タイム・オブ・フライト
カイが固定器具をナイフで切った。
アルノが、崩れた。
カイが受け止めた。
体重が、軽かった。水分が抜けていた。筋肉の張りがなかった。背中に手を入れた時、肩甲骨の輪郭が、布越しに浮かんで見えた。
湿ったコンクリートの匂いがした。金属と、漂白剤と、古い排水の匂いが混ざっていた。ハロゲンの熱が顔に当たっていた。
「フィン、IVライン」
「確保する」
フィンが医療キットを開いた。手が早かった。
アルノの左腕は針の跡が多すぎて使えなかった。右腕を取った。前腕の血管を探した。脱水で血管が細くなっていた。一度針を入れて、外れた。
アルノの反応がなかった。
「悪い」
もう一度。今度は入った。
ラインを固定した。点滴は車内で開始することにした。動かすとさらに血管に刺せなくなる。
「状態」フィンが言った。
「脱水、脈弱い。血圧低い。薬も残ってる」カイは即答した。「意識は半覚醒。呼吸浅い」
「肩は」
「両側亜脱臼疑い。末梢循環、右が特に悪い」
「動かせるか」
「動かせる」
「了解」
カイはアルノの右腕を肩越しに回した。
腰を落として体を持ち上げる。
アルノの体重が背中に乗った。
左腕で太腿の裏を支えた。
「いくぞ」
「……」
返事はなかった。
カイはそのまま歩き出した。
「……カイ」
「ああ」
「……グレイ」
カイが、止まった。
フィンも顔を上げた。
「グレイか」
「……」
「他には」
「……三、四人。わからない」
「何を聞かれた」
「……組織に来い、と」
「情報は」
「……出してない」
間があった。
「……おそらく」
カイは何も言わなかった。
「リヴァのことは」
また間があった。
「……リヴァの顔を、最後に」アルノが、目を閉じた。「……クソ」
無線が、開いたままだった。
全員が聞いていた。誰も切らなかった。
リヴァが聞いていた。
無線の向こうで、リヴァの呼吸が一瞬、止まったのが、聞こえた。
吸い直す音が、来た。
でも、リヴァは、何も言わなかった。
カイが廊下を歩いた。アルノを抱えたままだった。フィンが前を歩いた。MP5SDを構えていた。
階段を上る時、アルノの体がずり落ちた。
カイが肩を持ち上げ直した。
脱力した腕が胸元で揺れた。
外に出た。
地下から出てきた瞬間だった。
外周に、まだ残党がいた。
藪の中に三人。フィンとカイが上がってくるのを、待ち構えていた。
距離、五十メートル。
『藪、三人』カラムの声が無線に来た。『探知漏れ』
藪が深く、熱源が補足しにくい。
「了解」フィンが言った。
フィンがアルノを抱えたカイの前に出た。MP5SDを構えた。一発、撃った。
左の男が崩れた。
残り二人。
藪の中で、二人が散開した。フィンの射線から、外れた。
『右。撃てる』カラムが言った。
リヴァが先に構えていた。
距離380メートル。風2.4。横流れ補正0.3ミル。
引いた。
右の男が崩れた。
「一人取った」リヴァが言った。
残り一人。
藪の中、最も奥に伏せた。深く伏せた。
カラムからは、見えていた。1700メートル先からだった。
でも、リヴァからは、角度的に届かなかった。
フィンの射線からも、外れていた。
「カラム」フィンが言った。「頼む」
「……」
一瞬、無線が静かになった。
『風、変わった』ユキナガの声が入った。
「……黙って」
全員が息をのんだ。
レティクルをわずかに右へ送った。
地球の自転による偏差0.04ミル。
呼吸を浅く切った。
カラムが、引いた。
無線が沈黙した。
二.五秒、後。
藪の中の男が、崩れた。
完全に動かなくなった。
「……」
無線が、一秒、静かになった。
リヴァが、照準から目を離した。
『……は?』
ユキナガの声だった。
『1700で横風…』
「助かった」フィンが被せた。
「……」
カイがアルノを抱えたまま、また歩き始めた。
車に戻った。
ユキナガが運転席にいた。
カイがアルノを後部座席に寝かせた。
フィンが点滴を繋いだ。生理食塩水。電解質補正。流量を調整した。手が早かった。
「あと任せた」フィンが言った。「無免許組回収して追う」
「ああ」カイが点滴の袋を上に持ち上げた。
アルノの目が、また半分開いていた。
「……」
返事はなかった。
車が走り始めた。
与那国の港まで、十五分。
カイがアルノの隣にいた。
アルノの呼吸を、ずっと見ていた。
「アルノ」
「……」
返事はなかった。
目を閉じていた。
呼吸だけが、規則的に続いていた。
浅かった。
与那国の港に着いた。
アルカ経由でヴィクトルが事前に手配していたヘリが、待っていた。
医療チームのリーダーに、カイが状態を話した。
その時、もう一台の車が来た。
リヴァだった。
狙撃ポジションから、フィンがカラムとリヴァを拾って合流した。AXMCをケースに収めていた。背中に背負っていた。
リヴァがヘリに走った。
「乗る」
「リヴァ、お前は——」
「乗る」リヴァが繰り返した。
ストレッチャーがヘリに運ばれた。
リヴァがヘリに乗り込んだ。
アルノの目が、半分開いていた。
ぼんやりとリヴァの方を見ていた。
焦点が、合いそうで、合わなかった。
眼鏡がなかった。
部屋の輪郭がぼやけていた。
リヴァの輪郭も、ぼやけていた。
でもラベンダーグレーの髪は、ぼやけていても見えた。
アルノが少し止まった。
瞬きをした。
頭の中で、確認しようとした。
リヴァは、ここにいる。実物の、リヴァが。
……本当に?
確認できなかった。
地下の部屋で、最後に見た顔だった。あの時は、頭の中だけだった。今、目の前に、いる。
でも、地下の部屋の光と、今の光が、似ていた。
LEDのスポットライト。
ヘリの室内灯。
どちらも、白かった。
頭の中の経路が、まだ塞がれていた。区別がつかなかった。
「……」
アルノが、目を閉じようとした。
「アルノ」
リヴァが言った。
声が小さかった。でも、聞こえた。
「迎えに来た」
アルノの目が、少し開いた。
「……」
「帰ろ」
返事はなかった。
でも、アルノの焦点が合った。
ヘリがエンジンをかけ始めた。
ローター音だけが、機内を揺らしていた。
那覇に向かって飛んだ。




