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姐さん


 小会議室だった。テーブルが一つ椅子が四脚。窓のない部屋だった。空調の音だけがしていた。


 リヴァとカイとフィンが、座っていた。


 アルノが立っていた。端末を操作した。壁のモニターに和服の女が映った。五十代。背筋が伸びていた。目が笑っていなかった。


「藤村静江」アルノが言った。「関西の組織二代目の妻です」


 カイが、写真を見ていた。


「先月夫が抗争で亡くなり、跡目争いが起きている。彼女を狙っているのは外の組織じゃない。身内の、謀反派です」


 フィンが軽く眉を上げた。


「だから厄介です」アルノが言った。「顔を知られている。組織のルートは、全部見張られている。表では動かせません」


 アルノが画面を切り替えた。地図が出た。東京から西へ線が引かれていた。


「彼女を、神戸のセーフハウスまで新幹線で移送します。一般人として」


 リヴァが地図を見た。


「東京から新神戸までのぞみで二時間半」アルノが言った。「武装は最小限。威圧も派手な動きも一切なし。バレたら移送対象ごと消されます」


 リヴァはテーブルの一点を見ていた。聞いていた。沖縄から帰ってきたばかりだった。白い部屋の感覚がまだ抜けていなかった。指が膝の上で軽く握られていた。


「リヴァ」


「うん」


「あなたは彼女の隣に座っていただきます。付き添いとして」アルノが言った。「叔母と姪という設定です。法事帰り。男が隣にいると護衛だと一発でバレるので」


「わかった」


「あなたの仕事は観察だけです」アルノがリヴァを見た。「違和感を拾うことだけに集中してください。見る側に徹して、何かあればカイに報告を」


 リヴァが頷いた。


 短い頷きだった。いつもよりわずかに遅かった。


 アルノがそれに気づいた。気づいて何も言わなかった。端末を指で二回叩いた。


「カイは近距離。通路を挟んで斜め後ろです」


「了解」カイが言った。


 カイの視線がリヴァの横顔に一度だけ向いた。リヴァが写真でも地図でもなくテーブルの木目を見ていることにカイは気づいていた。


「フィンは」


「後ろから見てる。まあ保険ってことでしょ」


「頼みます」アルノが端末を閉じた。



 それから少し間を置いた。


「一つ共有しておきます」アルノが言った。「この女は人をよく見ます。経歴も修羅場の数もこちらとは桁が違う」


「脅威なの」リヴァが言った。


「いえ」アルノが言った。「ただ隠し事はすぐ見抜かれると思ってください」


 リヴァにはその意味がまだわからなかった。




 東京駅だった。


 新幹線のホームは人で混んでいた。


 リヴァは黒のワンピースを着ていた。低いヒールのパンプス。小さなハンドバッグ。法事帰りの姪という設定に寄せていた。髪はいつもよりきつく編んでいた。


 人の多さにリヴァの足が一瞬止まった。


 音が多かった。アナウンス足音台車の車輪子供の声。大きな音のひとつひとつに神経が勝手に反応した。聞こうとしていないのに全部拾ってしまう。


 息をひとつ吸った。


 藤村静江はすぐにわかった。


 藍鼠の絽の着物。喪の名残のような色だった。背筋がまっすぐだった。雑踏の中でその一画だけ空気が違った。指に古い翡翠の指輪をしていた。


 リヴァが近づいた。


 彼女がリヴァを見た。


 上から下までゆっくり見た。


 値踏みではなかった。もっと深いところを見ていた。


「……あんた、堅気やないね」


 女が言った。最初の一言だった。


 リヴァが止まった。


 口を開きかけて、結局何も出なかった。


「叔母と姪やったか」女が口の端を上げた。「ええよ。乗ろ」


 女が先に歩き出した。


 リヴァが続いた。


 少し後ろをカイが歩いていた。視線がリヴァの背中から離れなかった。周囲の人間の手元を一人ずつ見ていた。コートの膨らみ。鞄の角度。歩く速度。それと、リヴァの足の運びを見ていた。半歩、いつもより狭い。歩く速度をリヴァに合わせた。


 さらに後ろをフィンが歩いていた。端末をいじるふりをしてホーム全体を視界に入れていた。




 グリーン車だった。


 二人掛けの席。女が窓側に座った。リヴァが通路側に座った。


 通路を挟んだ斜め後ろにカイが座った。フィンは車両のいちばん端の席だった。


 新幹線が動き出した。


 しばらく、女は外を見ていた。東京のビルが後ろに流れていった。


 リヴァは観察していた。車内の乗客。出入口。デッキの方。誰がいつどう動くか。


 その合間に指が膝の上でまた軽く握られていた。動き出しの震動。レールの継ぎ目を踏む規則的な音。リヴァは息を浅く整えた。


「お嬢ちゃん」


 女が言った。外を見たままだった。


「何」


「さっきからずっと人見てるやろ」


 リヴァが止まった。


「そういう仕事やわかってる」女がリヴァを見た。「でもなもうちょっと力抜き。隣でそんな張り詰めてられたらこっちが気疲れするわ」


「気をつける」


 リヴァは膝の上の手を開いた。意識して開いた。指が少しだけ白くなっていた。


「気をつけるて」女が笑った。「ほんま可愛げないなああんた」



 女が煙草を取り出した。ピースだった。火はつけなかった。指の間でもてあそんでいた。車内では吸えないのをわかっていた。


「うち怖いやろ?」


「別に」リヴァが答えた。


「なんで?」


「何もしてないから」


「そういう子か」


 女は笑った。わざと声を押さえているように見えた。



「彼氏は?」


 女が唐突に言った。


「………」


「どうなん」


「…いない」


「ほんまに?」女がリヴァを見た。「こんだけ別嬪で?」


「そういうのよくわからない」


 リヴァは嘘をつかなかった。気を使うということができなかった。世辞も相槌も出てこなかった。ただわからないものをわからないと言った。


 女が少しリヴァを見た。


 それから笑った。


「あんた嘘つかへん子やね」女が言った。「珍しいわ。最近おらんで。そういう子」


「嘘苦手」


「知ってる。顔に出てる」女が言った。「いや出てへんからこそや。隠す気もないやろ」


 リヴァは答えなかった。


 斜め後ろでカイがわずかに身じろぎした。デッキの方からスーツの男が一人入ってきていた。カイの視線が男の手元を追った。男は自分の席に座った。何でもなかった。カイの視線がリヴァに戻った。


「好きな男もおらんの」


 女が続けた。


「……わからない」


「またわからへんか」女が目を細めた。「ようさんおるやろ。あんたの周り。さっきの後ろのええガタイの兄ちゃんとか。その奥の外人とか」


 リヴァが少し止まった。


 フィンは本来、悟られない位置でついてきていた。なのに、気づかれていた。


「……仲間」リヴァが言った。


「仲間ねえ」女が言った。「あんなん仲間がする目やないけどな」


 リヴァが女を見た。


 意味がわからなかった。


「ええわ。それで」女が言った。笑った。


 新幹線がトンネルに入った。窓が暗くなった。暗くなった窓にリヴァの顔が映っていた。


 女はその映ったリヴァの顔を見ていた。


 窓越しに目が合って、リヴァは目を泳がせた。




 名古屋を過ぎたあたりだった。


 デッキの方に人影があった。


 二人組だった。座席に着かずデッキに立っていた。一人が車両の中を覗いていた。


 カイの体が動いた。


 立ち上がるその手前だった。腰が座席から浮きかけた。手が自然に上着の内側に向かいかけた。


 無線からフィンの声がした。


 小さかった。


『カイ』


 カイが止まった。


『座って』フィンが言った。『まだ何もない』


 カイがデッキの二人を見ていた。


『喫煙室待ち。二分前から立ってる。動きが素人……ただ、視線だけ一回奥見た』


 カイがゆっくり座り直した。


 でも視線は外さなかった。


「リヴァは気づいている」カイが言った。


『知ってる』フィンが言った。『だから座ってろ』


 デッキの二人はしばらくして喫煙室に入っていった。


 何も起きなかった。


『問題なし。続行』フィンが言った。


 リヴァはそれを見ていた。


 自分も気づいていた。デッキの人影に。違和感に。でも動けなかった。動く立場にいなかった。見ているしかなかった。


 胸の奥がざらついた。


 戦えるのに戦えない。気づいているのに何もできない。


「お嬢ちゃん」


 女が言った。


「何」


「今の気づいてたやろ」女がデッキの方を顎で示した。「あの二人」


 リヴァは一瞬だけ息を止めた。喉が動いたが、言葉は出なかった。


 指が膝の上で強く握られたまま、戻らなかった。


「でも動かへんかった」女が言った。「あんたは見てるだけの役や」


 女がリヴァの横顔を見た。


「しんどいやろ」


 リヴァが止まった。


 しんどいと思ったことはなかった。


 でも言われて初めてそれがしんどいことなのかもしれないと思った。


 視線が、カイの方向に行きかけて止まった。


「わからない」


 リヴァが言った。


 女がふっと笑った。


「私も煙草吸いにいこうかしら」


 リヴァが止まった。


「冗談」


 女は、笑ってそれ以上何も言わなかった。




 京都を過ぎた。


 車内は静かだった。


「あんたこの仕事長いの」


「わからない」リヴァが言った。「覚えてない」


「…色々あったんやな」


 リヴァは答えなかった。


 女がリヴァの目を見た。


 今度は深く見た。さっきまでの面白がる目ではなかった。


「あんたな」女が言った。「長持ちせえへんよ、そんな目でいたら」


 リヴァが止まった。


「うちはようけ見てきた」女が言った。低かった。「うちの人もそうやった。あんたみたいな目しとった。先に何にも見てへん目や」


「……」


「そういう目の人間はある日ふっとおらんようになる」女が言った。「自分でも気づかんうちにな」


 リヴァは何も言えなかった。


 脅されているわけではなかった。忠告でもなかった。ただ事実を置かれた。同じものを見てきた人間の目だった。


 カイの視線がリヴァの横顔に留まった。動かなかった。


 リヴァは窓の外を見た。


 答えなかった。


 答えられなかった。


 女はそれ以上言わなかった。


 また外を見た。


 新大阪を過ぎて、長いトンネルに入った。




 新神戸に着いた。


 ホームに降りた。神戸の空気は東京と少し違った。海が近かった。


 セーフハウスは駅から車で十分ほどだった。古びたマンションだった。エレベーターが軋んだ。


 部屋の前で引き渡しが完了した。中で別の人間が待っていた。女を迎えた。


 任務は終わった。


 何も起きなかった。一発の銃弾もなかった。


 女が部屋に入って、振り返った。


 リヴァを見た。


 それから煙草を咥えた。火をつけた。煙を吐いた。ゆっくりだった。


「世話になったな、お嬢ちゃん」


「うん」


「礼に一個教えたるわ」女が言った。煙の向こうで目を細めていた。「貸し作ったままいうのも寝覚め悪いしな」


 リヴァが女を見た。


「ローマの連中が」女が言った。「近ごろおかしなもんに金出しとる」


「………?」


「日本の観測データ」女が言った。「うちの人が死ぬ前に言うとった。あっちのやつらが妙な取引しとるて」


 リヴァが止まった。


 観測データ。その言葉が引っかかった。


「それ、何」


「さあな」女が言った。「うちもそこまでは知らん」


 女が煙草をもう一口吸った。


「でもな」女がリヴァを見た。「あんたら気をつけな」

 

「…」


「うちの人、それ調べ始めてから死んだ」


 ドアが閉まった。


 薄い煙草の匂いだけが残った。




 帰りの新幹線だった。


 三人で座っていた。


 誰もあまり喋らなかった。


 戦闘は一度もなかった。銃も抜かなかった。誰も怪我をしなかった。


 それなのに三人とも消耗していた。泥のように疲れていた。


 フィンは目を閉じていたが、指先だけが一定のリズムで動いていた。


 カイは窓の外を見ていた。


 リヴァは女の言葉を考えていた。「長持ちせえへんよその目」考えても答えは出なかった。


 窓の外に夜が流れていた。東京が近づいていた。


 近づくにつれて空気が重くなる気がした。


 リヴァがぽつりと言った。


「……今までで、いちばんつかれた」


「だろうね」フィンは言った。「面倒な相手だったでしょ」


 リヴァは初めて窓に頭を預けた。


銃撃戦(いつも)の方が楽だ」フィンがつぶやいた。


 新幹線が東京に入っていった。

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