第一話 世界を滅ぼせ、と言われても
「――なんなら、世界を滅ぼしてくれて構わんのじゃ」
黒ずくめの管理者は、とんでもないことを、世間話みたいに言ってのけた。
世界を、滅ぼせ。
そう言って、くつくつと喉の奥で笑う。
無限の魔力。二度と会えない家族。いきなり背負わされたものは、どれも重い。普通なら泣くか、喚くか、その場で悟りでも開くところだろう。
だが正直に白状すると、この壮大な不条理を前にして俺が真っ先に考えていたのは、もっとずっと、しょうもないことだった。
――この力で、どうやって一番ラクをして生きてやろうか。
弁解させてほしい。俺は悪くない。悪いのは全部、この状況だ。
時間を、ほんの少し巻き戻そう。
* * *
気づけば、宇宙空間のような場所に放り出されていた。
最初に感じたのは、静けさだった。耳鳴りすら聞こえそうな、完全な無音。次に、温度のなさ。暑くも寒くもない、というより「気温」という概念そのものが欠席している。そして最後に、視界いっぱいの漆黒と――星。
いや、星というのは正確じゃない。上も下も曖昧な闇の中に、地球によく似た青い星が、数えきれないほど浮かんでいた。それも、どれもが寸分違わぬ大きさで、定規で引いたように整然と、等間隔に。
……まるで、画像のサムネイル一覧だな。
現実の宇宙は、こんなに行儀よくない。星はもっと無造作に散らばっているものだし、そもそも青い地球がワゴンセールみたいに並んでいる時点でおかしい。つまりここは、現実によく似た、現実じゃない何かだ。
つい数秒前まで、俺は家族と近所のファミレスで飯を食っていたはずだ。なのに、ここにいる理由がまるで思い当たらない。
夢か? 試しに右手を強く握ってみる。爪が掌に食い込む、鈍い痛み。呼吸をすれば、わずかな空気の味。思考は、むしろ普段よりクリアなくらいだ。夢というのは大抵、細部が甘い。これは細部がしっかりしすぎている。残念ながら、夢ではないらしい。
となると、答えの候補は絞られる。何かのはずみで突然死んで、ここが世にいうあの世――と考えるのが一番しっくりくる。
現に、心臓と肺の奥に、鈍い痛みがわだかまっていた。思わず胸に手を当て、ゆっくり息を吸ってみる。痛みは、呼吸のたびに肺の内側をちくりと引っかいてくる。緊張のせいか? いや、心は不思議と落ち着いている。持病なんてなかったはずだが、まさか心筋梗塞でも起こしたのか。健康だけが取り柄だったのに、最後の最後で裏切られた気分だ。
……おかしいな。自分の死因を推理しているのに、涙の一つも出てこない。俺が薄情なのか、状況が非常識すぎて感情の処理が追いついていないのか。後者だと思いたい。
考えても答えは出ない。死んだものと仮定して、ともかく状況確認といこう。こういう時、深刻ぶって立ち尽くしても事態は一ミリも進まない。長い社会人生活で学んだ、数少ない実用的な教訓だ。
足元に目を落とす。地面――と呼んでいいのかも怪しい平面に、半透明の枠線が淡く光りながらどこまでも走っていた。等間隔のマス目。3Dモデルを組むときの、何も置かれていない初期画面にそっくりだ。試しに爪先で踏んでみるが、硬さも柔らかさもない。ただ「立っていられる」という結果だけがある。物理法則が仕事をサボって、結論だけ置いていったような足場だ。
そして、胡散臭い惑星の群れを除けば、この広大な空間には――たった一つを残して、何もなかった。
見なかったふりは、このへんにしておこう。現実と向き合う時間だ。
何もない空間に、ぽつんと一人、人影が立っていた。
距離は、たぶん二十メートルほど。大柄な体つきに、フルフェイスのヘルメットを思わせる、のっぺりとした頭部。そこまでなら「変な奴がいる」で済む。問題は、その全身だ。光を一切返さない、深い深い闇。服の皺も、肌の質感もない。輪郭だけが空間から切り抜かれたように、ただ真っ黒。影がそのまま立ち上がって歩き出した、とでも言えばいいのか。
じっと見ていると、遠近感が狂ってくる。あれは二十メートル先の大男なのか、五メートル先の普通サイズなのか、それとももっと遠くのクソでかい何かなのか。目が、測ることを拒否している。
……真っ黒な人物。その時点でもう意味がわからない。
候補を挙げよう。一、神様。二、閻魔様。三、死後の試練とやらで戦わされる相手。四、その他のヤバい何か。
どれにしても、初手を外したら命がいくつあっても足りなそうだ。神様なら質問回数に制限があるかもしれない。閻魔様なら好感度が判決に響くかもしれない。試練なら、話しかけた瞬間にゴングが鳴るかもしれない。
……ダメだ。さんざん考えた結論が「とりあえず様子を見ながら話しかける」では、何も考えなかった場合と一ミリも変わらない。無駄に頭が回るくせに、肝心なところで役に立たない。俺の脳は昔からそうだ。
俺が踏ん切りをつけられずにいると、向こうから声をかけてきた。
「聞こえているか?」
声は、思ったより近くで聞こえた。空気を震わせているというより、頭の内側に直接置かれるような声。低く、落ち着いていて、わずかに機械じみている。それでいて、どこか年寄りくさい響きがあった。日本語が通じるのはありがたい。
敵意は――感じない。少なくとも、ゴングは鳴らなかった。
「はい、聞こえています」
練りに練った質問リストはいったん引っ込めて、模範解答で返す。相手が神様なら、どうせ心の声まで筒抜けだろうしな。せめて口先だけでも礼儀正しくしておく。
「うむ。よく来てくれた。まずは、其方がここにおる理由を話そう。会話をしながら進めようかの」
「はい、お願いします」
其方、ときた。時代劇で聞くような喋り方だ。フルフェイスの中身は、やはり爺さんらしい。いきなり斬りかかってくる気配はないし、口調はむしろ、これから講義でも始めそうな穏やかさだ。ひとまず、候補の三番――即バトル――は消えたと思っていいだろう。最悪の事態は回避できたようだ。
「其方をここへ呼んだのはワシじゃ。其方には、別な世界へ移ってもらいたいのでな」
――出た。
アニメで散々見たやつ。書店で平積みされてるやつ。異世界転生のテンプレートだ。
まさか自分の身に降りかかるとは思わなかったが、驚きより先に、変な納得があった。ああ、この胡散臭い空間、そういう施設だったのか、と。
なぜ俺なのか。どんな世界なのか。聞きたいことは山ほどある。だが、その前に確認すべきことがある。優先順位を間違えるな。
「先に確認させてください。断って元の生活に戻ることは可能でしょうか。家族がいるので、みんなを置いて異世界へ、というのはちょっと」
「それは不可能じゃ。順を追って説明しよう。其方が暮らしておった地球は、この惑星よ」
管理者――と後に名乗る黒い爺さんが、気だるげに片手を持ち上げた。
それに応えるように、空に浮かぶ惑星の一つがぐっとせり出してくる。視界が勝手に切り替わり、宇宙ステーションから見下ろしたような映像になった。見慣れた大陸の形。日本列島も、ちゃんとある。やはりサムネイルだったか。
指先ひとつで世界を手繰り寄せる、その無造作な仕草。こんな状況だというのに、思わず感心してしまった。偉い人ほど、すごいことを雑にやる。ハンコ一つで大金が動くのと同じ理屈だ。スケールは大分違うが。
「地球は仮想現実世界であり、其方という人物をデータコピーした形で、ここに呼んでおる。地球では本物の其方が家族と変わらぬ日常を過ごしておるゆえ、家族の心配はいらぬ。そして其方はコピー体ゆえ、元には戻れぬ。世界移動を断るのであれば、その存在を削除する以外に道はない」
情報量が多い。多すぎる。一つずつ処理しよう。
一、地球は仮想現実だった。……これは、正直それほど衝撃がない。さっきから足元のマス目やらサムネイル惑星やらを見せられていれば、嫌でも察しはつく。
二、俺はコピーだった。本物は今もファミレスで飯を食っている。……これも、まあいい。むしろ朗報ですらある。家族は誰も悲しまない。葬式もない。何も欠けない。
三、断ったら削除。
……三が重い。三だけ明らかに重い。
最悪だ。さっき「最悪は回避した」と思った俺を、ここへ呼んでこい。
削除、という物騒な単語に、喉がひとりでにこくりと鳴った。ごみ箱に放り込んで、右クリックして、完全に消去。俺というデータは、たぶんそのくらいの手軽さで消える。
とはいえ――自分がコピーだという実感がまるでないせいか、不思議と悲壮感は湧いてこなかった。家族にはもう会えない。頭ではわかっているのに、どこか他人事だ。本物の俺が今も家族と笑っているなら、コピーの俺がここで湿っぽくなるのは、なんというか、悲しみの二重取りな気がする。
まあ、心筋梗塞でぽっくり逝って家族に迷惑をかけるよりはマシ、と思っておこう。重く受け止めたら負けな気がする。
「……整理はつきませんが、続きをお願いします。なぜ、俺なんですか」
「うむ。人は生まれ持って、ステータスがランダムに振られる。むろん両親に依存して振り幅の差はあるがの。そしてごく稀に、ステータスが上限値を超えて割り振られることがある。その場合は上限値に切り捨てられる。ゆえに、上限を超える人間は存在せぬ。――其方を除いて、な」
妙な間を置いて、黒い指がこちらを差した。芝居がかった仕草だが、指の先にいるのは、どこからどう見てもただの一般人だ。
まるで身に覚えがない。至って平凡な人生だった。学年で十番以内に入ったこともなければ、県大会に出たこともない。人より多少マシな点くらいあるだろうが、上を見れば俺より優れた人間など掃いて捨てるほどいる。気づくことすらできない隠れた才能なんて、宝の持ち腐れもいいところだ。
「全く見当もつきません」
「それもそのはず。其方が切り捨てられなかった能力は、魔力よ。其方の世界に魔力は存在せぬため、切り捨ての判定に漏れが生じたらしい。原因は不明――システムのバグやもしれぬ。ともかく其方の魔力値には、ほぼ無限に等しい数字が割り振られておる。其方のような存在を、ワシは長らく探しておった」
なるほど、と柄にもなく感心した。
バグで異常値を踏んだ。だが、その項目は地球では誰も参照しない。だから本人も気づかず、世界にも影響もなかった。ゲームで、使われていない変数にゴミが入っていても誰も気づかない、あれと同じだ。つまり俺は生まれてこのかた、カンストを振り切ったステータスを、一度も開かれないウィンドウの中で飼っていたわけだ。
……待てよ。
魔力、という単語に反応するように、また胸の奥がちくりと疼いた。心臓と肺の、この鈍い痛み。まさか、無限の魔力とやらが原因か? ガワは平凡な人間のままで、中身だけ規格外なわけで――いや、これは今は後回しだ。話を進めよう。
「神様ならステータスを直接いじれそうなものですが、なぜわざわざコピーを呼ぶ形を? 俺が地球に悪さをするなら、コピーを連れてきても解決しない気がしますが」
「ワシは神などではない。数多の世界を監視し、異常があれば是正する管理者じゃ。ゆえにできることは限られておる。本来なら、其方を見つけた時点で削除して終わり――の案件よ。だが其方のような存在は、今後何億年経とうと二度と現れぬ。この機会を逃したくなくての」
フルフェイスなので表情は読めない。それでも、声の調子にはどこか余裕が滲んでいた。
要するに、本来なら問答無用で削除されていたところを、この管理者の個人的な興味で拾われたわけだ。だとすれば、恩人と呼んでいい。言っていることが全部本当なら、の話だが。
それにしても、何億年、という単位を平然と口にするあたり、この爺さんの生きている時間の桁は俺と根本的に違うらしい。その永い時間の中で「逃したくない」と思わせる何かが、俺のバグにはある。
……嫌な予感がしてきた。長生きした偉い人の「面白いことを思いついた」は、大抵ろくなことにならない。歴史の教科書がだいたいそう言っている。
「で、俺に何をしろと? 無限の魔力とやらで、どこかの世界を救えとかですか」
アニメよろしく魔王と戦う展開になったら、無限の魔力で何とかなるのか。というか、どちらかといえば無限の財力をもらって毎日寝て暮らしたい。
「クックック。意気込みはありがたい。が、むしろ逆じゃ。何もせんでよい。なんなら、世界を滅ぼしてくれて構わんのじゃ」
……。
…………。
今、さらっととんでもないことを言わなかったか。
世界を救え、の聞き間違いか? いや、確かに「滅ぼして構わん」と言った。俺の耳は、こんな大事な場面で仕事を放棄するほど無能じゃない。
だが管理者は、ほんの少し首をかしげてみせただけだった。散歩の行き先でも決めるみたいな、気負いのなさで。この空間には音がないから、沈黙が本当に、完全に、無音のまま横たわる。その静けさが、やけに長く感じられた。
「それは何の得が? そもそも世界を滅ぼしたら、俺も巻き添えで滅ぶのでは」
驚きのあまり、考えるより先に口が動いた。我ながら、第一声が「得」なあたり、器の小ささがよくわかる。
表情は相変わらず読めない。だが真っ黒な巨体は、いつのまにか片脚に重心を預け、ありもしない壁に寄りかかるような気安い立ち方になっていた。この管理者、絶対に会話を楽しんでいる。勘だが、たぶん当たっている。
「ワシのおるこの世界も、おそらくは仮想現実世界じゃ。自由に生きる其方たちとは違い、決められた役割を違和感なく演じ続ける――そういう制約があると、ワシは睨んでおる。一種の呪いのようなものでな」
仮想世界の管理者が、自分のいる世界もまた仮想だと疑っている。
話のスケールが、急に一段跳ね上がった。サムネイルの惑星たちを管理するこの空間すら、誰かのサムネイルの一つかもしれない。この世界はマトリョーシカの中ほどの一体、とでも考えれば、かろうじて飲み込める気がする。
「上位世界の連中が何を求めておるかは分からぬ。だが、ワシはそれを邪魔したくての。其方という異常値を使い、この世界に変化を起こしたい。上位から見ればそよ風にも及ばぬ事象であろう。だが、いずれ大きな竜巻に育ち、何もかもを台無しにしてやれたら――愉快ではないか」
物騒な物言いだが、声色はどこまでも軽い。話しながら、黒い手がひらりと宙を撫でる。そよ風から竜巻へ、とでも言いたげな、芝居がかった手つきだ。
要するにこの爺さんは、途方もなく長い間、同じ職場で同じ業務を続けさせられている中間管理職で、上に一泡吹かせるチャンスをずっと窺っていたわけだ。そのための爆弾として、俺に白羽の矢が立った。
……動機が、思ったより人間くさい。性格、わりと俺と気が合うかもしれない。
「もちろん、世界を滅ぼしたとて其方は次の世界へ送ってやる。逆に、移転先が気に入ったなら、ずっとそこで暮らしても構わん。――選択は、すべて其方にある」
選択は、すべて其方にある。
いい言葉だ。今日聞いた中で一番いい。
つまり、だ。世界を救う義務はない。魔王と戦う契約もない。ノルマも、納期も、上司もいない。好き勝手に自由を満喫できる異世界転移――に聞こえる。
だが、浮かれるのはまだ早い。冷静に考えろ。いくら世界を滅ぼせる力があろうと、着いた先が「トイレは森、風呂は川、飯は硬いパン」だったら話にならない。俺は知っている。人間の幸福度は、壮大な冒険よりも、水回りと寝具と飯で決まる。数ヶ月でやりたいことをやり尽くし、あとは地獄のような退屈と不便が待っている、なんてのはご免だ。
管理者は、俺という変数を放り込んで変化を期待している。つまり向こうには、俺に気持ちよく行ってもらう理由がある。ならば――俺が快適に暮らすための要求も、ある程度は通るんじゃないか。問題は、この爺さんがどこまでの権限を持っているかだ。
これまでの人生、値引き交渉くらいしかしてこなかった俺の、おそらく最初で最後の大勝負。
さあ、ここからの交渉で俺の今後の人生が決まる。妥協は、許されない。
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