第1話 理不尽
第二次世界大戦から80年以上が過ぎ、平和が続く日本。岐阜県高山市の山奥に、一人の少年がいた。
「見つけた」
大狼糸成は、深く息を吸うと胸を張る。意識を集中させ緋色に輝く右眼で狙いを定め、矢を射る。矢が当たると、すかさず雪のような白毛に鋭い爪と牙を持つ超大型猟犬“琥珀”が、獲物の喉元へ噛みつく。
「やった! 立派な雄鹿だよ、父さん!」
「あぁ、今日は紅葉鍋だな。糸成、よくやった」
父、大狼転哉が笑顔で糸成の頭をワシャワシャと激しく撫でる。糸成は、この荒っぽいが優しく温かい父の手が大好きだ。
「さっさと血抜きをして、母さんと狼希に見せてやろう」
「うん! 琥珀、今日もありがとね」
糸成が声を掛けると、琥珀はツンとしてそっぽを向く。琥珀と糸成は幼い頃からの付き合いだが、家族の中で糸成だけには懐いていなかった。
糸成の家は、高山市の山奥にある。家の隣には小さな“鬼門神社”があり、転哉と母の結衣はそこの神主だ。半自給自足生活の中で、糸成の仕事は狩である。10歳から狩を始めて5年が経ち、最近では安定して獲物が取れるようになり、大狼家の食卓を潤している。
血抜きを終えて家へ帰ると、来客がいた。
「おじさん!」
シワの付いたワイシャツを着て、無精髭を生やしボサボサの髪型をした男。名は服部雷蔵。彼は転哉と結衣の古い友人で、糸成が小さい頃からよく遊んでもらっている親戚のような存在だ。
「お〜糸成、今日は大物が獲れたなぁ。お土産、持って来たぞ〜」
「本当⁈ いつもありがと! 今日は、何処のお土産なの?」
糸成は、雷蔵の持つ紙袋に目を輝かせる。そして、雷蔵は少し焦らして紙袋から箱を取り出し、糸成へ見せた。
「今日はなぁ、北海道のバターサンドだ!」
「マジ⁉ おい狼希! 今日は紅葉鍋とバターサンドだぞ!」
玄関へと向かいながら、糸成が高揚した声で家の中へ叫ぶ。
「兄ちゃんマジで⁈ やったー!」
家の中からは糸成の2歳下の弟、狼希の元気な声が返ってくる。村から出たことのない糸成と狼希にとって、雷蔵の持って来るお土産はまるで別世界のものであった。糸成は、こんな日常がいつまでも続いていくと思っていた。いつまでも。
しかし、その日は突然訪れる。いつもどおり、糸成と転哉が琥珀を連れて獲物を狩り、手際よく血抜きを終えて帰り道。突然、爆発音が聞こえてきた。
「家のほうからだ!」
そう言って家へ向かって走り出そうとする糸成の腕を掴み、転哉が止めた。
「いいか? 糸成、よく聴け。向こうでは何が起きているかわからない。だから、お前はこのままここで隠れていなさい。父さんが、様子を見て来る」
普段、笑顔を絶やさない転哉の初めて見せた鬼気迫る表情に、糸成は不安を覚える。
「わ、わかった」
「大丈夫だ。・・・・琥珀、行くぞ」
糸成の目を見つめ優しく頭に手を置いた後、転哉と琥珀は普通の人間では到底出すことの出来ない速度で、家の方角へと駆けて行った。
最初の爆発音から、10分程経った頃。同じ様な爆発音が、何度も聞こえてくる。糸成は心配になり、転哉の言いつけを破って家へと向かった。木々の向こうから、転哉の驚きと悲しみの混じった声が聞こえてくる。
「生きていたのか⁉︎ 何故こんなことを!」
家に着いた糸成は、その光景に目を疑った。燃える家と神社、胴が2つに別れている結衣。片腕を無くし血まみれの転哉と、顔に3本の爪痕の様な切り傷のある知らない男が対峙していた。
「父さん! 母さん!」
転哉が、森を抜けて来た糸成に気付く。
「糸成⁉︎ 早く逃げなさい!」
転哉の気が一瞬逸れたのを、傷の男は見逃さなかった。傷の男が、腕を素早く振った瞬間。転哉は左鎖骨から右脇腹にかけて斜めに血しぶきを出し、倒れる。糸成は、唯それを見ていることしか出来なかった。糸成が、転哉に駆け寄る。
「父さん!・・・・父さん!」
「糸成・・・・狼希と一緒に逃げなさい。まだ、近くにいるはずだ。狼希を、頼んだ・・・・ぞ・・・・」
そう言い残すと、転哉は事切れた。
その頃、傷の男は神社の御神体に向かって、何かを唱えていた。唱え終わると、その男は「次だ」と一言だけ口にして、音も無く消えるように姿を消す。すると、御神体がカタカタと震え始める。初めて見る光景に、糸成は動揺した。
「な、なんだあれは・・・・」
御神体があった場所に、光の鳥居が出来ている。すると、地響きを立たせて巨大な影が鳥居を潜る。5メートルはあろう巨体、赤い肌、額に生えた2本の鋭い角。産まれて初めて目にする糸成でも、それが何と呼ばれるか分かった。
「お・・・・鬼だ・・・・」
その禍々しい姿と深く暗い瞳に、糸成は戦慄する。狩で幾度となく自然の摂理を見てきた糸成は、途端に理解していた。その瞳は、捕食者のものであることを。
「父さん! 早く逃げなきゃ! 早く!」
既に息絶え、目から光を失った転哉の腕を、涙を流し震えた声で呼びかけながら、糸成は必死に引っ張る。そして、鬼が糸成に手を伸ばしたときだった。鬼の、森の木々を揺らす程の雄叫びと共に、鬼の人の胴程はあろう太い腕が落ちる。
「お、おじさん!」
糸成の前には、日本刀を握った雷蔵が立っていた。
『紫電一閃』
雷蔵は、たちまち鬼の首を刎ねる。
「おじさん! 父さんと母さんが!」
徐々に冷たくなっていく転哉を抱き抱え、泣きながら糸成が雷蔵を呼ぶ。
「遅れてしまってすまない。転哉、結衣、よく糸成を守った。こいつのことは任せろ。・・・・ゆっくり眠れ」
雷蔵は落ち着きの中に悔しさを滲ませながら声を掛け、転哉の瞼を手のひらで優しく閉じた。その姿を見て糸成は大声で泣き叫んだ後、父と母の死を受け入れられず彼の脳は思考を停止し、気を失った。




