掌を上に
東京拠点、地下資料室 午後四時二十三分。
蛍光灯が一本切れかけていて、一定の間隔で瞬いていた。惣一は木のテーブルの脇に座り、古い書類の束をめくっていた。
Highlightの箱がその横にあった。
カズマは、向かいの折りたたみ椅子に浅く座っていた。
脚を投げ出して座っていた。もう長いことそこにいた。何をするでもなく、惣一が紙をめくるのを見ていた。
「ねえボス」
惣一は顔を上げなかった。
「聞いてる?」
惣一が紙を一枚めくった。
「なんで呼んだの」
返答がなかった。
カズマが笑った。喋っていないと、地下の静けさが耳に貼りついた。
「デカい奴の回収、俺頑張ったんだけど」
惣一は何も言わなかった。
カズマは椅子の上で身をよじった。惣一の手元の紙を覗こうとして、覗けなかった。
「ご褒美ほしい、ボス」
惣一が、書類をテーブルに置いた。
着流しの懐に手を入れた。
カズマが惣一の動きに反応して、止まった。顔が明るくなった。
惣一の手が出てきたとき、そこにSIG P210があった。
カズマの口の端が、上がった。
「え、なに」
惣一は答えなかった。
腕だけが持ち上がった。
肘も肩も止まっていた。
銃口だけが、定規で引いた線のようにカズマの胸へ重なった。
「撃つの?」カズマが言った。声が少し高くなった。「俺を?」
安全装置を下げる音がした。
「じゃあ、見てて」カズマが言った。
惣一が撃った。
音は短かった。地下の壁が、それを飲んだ。
カズマは、そこにいなかった。
弾は、さっきまでカズマの肩があった空間を抜けて、木の床面に食い込んで止まった。
薬莢の乾いた金属音が高く響いた。
カズマは椅子ごと半歩横にずれて、笑っていた。
「ね」カズマが言った。息が弾んでいた。「知ってるでしょ?当たんないんだよ何故か」
惣一は、カズマを見ていた。
「もう一回やる?」カズマが前のめりになった。「ね、面白いでしょ。俺——」
「手え出せ」
カズマが、止まった。
「え」
「左」
カズマは、少しだけ考える顔をした。それから、笑った。
左手をテーブルに置いた。
指の背に、線の歪んだ黒い文字が並んだ。
LIBRE。
「これなら」カズマが一拍置いた。「…当たるよ、ボス」
「違え。掌を上だ」
惣一が言った。
銃を握り直す、無機質な音がした。
「え、でも」
カズマのこめかみに汗が伝った。
「裏返せ」
一段と低くなったその声に反応して掌を晒すのに、カズマは一秒もかけなかった。
指に並んでいた文字が、テーブルの側へ伏せられた。
銃口がその掌に向いた。
カズマの息が、浅くなった。
「…っ」
汗が一筋落ちた。首筋が濡れていた。
手のひらが勝手に丸まろうとして、意識的に広げた。
背中に、シャツが張りついていた。
指の一本一本が震えていた。
震えている指から、惣一に目線を動かした。
視線だけは震えなかった。
惣一が自分を見ている。
それだけで、掌は開いたままだった。
「…ボス、」
銃口が、掌に触れそうな距離まで寄った。
「逃げたいか」惣一が言った。
「逃げない」カズマはすぐに答えた。
言ってから、カズマは笑った。ぎこちなかった。
「ボスが見てるなら」
カズマの汗が床に落ちた。目を細めた。
惣一が撃った。
カズマの掌の、親指の付け根に弾が抜けた。
鈍い音がして、テーブルが揺れた。
膝から力が抜けた。椅子から滑って、床に膝をついた。
「……っ、ぁ」
スライドが後退し、薬莢が蛍光灯の下で金色に回転した。
床へ落ちる音だけが、小さく遅れて響いた。
掌は、テーブルの上に残っていた。まだ上を向いていた。震えが大きくなっていた。
右手で左の二の腕を食い込むほど力を入れている。頭を右腕に埋めて声を殺していた。
血が手首の方へ、腕を伝って落ちた。テーブルの面に散った分が、木目に沿って流れた。
膝をついたまま、腕を伸ばして掌を上に向けたまま、そこに留めていた。開いたまま耐えていた。
「ボス」荒い呼吸の中で、かろうじて声が出た。
声が掠れていた。
顔をあげた。汗で髪が張り付いていた。
カズマが言った。
「ちゃんと、…見た?」
惣一はもう見ていなかった。
撃ったあと、惣一の目は掌から離れて、Highlightの箱の方に向いていた。一本を抜いていた。膝をついたカズマにも、上を向いたままの掌にも、視線を戻さなかった。
「撃つ時、俺しか、みてなかったでしょ」
カズマの体が、縋るように少し動いた。
撃たれたことよりも、もう見られていないことの方に動揺していた。
「ね、ボス、」
惣一は、煙草をくわえた。
「よく解った」
惣一の一言を聞いて、カズマは笑った。
肩が一センチ下がった。
「……やば、っ……飛んじゃいそう、ボス……」
荒い呼吸が続いた。
扉が開いた。
カラムが入ってきた。
銃声を聞いて降りてきた。
惣一は銃をしまっていた。
カラムは開口の死角にならない一点に、体を移した。
それから、床に膝をついたカズマを見た。上を向いた掌を見た。血を見た。
包帯の下で、カラムの右手の指が一度だけ動いた。
惣一を見た。
「……」
カラムは何も言わなかった。
カズマはカラムを気にも止めず、まだ惣一に話しかけていた。
「も、……おしまい?」
カズマの息はまだ荒いままだった。立ちあがろうとして、右膝を立てた。
血の気が引いて、身体が一瞬横に揺れた。
踏ん張って耐え、膝立ちの姿勢に戻った。手のひらはまだ上に向けていた。
目の焦点が合わなくなり始めていた。
視線は惣一に向けたままだった。
その息遣いは荒かった。
オラヴルが、後ろから入ってきた。
白衣の裾が扉の枠に触れた。
部屋に入って状況を見た。
オラヴルの足が、止まった。
「……」
灰かかった青の瞳が揺れた。
惣一を見た。オラヴルは何か言おうとして、口が開きかけた。
その口を閉じた。
オラヴルは、惣一から目を逸らした。
カズマの方へ歩いた。
惣一が、煙を一度吐いた。
ゆっくりと立ち上がった。カズマの方も、オラヴルの方も見なかった。
「待ってよ、ボス」
カズマが手のひらはそのままで、立ち上がった惣一に縋った。
惣一はオラヴルの横を、通り過ぎた。
「縫っておけ」
オラヴルに言った。
「…縫うだけじゃ、たりない」オラヴルはつぶやいた。
扉が開いて、閉じた。
足音が遠ざかった。
オラヴルが、膝をついたカズマの前にしゃがんだ。
カズマはまだ扉の方を見ていた。惣一が消えた、その戸口をみて、涙か汗かわからない水分が顎から落ちた。
カラムが壁際で、左手だけでRothmansに火をつけた。
目を細めて、カズマを見ていた。
切れかけた蛍光灯が、瞬いた。




