推しの距離感バグが、今日も今日とて限界突破している件
「ただいま……」
重たい玄関のドアを開けた瞬間。
ふわりと鰹出汁の優しい香りが鼻先をくすぐった。張りつめていた肩の力が、少しだけほどけていく。
靴を脱いで、リビングのドアを開けた。
そこには、エプロン姿の彼──成瀬 蓮がいた。私の会社の3つ上の先輩。会社での彼は、畏怖と憧れを込めてこう呼ばれている。
──『氷の貴公子』。
営業部の圧倒的エース。容姿端麗、頭脳明晰。誰に対しても完璧に礼儀正しく、けれど決して誰も踏み込ませない、一歩引いた氷の壁を崩さない男。
そんな、全社員が遠巻きに見上げるだけの超高嶺の花が。
「なぎちゃん、おかえり!」
私を見るなり、ぱっと表情を輝かせた。
まるで、大好きな飼い主の帰宅を察知した大型犬のように、見えない尻尾をぶんぶんと振りながら。
「寒かったでしょ? ホットココア淹れたよ。マシュマロものせてみたんだけど……いる?」
そう言って、小首を傾げる。
彫刻のように整った顔立ち。少しだけ首元のボタンが開いたシャツに、エプロンという、ギャップのフルコンボ。
私は、息を呑むことしかできなかった。
いや……。待って。待って待って待って。
(あの『氷の貴公子、成瀬蓮』様が……!? エプロン姿という最強の供給。しかも私のためにマシュマロ入りココアを用意して待ってる世界線って何!? あー、無理無理。尊い。尊いオブザイヤー決定です。同じ空気を吸わせていただける権利のサブスク、今すぐ月額いくらで登録できますか、神様仏様レン様──!!)
私が直立不動で白目を剥きかけていると。レンくんが「あれ?」と心配そうに綺麗な眉を下げた。
「……ん? なぎちゃん、どうしたの? また斎藤部長にいじめられた?」
「あっ。いや。部長の仕事の押し付けはいつものことなんだけど……あはは。なんでもないよ。ココアはあとでもらうね」
「そっか」
そう優しく微笑んだレンくんが、すっと私の顔を覗き込むように近づいてきた。
「今日もお疲れ様」
大きな、温かい手が、私の頭をそっと撫でた。
(いや、近っっ!! 顔が!!距離感バグってる!!)
「……っ、あの」
「ん?」
「あっ……えっと……」
「なぎちゃん?」
レンくんの心配そうな声に押されて私は口を開く。
「……会社で」
「うん?」
「明日、レンくんみたら、今日のこと、思い出しちゃうから……っ」
私はぷいっと顔を背けた。けれど、熱くなった耳まで隠すことはできない。
「そういう不意打ち、だめ。……するなら、ちゃんとっ」
「ちゃんと?」
「……っ、なんでもない! とにかく、急にそういうことするの禁止!!」
すると。す、と彼が耳元に顔を寄せて、悪戯っぽく息を吹きかけるように囁いた。
「そっか。じゃあ……『なぎちゃん、今から頭撫でるね』って予告したら、触らせてくれるんだね?」
「なっ……! レンくん、もうっ……!!」
くすくすとレンくんが笑った。ふっと、頭の上から彼の手が離れていく。
(ああっ!! 勘違いするな私。私だけ特別扱いするわけない。これはきっと、そう。これは円満な同居生活のための福利厚生。恋愛じゃない。福利厚生。特別じゃない。さすがレンくん。家でも仕事ができちゃうパーフェクト人間!!
……っていうか、レンくんなんかめちゃくちゃいい匂いする。柔軟剤? それともこれが『イケメンの概念』の香り!?)
私がイケメンの概念の香りの香水が欲しいと心の中で神様に祈っていると、レンくんがすっと私の重たいビジネスバッグへ手を伸ばした。
「バッグ貸して」
「あっ──」
彼の手がするりとバッグをさらっていく。
「先にお風呂にするよね? お湯、ちょうどいい温度で沸いてるよ」
眩しいくらい綺麗な顔。そんなに見つめられたら動けなくなる。
ふっ、と。
彼の口元が意地悪そうに、けれど甘く歪んだ。
「……なぎちゃん」
さっきまでの『大型犬』の気配が、一瞬で消える。
「されるがままになってるなぎちゃんも可愛いね」
耳たぶをかすめるような低くて甘い、少し掠れた声が鼓膜を震わせる。
「このままお姫様抱っこして、お風呂まで運んであげようか?」
「っひぇっ……!?!?!?!?」
思考回路が弾け飛んだ私を見て、レンくんは満足そうに目を細めた。
「あはは! なぎちゃん、顔真っ赤。かわい〜」
彼は悪戯が成功した子供のように、にこりとさっきまでの無邪気な笑顔に戻る。
「ほら、お風呂冷めちゃったらもったいないよ。早く行ってきな?」
そう言われた私は、もはや言葉にならない悲鳴を心の中で上げながら、脱兎のごとく浴室へと走り出すしかなかった。
(心臓が痛い!! なに今の!! 尊死させる気満々のファンサって違法じゃないの!? 法改正しないとダメなんじゃないの──!?)
* * *
お風呂から上がり、ドライヤーを軽く済ませた。なんとか理性をミリ単位で繋ぎ止めてリビングへ戻る。
けれど。
ソファで待っていたレンくんは、私の姿を見るなり「あーあ」と言わんばかりに眉をひそめた。
「なぎちゃん。ドライヤー、全然できてないよ。まだ毛先が結構濡れてる」
「え? そうかな?」
「まったく。なぎちゃんはこういうところ、本当に大雑把なんだから」
呆れたようにため息をつくレンくん。
でも、その声音はちっとも怒っていなくて、なぜかほんの少しだけ弾んでいるように聞こえた。
レンくんはおもむろに立ち上がると、私の手からドライヤーをすっと奪い取った。
「そこ、座って。僕が乾かしてあげるから」
……ん? 聞き間違いか?
レンくんを推すあまり幻聴が聞こえてきたのか。というかもはやレンくんが目の前にいることすら嘘の可能性すらある。
(いやいやいや。現実だとしても、待って。何その神イベ?? 同居ルート限定の隠しスチルでも回収中ですか!? 誰かこれが現実なのか公式のエイプリルフール企画なのか教えて!!)
「だ、大丈夫! 自分でやるから!」
「ダメ」
即答だった。いつもの穏やかな彼からは想像もつかない、有無を言わせない響き。
「でも……!」
「なぎちゃん」
す、とレンくんが顔を近づけて、悪戯っぽく微笑む。
「今日は……大人しく甘えて?」
──チートだ。
そんな顔で、そんな声で言われたら、私の全反論は一瞬で消えて溶けるに決まっている。
「うぅ……もう、レンくんのばか」
私はソファの上にちょこんと体育座りをして、小さく丸くなった。背後に回るレンくんの気配を感じながら、私は膝を抱えたまま、首だけを後ろに捻って彼を見上げる。
「あんまり近くで見ないでね? お風呂上がりだし、すっぴんだから……恥ずかしい、もん」
「大丈夫。すっぴんもかわいいよ」
彼がドライヤーのスイッチを入れると、ふわっ、と温かい風が私の髪を包み込んだ。
「熱くない?」
耳元から直接脳内に落ちてくるような、低くて優しい声。
「だ、大丈夫……っ」
「よかった」
さらり、と。
彼の長くて綺麗な指先が、私の髪を優しく梳いた。その優しさに、張りつめていた身体から力が抜けた。
「レンくんの手、好きだなぁ……」
「え?」
「あっ!! ち、違うの! 優しくて、安心するって意味で……!」
くすくすとレンくんが笑う。
「僕は、こうしてなぎちゃんの髪を乾かしてる時間が、すごく好きだよ」
「っ──!?」
私の頭の中は、完全に真っ白になった。これ以上、甘やかし爆弾を食らい続けたら、本当に心臓が持たない。
耐えきれなくなった私は、恐る恐る振り返った。上目遣いになるその視線の先に、私の『推し』である彼がいた。
「……ねぇ」
私の緊張が伝わったのか、レンくんはドライヤーを止め、不思議そうに小首を傾げた。
「ん? どうしたの?」
「どうして……そんなにレンくんは、優しくしてくれるの?」
ただの同居人に向けていい温度じゃない。
もしこれが、優しい彼が誰にでも見せるただの『親切』なのだとしたら、早くこの甘い夢から覚めたい。
これ以上、夢から目覚めたくなくなる前に──。
すがるような私の問いかけに、リビングへ少しだけ沈黙が落ちる。
しばらくして、彼は私の髪をそっと整えると、甘く、けれどどこか切なげに小さく笑った。
「優しくしたいから」
「……え?」
「なぎちゃんだから、だよ」
その一言だけ。
まるで当たり前のことを話すみたいに。
「誰にでも、こんなことしないよ」
胸が、どくん、と鳴った。
「だから……もう少しだけ、こうして甘やかさせてくれる?」
「……っ、……ずるいっ」
ずるい。そんなの、ずるすぎる。
もう一度ドライヤーのスイッチが入る。ゴーッという温風が響いた。
その風の音に紛れ込ませるように。
私は、部屋着の裾をぎゅっと握りしめて、ぽつりと零した。
「レンくんのせいで、私……本当に勘違いしちゃうよ……?」
消え入りそうな声で、けれど精一杯の勇気を振り絞って。ドライヤーの音に紛れて聞こえなかったかもしれない。でも、それで良かったと思う。
(勘違いしちゃだめ。会社では誰も寄せつけない『氷の貴公子』。そんなレンくんが、私だけ特別扱いするなんて。
……あるわけない。私はただ、一緒に暮らしてる後輩。それだけ。でも、それでも。そんな優しいレンくんが、やっぱり好き)
温かな風が髪を揺らす。
指先が優しい。心地いい。
この時間が、ずっと続けばいいのに。
一方で。
(危ない。本当に危なかった……!)
背後に立つ僕は、今まさに人生最大の危機と戦っていた。
(何その、殺人的に可愛いセリフ……!)
今すぐ後ろから抱き締めて、「僕の特別はなぎちゃんだけだ」と何度でも伝えたい。
けれど、そんな資格は僕にはない。
僕がなぎちゃんの隣の部署へ異動してきた頃──なぎちゃんは斎藤部長に次々と仕事を押しつけられ、もう限界まで疲れ切っていた。
それなのに、休めと言っても。
『私、まだ頑張れます!』
そう言って、今にも倒れそうな顔で笑うから。放っておけなかった僕は、彼女に二つの選択肢を突きつけた。
『休職するか、僕と暮らすか。どちらか選んで』
今思えば、あれは提案なんかじゃなかった。
なぎちゃんが僕と暮らしたくて、この家に来たわけじゃない。僕が、選ばせただけだ。
(そんな彼女の優しさまで、自分への好意だと思うなんて……ずるい)
耳まで真っ赤にして、大人しくされるがままになっている彼女を見つめるだけで、僕の理性のブレーキは悲鳴を上げていた。
(だからせめて彼女が安心して眠れて、笑って、明日は今日より少しだけ楽に過ごせるように。そのくらいは、僕にさせてほしい)
「はい、終わり」
カチリ、と手元でドライヤーのスイッチを切った。
「ありがとう。っ、あのっ……あのね、レンくん」
なぎちゃんは、自分の太ももの上で指先をいじいじとさせながら、顔を見せないまま、小さく呟いた。
「髪、乾かしてもらうの、すごく気持ちよくて……。また甘えたくなっちゃうなっ……っ、あ、ちがっ……!! なんでもない! 今のは忘れて!」
なぎちゃんはぶんぶんと激しく首を振って、耳の先まで真っ赤に染め上げている。
……え? 今、なんて?
静まり返ったリビングで、僕の思考は完全にフリーズした。
僕は耳まで真っ赤にして縮こまっているなぎちゃんを後ろから見つめた。名残惜しさを感じながらも、彼女のさらさらになった髪を最後にそっとひと撫でした。
「ねぇ」
我慢できずに、少しだけ声を低くして、彼女の後ろから囁きかけた。
「はっ、はい……」
なぎちゃんがゆっくりと、熱を帯びた潤んだ瞳でこちらを振り返る。
「ちゃんと、おねだりして?」
「え?」
僕はさらに、彼女との距離をゼロにするように体を寄せた。
「『レンくん、また甘やかしてください』……って、ちゃんと言ってくれたら、いいよ?」
「ひっ……あぅ……」
上目遣いで、困ったように眉を下げて、小さな声を漏らす。その無防備すぎる表情に、僕の理性の細い糸が千切れる音がした。
(あーー。かわいい本当にかわいい。このまま抱きしめて……いやでも、ダメだ。まだ早い。紳士であれ、自分。一歩ずつ、確実に外堀を埋めるんだ……!)
顔を真っ赤にして縮こまっている彼女を見つめながら、僕はわざと悪戯っぽく微笑んで見せた。
「なぎちゃん。……お返事は?」
さらに声を甘く、低くして、逃げ道を塞ぐように問いかける。
「うっ……そのっ」
「うん」
「えっと……あっ。あのっ……」
黙り込んでしまう彼女をじっと見つめると、観念したのかなぎちゃんは上目遣いでみつめてくる。
「また、いっぱい……甘やかして、ください。レンくん」
かすれた消え入りそうな声。けれど、今度ははっきりと。
(いっぱいって……可愛すぎるだろ)
珍しく素直に、僕におねだりするように答えてくれた。それだけで、胸の奥から愛おしさが濁流のように溢れ出して止まらなくなる。
なぎちゃんは、ふと我に返ったのか、顔から火が出そうなほど赤くなって、ソファに置いてあったクッションへダイブするように思い切り顔を埋めてしまった。
「あ〜っ! もうっ、レンくんのばかっ。いじわるっ!!」
クッションに突っ伏して、短い足をバタバタさせて悶絶している、僕の大切な同居人。
そんな彼女には絶対に気づかれないように、僕は背後で小さくガッツポーズをした。
(よしっっ!! 合法的な甘やかし許可証、完全獲得!! 明日はなに作ろうかな。朝食はバターたっぷりのフレンチトースト。お昼には唐揚げ。夜はなぎちゃんの大好物のハンバーグ。なぎちゃんの喜ぶ顔が見たいなぁ。
あ、それとついでに。なぎちゃんに残業を押し付けた斎藤部長は、明日出社したらデスクが書類の山で埋もれてるように裏工作……おっと、社内調整して地獄を見せてやる。僕のなぎちゃんを疲れさせた罪は重い……!)
かくして、今日もまた。
推しの過剰ファンサに命を削られる限界オタク女子と、好きすぎる相手を合法的に甘やかしたくてたまらない氷の貴公子は。
自分が相手を好きなことだけは、二人とも嫌というほどわかっている。それなのに、相手から向けられる好意だけは、揃って都合よく見誤ったまま。
世界で一番甘くて、世界一じれったい同居生活を紡いでいくのだった。




