何度言ったら分かる」


「……っ、」リヴァの目から水滴が溢れた。


 近くにいた女がグラスを持ったまま口を閉じた。隣で話していた男も言葉を止め、少し離れたテーブルでは笑っていた三人組が揃ってこちらを見た。


 天井近くでは弦楽の演奏が続いている。シャンパンを載せたトレーを運んでいたスタッフが一度だけ足を緩め、そのまま何も見なかったように通り過ぎた。


 カイはリヴァを見下ろした。


 リヴァが頬へ手を当て、顔を戻した。


 カイの眉が寄った。


「泣くな、みっともない」


 リヴァの手首をさらに強く掴む。


「痛い」リヴァが言った。


 近くの女が一歩連れの男へ寄った。さっきまでこちらを見ていた客の何人かは視線を外したが、会話はまだ戻っていない。


「その態度やめろと言っている」


 声が低くなった。


 リヴァは黙った。


 瞬きをした拍子に頬へ水滴が落ちた。もう一度瞬くと、反対側からも流れた。


 カイがそれを見た。


「泣けば済むと思うな」


 カイは声を荒らげて数秒リヴァを見てから、掴んでいた手首を乱暴に離した。リヴァがよろめいて、カウンターに手をついて体を支えた。髪が乱れている。


「もういい、勝手にしろ」


 カイはそのまま背を向けた。


 カイが人の間を抜けていくと、進路にいた客が自然に道を開けた。


 止まっていた会話が少しずつ戻り始める。


 


 男は少し離れたところから、リヴァを見ていた。


 テーブルに座って、一人でワインを片手に持っていた。


「……」


 男の隣のテーブルで、フィンがグラスを口元へ運んだ。


「……またやってる」


 男がフィンの方に顔を少し向けた。


 フィンの正面に座っていたヴィクトルが、煙を吐いた。


「怖えな。あいつ、どっかの国の軍人だろ」


「そうだよ。怖い怖い」


 ヴィクトルがリヴァを見る。


「あの女、死ぬほど綺麗なのにな。俺じゃ声かけらんねえ」


「見た?青あざもすごいんだよあの子」


「マジかよ」


 フィンがため息をついた。


「はー。ほんと信じらんない」


 男は手元のグラスを持ったまま、リヴァとカイが消えた方を交互に見ている。



 リヴァは頬を押さえたまま、落ちた涙を指で拭った。


 近くを通ったスタッフが足を止めた。


「……平気、」


 リヴァが答え、手で涙を拭く。


 スタッフはそれ以上聞かずに離れた。


 男がグラスを強くテーブルへ置いて、立ち上がった。


 紺色のスーツ。髪はオールバックに整えた黒髪。立ち上がると身長はフィンと同じくらいで、金の指輪に、大きな腕時計をしている。


 少し迷ってから、リヴァの前まで来た。


「……大丈夫ですか」


 リヴァが男を見た。


「……平気、」


「そうは見えないけど」


 男がポケットからハンカチを出した。


「使う?」


 リヴァは少し見てから受け取った。


「……」


 周囲ではもう会話も演奏も元に戻っていた。ただ、さっきリヴァを見ていた女が、連れと話しながら時々こちらを気にしている。


 男がカイの消えた方へ目を向けた。


「彼は?」


 リヴァもそちらを見た。


「……いつもあんなかんじ」


 男の視線が戻る。


「……彼、戻ってくる?」


「いつも二時間くらいしたら、戻ってくる。私が反省したらって」


 男は少し眉を下げた。


「じゃあ、少し飲みません?」


 リヴァが男を見る。


「見つかったら怒られる」


 男は少し黙った。リヴァの顔を見て、それから、涙で濡れた胸元を見た。


 二の腕や首元にも、薄くあざが見えた。


「……奥の席をとるよ。あそこなら見つかりにくい」


 男が手を挙げて、スタッフを呼び止めた。


 スタッフと同じ黒のタキシードを着たアオイが止まった。


 男がアオイに札束を握らせる。


「Sir, どうされました…?」


 男がバーの一角を指す。そこはセキュリティがおり、奥には半個室が見えていた。


「席を」


「わかりました…」


 アオイは札束をポケットにしまい頭を下げて、男とリヴァを誘導した。


 リヴァはハンカチを持ったまま、その隣を歩き出した。


「名前は」


「……あ……」


 男がリヴァの肩を抱いた。


「いい。ゆっくりでいいよ。私はマルク・ロイター。マルクでいい」


「マルク、」


 リヴァは繰り返した。


 涙が止まっているのを見て、マルクが笑った。





 アオイが奥のスタッフルームへ入った。


 扉を閉めると、会場の弦楽と話し声が一気に遠くなった。


『カーイ、大丈夫?』


 イヤーピースからフィンの声が入った。


 カイは壁際に立ち、腕を組んだまま返事をしなかった。


「白目向いてます」アオイが言った。


『リヴァちゃんとセリフ言えてたね』


『いい台本だ』ヴィクトルが言った。


『まあね。目薬もたくさんつけといて良かった』


 アルノは長机の上に端末を置いた。


 画面にはマルクの顔写真と、いくつかの会社名が並んでいた。


「確認します。マルク・ロイター。三十四歳。ルクセンブルク国籍。表向きは資産管理会社の共同経営者です」


 アルノが一つの会社名を開いた。


「こちらの物流会社へ、過去三年間で複数回送金しています。金額も時期も不規則ですが、そのうち二件がグレイの周辺で確認した法人と一致しました」


 カイが顔を上げた。


「皆さんが対応した船の件とも、つながっているかもしれませんね。人身売買系かも」アオイが言った。


「可能性はあります」


 アルノが別の資料を表示した。


「さらに、マルクが管理に関与する口座から、すでに閉鎖されたVRG関連会社へ送金された記録が一件あります。名目は研究設備の輸送費です」


 スタッフルームが静かになった。


 アオイの顔から笑いが消えた。


「……関与確定、ですか」


「まだ分かりません。だから彼の端末と、本人しかアクセスできない管理画面が必要です」


『それをリヴァに取らせるんだね?』フィンが聞いた。


「可能なら。もしくはユキナガが接続できる時間を作れば十分です」


 カイがラウンジをドアの隙間から覗いて、言った。


「……部屋まで行かせるな」


 アルノがカイを見る。


「マルクが情報を持っていると確認できるまでは、こちらから接触を切る理由がありません」


「肩を抱いていた」


「はい」


「触る必要はない」


「それを決めるのはリヴァです」


 カイが黙った。


 アオイが二人を交互に見てから、ポケットに入れた札束を取り出した。


「これ、どうしたらいいですか」


 アルノが見た。


『もらっとけ』ヴィクトルが言った。


「業務上受領した金銭は記録してください」


「返さなくていいんですか」


「今返したら不自然でしょう」


 アオイは札束を見て、またポケットへ戻した。


「……」


 アルノが端末へ視線を戻した。


「彼が何を知っているか確認します。まだ誰も動かないでください」




 バーの奥は、一段高くなっていた。


 三段ほどの短い階段を上がると、低い壁と厚いカーテンで区切られた半個室が並んでいる。完全には閉じておらず、入口側からは中に人がいることだけが分かった。


 マルクが奥のソファを示した。


「ここなら大丈夫」


 リヴァは腰を下ろした。


 テーブルは低く、二人掛けのソファが向かい合っている。会場の演奏は聞こえるが、周囲の会話までは入ってこなかった。


 マルクは向かいではなく、リヴァの隣へ座った。


「何飲む?」


「いらない」


 マルクが少し笑った。


「そっか」


 スタッフが来ると、マルクが銘柄をいくつか挙げた。


 注文が通ると、リヴァは借りたハンカチを膝の上に置いた。


 マルクが体のあざを見る。


「痛い?」


「そんなに」


「慣れてる?」


「……」


 運ばれてきたグラスをリヴァへ渡し、自分はワインを受け取った。


「彼とは長いの?」


「んー」


「恋人?」


 リヴァがウイスキーを一口飲んだ。


「たぶん」


 マルクが笑った。


 リヴァはグラスの中を見た。


「マルクは何してる人なの」


「金を動かしてる」


「いっぱい?」


「え?何が?」


「お金」


 マルクが声を立てずに笑った。


「まあ、いっぱいだね」


「ふうん」


 間があった。


「…すごい」リヴァが言った。


 マルクは頷いて、背もたれへ身体を預けた。


「会社の金も、人の金も。持ってる奴ほど、自分で動かしたがらないからね。税金、投資、会社、国。全部こっちで綺麗にする」


「へー」


 マルクが袖を少し引いて、大きな時計をリヴァに見せた。


「見せ方を変えるだけさ」


 リヴァが腕時計を見て首を傾げた。


「時計みたときは…」小声で言った。「あ、すごい」


 マルクは自分の時計を見ていた。


「すごいだろ?」


「すごいすごい」


「素直だね」


 リヴァがマルクを見た。


「悪いお金?」


 マルクの口元が少し止まった。


 リヴァはグラスを持ったまま待っていた。


 マルクが笑った。


「君怖いこと聞くね」


「だめだった?」


「いや?」


 マルクはリヴァの膝に置かれたハンカチを取り、まだ水滴が残っていたリヴァの胸元を拭った。


 視線をハンカチからリヴァの目に上げた。


「……どう思う?」


「……」


 マルクはそのままリヴァと目を合わせながら、あざのある肩のあたりを触った。


「もしかして君の存在が、罠だったらって思ったんだけど」


「……」


 リヴァは眉を寄せて、横を一度見た。


 マルクは肩に置いた手を頬に移動させて、自分へ向かせた。


「こんなに独特な受け答えで罠は無いよね。かわいいなあ」


「……」


「彼が戻ってくる前に、上へ行こうか」


 リヴァは眉間にさらに深く皺を寄せた。


「…うん」


 その顔を見てマルクは笑った。


「お誘いに応える顔には見えないんだけど。まあいいや。行こうか」





『おい部屋行くぞ』ヴィクトルの通信が入った。


 カイが扉に手をかけた。


「行く」


「カイ。端末取らせます。もう少し我慢してください、ユキナガ」


『はいはーい。なんか久々任務すぎてなんかダレる』


「真面目にやってください。わざわざルクセンブルクまできてるんですよ」


『わかってるよ。時差ボケで目ギンギン』


「俺もヴィクトルとそっち行くね。ユキナガの部屋集合する」フィンが言った。






 部屋へ入ると、マルクはジャケットを脱いで椅子へ掛けた。


 リヴァは窓際まで歩いた。雨がガラスを細く流れ、下の通りを走る車の灯りが濡れた路面へ伸びている。


 マルクはデスクへ鞄を置き、ノート端末を開いた。スマートフォンを横へ置き、指を触れる。


 同じホテルの別室で、ユキナガが画面を見た。


「開いた」


 アルノがユキナガのいる部屋へ来ていた。


 覗き込むように隣へ寄る。


 カイは少し離れたところに立っていた。


 スピーカーから、部屋の音が小さく流れている。


 リヴァのドレスに仕込んだマイクだった。


 リヴァからこちらの声は聞こえない。


 マルクが端末を操作しながらネクタイを緩めた。


『ルクセンブルクは初めて?』


『うん』


『この季節は天気が悪くて参っちゃうよ』


 マルクの足音が近づく。


 衣擦れの音がした。


 カイがスピーカーを見る。


 ユキナガは画面から目を離さなかった。


「入った。管理画面の手前。まだ認証が残ってる」


 スピーカーから、リヴァの声がした。


『マルクが優しいから』


 少し間があった。


 フィンがスピーカーへ顔を向けた。


「ちゃんと言えてる」


 ヴィクトルが煙草を指に挟んだまま笑った。


「死ぬほど練習した甲斐あったな」


「ちょっと脈絡ない気もするけど」


「いい、いい。この局面の男はもうなにも考えて無い」


 ユキナガが吹き出して、フィンが笑った。


 カイは何も言わなかった。



 部屋では、マルクがリヴァの顎へ触れていた。


 そのまま顔を寄せる。


 唇が重なる。


 マルクの手が腰へ回り、リヴァの背中が窓際の壁へ触れた。


 リヴァはマルクのシャツへ手を置いた。


「さっきお金いっぱい動かすって言ってた」


 マルクが笑った。


「そうだよ。悪い男は、駄目?」


 リヴァがシャツのボタンを一つ外した。



 別室でユキナガが言った。


「認証抜けた」


「これ聞いてる俺ら拷問じゃねえか」ヴィクトルが言った。


「急いでユキナガ」フィンが言った。「俺ら限界」


 アルノが画面を見る。


「口座は」


「七つ。名義全部違う」



 マルクの手がリヴァの肩へ移った。


 ドレスの細い布がずれる。


「本当に戻らなくていい?」


「…戻りたく、ない」


 マルクがリヴァを抱き寄せる。


 シャツのボタンがもう一つ外れた。



 ユキナガが画面を切り替える。


「コストフの法人出た」


 アオイが後ろから画面を見る。


「船の?」


「うん」


 次の一覧が開いた。


 ユキナガの手が止まった。


「当たり。VRGもある」


「続けてください」



 ホテルの部屋では、リヴァの背中へマルクの手が回っていた。


 ドレスのファスナーが下がった。


 マイクが拾う衣擦れの音が大きくなる。



 カイが壁に手をついた。足先は小さく揺れている。


 ヴィクトルが親指の爪を噛んで、膝が揺れていた。


 アオイが腕を組みながら、右手をジャケットに入れ、銃を触っていた。


 フィンが横目で見た。


「まだだよ」


「分かってる」カイとヴィクトルの声が重なった。


「……」アオイが目を閉じた。


 ユキナガが一つのデータを開いた。


「これ送金じゃない」


 一覧には番号と名前が並んでいた。


 ユキナガが一件を開く。


 顔写真が表示された。


 表情が消えた。


「……船にいた。人間の管理番号」


 アオイが身を寄せる。


「間違いないですか」


「覚えてる」


 もう一件開く。


「こいつも」


 アルノが画面を見たまま言った。


「保存してください」



 スピーカーから、マルクの声がした。


『どうした?』


『なんでもない』


『……綺麗だ』


『あんまり、見ないで欲しい…』


『恥じらう姿も素敵だ』




「……」


 カイが壁に頭をつけた。


「移送先もある」


「場所は」


「ルクセンブルク南部。複数」


「リスト出してください」


「今出す」


 ユキナガの画面に一覧が映った。


 アルノが息を吐いた。


「よし」


 その声を皮切りに、カイが扉へ向かった。




 部屋は、月明かりと間接照明に沈んでいた。


 リヴァはベッドの端にいた。ドレスの肩紐は片方が落ちていた。


 マルクはシャツを脱いでいた。


 ドアのロックが外れた。


 マルクが振り向いた瞬間、扉が開き、照明がついた。


 カイ、フィン、ヴィクトル、アオイが一気に入ってきた。


 銃口がマルクへ向いた。


「動くな」


「っ……」


 マルクの両手が跳ねるように上がった。


「さっきの、軍人……!?お、女は返す!返すから許してくれ!殺さないで!」


 リヴァへ伸びかけていた手も、そのまま頭の横で止まる。


 アオイは脇を抜け、デスクへ向かった。ノート端末を閉じ、スマートフォンと一緒に確保する。


「取れました」


 マルクがそちらへ顔を向けた。


「!?」


 身体が動いた瞬間、三つの銃口も動いた。


「撃つなっ…」


 声が裏返った。


 マルクは背中をヘッドボードへ押しつけ、両手をさらに高く上げた。


「まさか、罠……!?」


 カイはベッドの前まで歩いた。


 リヴァがずれた肩紐を戻した。


 マルクがリヴァを見た。


「……君も、最初から……?」


「ごめんね」


 リヴァは背中のファスナーを半分上げた。カイが手を回し、上まであげた。


「わ……私は何もしていない!!金を通しただけだ!」


「その話をこれからゆっくり聞きましょうね」アオイが言った。


「もう天国見ただろ」ヴィクトルが言った。


 アオイが端末を離れた場所へ置き、ベッドへ戻ってくる。


「手、後ろお願いします」


 マルクの肩が強張った。


 マルクは三つの銃口を見て、何度も頷いた。


 ベッドから降りる。


 マルクはその場で膝をついた。


 上半身裸のまま両手を背中へ回す。


 アオイが手首を取り、拘束具を締めた。


「はい、そのまま」


「痛い痛い!!」


「うるさいです」


 アオイが拘束を確認して立ち上がる。


「終わりました。皆さんもう銃下げていいですよ」


 三人ともすぐには銃を下げなかった。


 マルクが肩越しに銃口を見た。


「……殺さないでくれ、何が望みだ……」


 誰も答えなかった。


 フィンが先に銃を収めた。


 ヴィクトルも渋々続く。


 カイはまだマルクを見ていた。


 数秒して、カイも銃をしまった。


 マルクは上半身裸のまま膝をつき、後ろ手に拘束されていた。


 カイがリヴァを抱き上げ、腕の上に座らせた。


 リヴァがずれたドレスを押さえながら、カイの首元にしがみついた。


 その時、マルクが少し身を捩ったのを見て、カイが片手で銃を再度構えた。


「こら」


 リヴァが一言言うと、カイが銃をしまった。


 マルクがリヴァを見上げた。

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