隅田川花火大会
夕方の共用スペースだった。
テレビで花火大会のCMが流れていた。隅田川。打ち上げ数の数字。浴衣の女性がラムネを持って笑っていた。
ユキナガがソファに沈んでいた。半分寝ていた。隈が濃い。右手に持った端末の画面だけが、せわしなく動いていた。
リヴァはキッチンにいた。コーヒーを淹れていた。
フィンが床に座ってゲームをしていた。カイがカウンターで煙草を吸っていた。
「…隅田の花火でも行かない?」
ユキナガが言った。唐突だった。
「花火大会、行ったことない」
リヴァがふと言った。
ユキナガが目を開けた。
「マジ?」
「たぶん」
たぶん、というところでユキナガが一瞬だけ黙った。
「行きたい」リヴァが言った。
「じゃあ行こう」ユキナガが起き上がった。「今週末。でも隅田の花火は雨降るんだよなー」
「決定事項じゃん」フィンが画面を見たまま言った。「俺も行くー」
カイが息を吐いた。
「何が決定なんですか」
声がした。
ソファの奥、一人がけの椅子にアルノがいた。端末を見ていた。
「花火大会」ユキナガが言った。
「却下です」
「なんで」
「人混み」アルノは端末に視線を戻した。「ユキナガも解析終わってないでしょう」
「俺のはもう終わる」ユキナガが端末を見た。眉をひそめた。
「……警備を増やせばいい」カイが言った。
「どういうことですか」アルノが顔を上げた。
「全員で行けばいい」
「それ警備じゃなくて包囲だろ」フィンが言った。
ユキナガが笑った。
アルノが額に指を当てた。反論を探していた。リヴァがもう「行きたい」と言っていた。それを覆す理由が、見つからなかった。
「……動線は私が組みます」
負けた側の声だった。
当日の拠点。
浴衣はヴィクトルが用意していた。リヴァが連絡してみたら、次の日には揃っていた。全員分あった。
「浴衣、かわいい」
リヴァが言った。広げられた淡い紫色の生地を見ていた。赤い金魚が散っていた。
フィンがすでに自分の浴衣を手にしていた。濃紺。
「和服って初めて着る」フィンが言った。
帯を持って、しばらく考えていた。前で結ぶのか後ろなのか、わからないようだった。
ユキナガは苦戦していた。黒地に銀の流水。帯がぐちゃぐちゃになっていた。
「これ無理。どうなってんの」
「待ってろ」カイが言った。
カイはもう着終わっていた。深緑の無地。帯も黒。自分で着付けていた。
「カイ、時代劇出てきそう」ユキナガが笑った。
カイが一番近くにいたカラムに向かって、黒い浴衣を肩にかけた。
「……いい」
「せっかくだから」リヴァが言った。カラムは観念したようだった。
袖を通させた。前を合わせた。グレーの帯を巻いた。
カラムは、されるがままだった。抵抗も協力もしなかった。ただ立っていた。193センチの男が、黙って着せられていた。
「カイ、着付けできるんだ」ユキナガが帯と格闘しながら言った。
「ああ」
カイが、カラムの帯を後ろで締めた。きゅっと締まる音がした。
カラムが長い溜息を吐いていた。
それから、カイはリヴァのところに来た。
リヴァは自分で着ようとして、帯の段階で止まっていた。
「貸せ」
カイがリヴァの後ろに回った。
帯を取った。一度ほどいて、巻き直した。手際がよかった。帯の形が整っていく。
リヴァは、されるがままだった。力を抜いていた。
「動くな」
カイが言った。
リヴァが頷いた。
「カイ、なんでできるの」
「弟も妹もいた」
帯が、後ろで結ばれた。カイの指が、最後に形を整えた。背中越しの距離だった。
リヴァが、鏡を見た。
「……苦しい」
「緩めるか」カイが言った。
「多分大丈夫」
カイの表情が緩んでいた。そんな気がした。
会場に着いた頃には、日が暮れていた。晴れた。
人が多かった。とにかく多かった。
「リヴァ、大丈夫?人酔いしない?」オラヴルが後ろから言った。シャツにスラックスだった。
「オラヴルが一番具合悪そう」フィンが笑った。
「だからVIP取るかって聞いたんだが」
ヴィクトルが言った。いつものボルドーのシャツだった。
「雰囲気味わいたかったから」リヴァが言った。
川沿いの道が、人波で埋まっていた。屋台の灯りが、両側に続いていた。ソースの匂い。出汁の匂い。火薬の匂いが、まだ遠くにあった。
六人で歩いていた。リヴァを内側にした隊形になっていた。前にカイ。後ろにカラム。横にフィンとユキナガ。少し離れてアルノとヴィクトルとオラヴル。
「アルノも、浴衣着れば良かったじゃんか」ユキナガが言った。
「似合わないので」
アルノが言った。いつものシャツを肘まで折っていた。ネクタイをしていた。
リヴァが屋台を見つけた。
りんご飴の屋台だった。赤い飴が、灯りを反射していた。
リヴァの足が止まった。
歩幅が少し変わった。一歩、屋台の方に踏み出していた。
「……あれ、何」リヴァが指をさしてユキナガに向いた。
「りんご飴」ユキナガが言った。「食う?」
「食べる」
ユキナガが買ってきて、リヴァが受け取った。赤い飴を、灯りにかざして見ていた。
その時だった。
近くにいた若い男が二人、リヴァを見ていた。
「ねえ、一人?」声をかけてきた。「俺らと——」
言い終わらなかった。
カイがリヴァの前に半歩出た。
フィンが、横から男の視線を遮るように立った。
アルノが二人の間に割り込んだ。「連れなので」
後ろからカラムが、ぬっと出た。
無言だった。見下ろしていた。
その場にいた全員が睨んでいた。
ナンパの男たちが固まった。
「……あ、すいません」
逃げるように、消えていった。
それを後ろから見ていたヴィクトルが、笑った。
「包囲だな、本当に」
リヴァはりんご飴をなめていた。何が起きたのか、半分わかっていなかった。
「美味しい」
「聞いてる?」ユキナガが言った。
「ガラスみたい。りんご飴」
ユキナガが息を吐いた。
浴衣の子供が、金魚の袋を振り回しながら走っていった。
リヴァが、それを見ていた。
少し歩くと、別の屋台があった。
水の上に、ゴム風船が浮いていた。色とりどりだった。釣り糸の先に、こよりがついていた。
リヴァが止まった。
「ヨーヨー釣り」フィンが言った。「やる?」
リヴァが頷いた。
こよりを受け取った。水面に垂らした。赤い風船のゴムに、輪を引っ掛けた。
ゆっくり持ち上げた。
切れなかった。
赤い水風船が、釣り上がった。
屋台のおやじが、口の結び目に指を引っ掛けて手渡した。
リヴァが受け取った。ゴムの輪を指にかけて、揺らした。水の中で、光が動いた。
しばらく歩いた。しばらく遊んでいた。
それから、カイに差し出した。
「はい」
カイが受け取った。受け取ってから、リヴァを見た。
「……」
なぜ渡されたのか、わからないようだった。
でも、持っていた。指に、赤い水風船を提げたまま歩いた。
次の屋台は、射的だった。
コルク銃が並んでいた。棚に、駄菓子と、景品が積まれていた。
カイが銃を取った。
フィンも取った。
「やる」フィンが言った。
フィンが構えた。撃った。外れた。もう一発。外れた。
カイが構えた。撃った。棚の駄菓子が、後ろに落ちた。
カイはフィンを見た。誇らしげだった。
「すごい」リヴァが言った。
カイの口角が、わずかに上がった。
でも、リヴァの視線は、もう別のところにあった。
棚の、一番上だった。
茶色いくまのぬいぐるみが、置いてあった。大きかった。他の景品より、高い位置にあった。
リヴァが、それを見ていた。
「やる?」フィンが銃を差し出した。
リヴァが受け取った。
「使わないでくださいね」
アルノが言った。能力を使わないよう、釘を刺す声だった。
リヴァが頷いた。
構えた。真剣だった。くまに狙いを定めた。
撃った。外れた。
もう一発も外れた。
「難しい」
リヴァが言った。真顔だった。
「構え方がガチすぎる」ユキナガが笑った。
残り一発。
リヴァが、くまを見た。くまも自分を見ている気がした。
欲しかった。
奥から見ていたカラムが、目を細めた。
「……」
リヴァは引き金に、指をかけた。
カイが何か言おうと、口を開きかけた。
リヴァは息を吸って、吐くときに止めた。
撃った。
コルクが、まっすぐ飛んだ。
屋台のコルクがまっすぐ飛ぶはずは、なかった。
くまの、額に当たった。
大きなぬいぐるみが、棚の一番上から、ゆっくり傾いた。
落ちた。
「この馬鹿」アルノが言った。低い声だった。敬語がなかった。
その場が、固まった。
フィンの笑いが消えた。カイがリヴァに一歩寄った。
リヴァが、アルノを見た。
「……後でしっかり話しますからね」
「………」リヴァはアルノから目線を逸らした。
リヴァが、くまを受け取った。
両手で抱えた。大きかった。顔が半分隠れた。
リヴァが、くまをカイに渡した。
カイがくまを片腕に抱えた。もう片方の手には、赤い水風船が提がっていた。
誰も何も言わなかった。歩き出した。
その時、最初の一発が、上がった。
大きな音だった。
空が、白く光った。
音に反応して、リヴァの呼吸が、半拍遅れた。
足が止まった。心臓が跳ねた。
カイが半歩前に出ていた。手が腰のあたりに行きかけた。そこに何もないことを指が確認して、止まった。
カラムが夜空を見ていた。視線が一瞬だけ遠くなった。ポケットからRothmansを取り出して、止めた。火をつけなかった。しまった。
ヴィクトルが、周囲の人の密度に視線を上げた。
それぞれが、一歩前に出ていた。
リヴァが息を吐いた。
「……大丈夫」
二発目が上がった。
今度は遅れなかった。
空を見上げた。
大きな光が、開いて落ちていった。
「……綺麗」
リヴァが言った。
「でかい」
「そこ?」フィンが笑った。
「写真」ユキナガが言った。
端末を構えていた。
全員が、嫌そうな顔をした。
「いいから」
ユキナガが集めた。カイが渋々寄った。カラムが一歩だけ動いた。フィンが肩を組んできた。
ユキナガが画面を見た。
リヴァが、花火を見ていた。
「リヴァ、こっち」
リヴァが空を見ていた。
「リヴァ」
リヴァが、まだ空を見ていた。
ユキナガが息を吐いた。
フィンが、リヴァの頭を掴んで、端末の方に向けた。
「はい、こっち」
リヴァが、ようやくカメラを見た。
撮れた。
ユキナガが確認した。
「カイだけ顔怖い」
「うるさい」
「アルノは葬式」
「元からです」
「カラム写ってる?」
「たぶん」
アルノがため息をついた。
花火が、終わった。
人が引き始めた。
帰りの人波は、来た時よりひどかった。全員が一斉に駅へ向かっていた。道が人で詰まっていた。
その中で、ふっと、リヴァが見えなくなった。
大きな尺玉の名残で、何人かが立ち止まって空を振り返った、その数秒だった。
視線が戻った時。
リヴァが、いなかった。
空気が変わった。
「リヴァは」カイが言った。声が低くなっていた。
「さっきまで右にいた」フィンが言った。すでに人混みの上に視線を走らせていた。
「端末」アルノが言った。
「拾ってる」ユキナガがもう端末を操作していた。指が速かった。「……南、川寄り。いや、人多すぎて定かじゃない」
カイが、人混みをかき分けて動き出していた。体で道を作っていた。
カラムは誰の指示も待っていなかった。無言で人波の隙間を縫っていた。周囲の人間がぎょっとしていた。
アルノが、全体の動線を頭の中で引いていた。「カイは正面、カラムは左から。ユキナガは座標を流し続けてください」
「なんか買ってるんだろ。そのうち戻ってくる」ヴィクトルが言った。
オラヴルが、人波の上を見ていた。視線が、ゆっくり動いていた。
数十秒だった。
カラムが最初に着いた。
止まった。
リヴァはしゃがんでいた。
金魚すくいの屋台の前だった。
ポイを片手に水槽を覗き込んでいた。真剣だった。赤い金魚を、追っていた。
カラムが見下ろしていた。
「いた」
リヴァが顔を上げた。
「あ」
ポイを持ったままだった。すでにやぶれていた。
「金魚」
中で、赤い金魚が二匹、泳いでいた。
ちょうど全員が着いた。
全員が黙った。
オラヴルが、しゃがんでいるリヴァに近づいた。膝をついた。リヴァの顔に手を当てて、顔色を見た。呼吸を見た。
「?」
オラヴルの肩が、落ちた。
「…それどうするんですか」アルノが言った。
「飼う」
アルノが、自分の眉間をつまんで下を向いた。
フィンが笑った。ユキナガが笑った。
カラムは、笑っているリヴァを見ていた。
「…僕の仕事がまた増えた」オラヴルが言った。
帰り道、人の流れに押され、リヴァがまた見えなくなりかけた。
今度はすぐだった。
カイがリヴァの腰に腕を回した。そのまま持ち上げた。
人混みの上に、リヴァの視界が出た。
リヴァが目を丸くした。
「目立ちます」
アルノが言った。
カイがリヴァを下ろした。
下ろしたが、腰の手は離さなかった。人波が落ち着くまで、引き寄せたままだった。
しばらく歩いて、リヴァの足が止まった。
下を向いた。慣れない鼻緒が、足の指の間に食い込んでいた。歩き方がおかしくなっていた。
最初に気づいたのは、オラヴルだった。
「足、痛むかい」
「……ちょっと」
「車、停めてある」
オラヴルが言った。駐車場の方を指した。
ユキナガが、振り返った。
「え」
「車?」フィンが言った。「いつの間に置いてあったの」
ヴィクトルが、声を出さずに笑った。
「俺たちはタクシーでいい」ヴィクトルが言った。あっさりと。「向こうに待たせてる」
「早くいきましょう。このまま居たら帰れません。洒落にならない」アルノが言った。
カイたちが、黙った。
少し、悔しそうだった。誰も口には出さなかった。
「狭いけど」オラヴルが言った。「……あと三人乗れるよ」
一拍あった。
「アルノ、乗りな」オラヴルが言った。
「俺も乗る」ユキナガが即答した。
一拍あった。
カイが、そっちに進んだ。
リヴァが、オラヴルを見た。
「なんでアルノ?」
オラヴルが、にこやかに言った。
「お説教、あるでしょ」
リヴァが、固まった。
オラヴルのボルボが停まっていた。リヴァが助手席に乗った。後部座席に、カイとアルノとユキナガが詰め込まれた。
ユキナガが、真ん中だった。
「……狭い…」ユキナガが言った。「くまどけて…暑い…」
「黙ってろ」カイが言った。くまとヨーヨーをユキナガに押し付けた。
「こっちに傾かないでください、ユキナガ」アルノが言った。
オラヴルの車が、走り出した。
残りはタクシー乗り場の方へ歩いていった。
助手席でリヴァが、膝の上の金魚の袋を見ていた。
「リヴァ、楽しかった?」オラヴルがハンドルを握りながら言った。
「うん」リヴァは言った。「また行きたい」
赤い金魚が、街灯の光の中で、ゆっくり泳いでいた。




