とらないで
東京拠点 中庭 午後二時四十分。
ローマまであと一日。
中庭は午後の光が斜めに落ちていた。古い木の梁の影が、洗い出し仕上げの床に伸びて、ハーブの鉢が並ぶ一角だけ、緑が濃い。
リヴァはカラムと並んで歩いていた。淡い黄色のワンピースの裾が、歩くたびに膝のあたりで揺れる。
カラムは火のついていない煙草を指に挟んでいる。隣を歩くと、影が長く重なった。リヴァの頭は、カラムの肩にも届かない。
「ミント、今朝もカラムのとこにいたね」リヴァは言った。
「……足元で寝てた」
「明日からよろしくね」
「……何を」
「ミントと、金魚たち」
「それだけ」
「え?」
「……ううん」
カラムは前を見たままだった。たれ目が、どこを見ているのかわからない。
リヴァは、それ以上聞かなかった。
灰色の床を二人分の足音が踏んだ。
カラムは煙草の先を、親指で撫でた。
中庭の奥で何かが動いた。
オラヴルだった。ハーブの鉢の前に屈んで、ミントの葉に触れている。
二人に気づいて、顔を上げた。
リヴァを見た。
力なく笑った。
「珍しい」リヴァは言った。「外にいる」
オラヴルは立ち上がった。逆光になって、顔に影が落ちた。手のひらに、ちぎった葉が一枚あった。
「明日から、ミントと金魚たち。宜しくね」
オラヴルの手の中で、葉が止まった。
空を雲が横切った。光が翳って、また戻った。
「……明日か」
リヴァは少し笑った。
「うん」
オラヴルの両手が伸びた。
リヴァの肩を掴んで、そのまま引き寄せた。腕の中に抱き込んだ。
「え、」
リヴァの顔が、白衣の胸に埋まった。頭の上で、光が遮られた。
影が落ちた。腕は、離れなかった。
「……どれだけ考えても、君を止める言葉がわからない」
「オラヴル、……」
リヴァの声が、胸の布に潰れた。
オラヴルの腕に、少しだけ力が入った。
乾いた床を踏む音がした。
カラムが一歩、近づいていた。
アンバーの目が、オラヴルの腕と、その中に消えたリヴァを映していた。目が細くなった。
カラムの手が動いた。リヴァの二の腕を取った。
オラヴルの腕の中から、リヴァの身体が引き抜かれた。
リヴァはカラムの胸元へ引き戻された。後頭部が、硬い胸板に当たった。
二つの高い背の間に立っていた。
「……とらないで」
オラヴルの腕が、宙に残った。
その手を、ゆっくり下ろした。足元を見た。それから、リヴァを見た。
オラヴルの前髪が顔に落ちて、表情が見えなかった。
もう一度、手が動きかけた。
止まった。
「……ごめん」
掠れた声だった。
行き場をなくしたオラヴルの手を、リヴァが取った。
両手でオラヴルの手を包んだ。指先が冷たかった。
オラヴルの肩が、少しだけ揺れた。
リヴァの瞳を見た。
リヴァは二つの背の間から、オラヴルを見上げていた。
「オラヴル」
斜めの光が、少しずつ中庭の床を移っていった。
「ちゃんと帰ってくるよ」リヴァは笑った。
思ったより、小さな声になった。
オラヴルは答えなかった。
「待ってて」
リヴァは少しだけ振り返った。
カラムの手は、まだ二の腕に残っていた。
「カラムも」
指の力が、わずかに緩んだ。
「……ん」
ハーブの一角だけが、まだ緑を濃く残していた。中庭の隅で、水が滴っていた。




