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#21

 コンコン、と短いノックが鳴り、返事をする前に女団長が入室してきた。

 ウィリアムは人の気配が消えたところで覚醒し、ビジネスホテルだと思えばそこそこの客室だな、などと自身に宛がわれた部屋について考えていたところだ。


「失礼する、ウィリアム殿」


「トニーとは話したか?」


「あぁ、今しがた伝えてきた。我々は向かいの部屋にいるので、何者かが接触してきた際、身に危険が及んだら大声で呼んでほしいとな。貴殿も同様だ。二人に対して睡眠薬を用い、それぞれ別の部屋まで準備していたのであれば、その人物は貴殿にも接触してくる可能性がある」


 ウィリアムとしてはその可能性は五分五分だと思っている。あくまで自分はトニーの付き添いだ。

 責任者は兄である。彼に訊きたいことが聞けなかった場合に、自分にお鉢が回ってくる程度の認識でいる。


「分かっているだろうから先に伝えておくが、夜中だったり、かなり待たされることになると思うぞ。寝ずの番でもしてくれるのか、あのイワンが?」


「そこは私の仕事になりそうだな。彼にも仕事がある、個人的には裏で糸を引いているのが誰なのか知りたがっているようだが」


「是非、今日くらいはオフにしてこっちに付き合うように説得してくれ」


 これは何も、ウィリアムが我が身可愛さに言っているわけではない。

 女団長が向かいの部屋で一人きりになる時間があれば、そちらも眠らされてしまうのではという危機感からだ。


「そうしよう。せめて護衛のあの男だけでも引き留めてみせるよ」


「それならだいぶ現実的だな。だが、イワンもだ。頼んだぞ」


「あぁ、それではまたな」


 女団長が退室し、長い長い戦いが始まる。


 この部屋に入れられた時点で、もう寝ている必要はないはずではあるが、ふと思う。仮に、さっさと睡眠薬の効果が切れて目覚め、バレンティノ兄弟が逃げ出した場合は?


 そう考えると夜中というのはないかもしれないな、とウィリアムの心の内に僅かな希望が宿った。

 とはいえ、十分、二十分で来客があるわけでもないだろう。


 まずは部屋の窓を開け、冷たい雪混じりの空気を部屋に取り入れた。

 一気に室温が下がる。暖炉もない部屋だが、窓も壁も、断熱機能が素晴らしいのが分かる。


「窓も凍っておらず、しっかり開閉する。見事な作りだな」


 この確認に、大した意味はない。ただの暇つぶしだ。

 すっかり寒くなってしまったので、窓を閉める。


 そして、それが終わると同時だった。

 今しがた女団長が閉めたはずの扉が再度開いたのは。


「ほう……俺からなのか。意外や意外ってところだな」


 窓の方を見ていたウィリアムが扉へと振り返る。


 立っていたのは老年の女性。先ほどのメイドも年寄りだったが、今目の前にいる女はそれをあまり感じさせないほど肌艶も良く、落ち着いた漆黒のドレスを纏っている。王族か貴族の淑女なのは間違いあるまい。

 非常に美しいが、老齢だと一目で分かるのは、頭髪が真っ白だからだ。


 その女は顔に驚きの表情を張り付けていた。

 話すつもりだったトニーの部屋と間違えたのか、ウィリアムがすでに起きてピンピンしていたからか、そのどちらかは分からない。


「どうぞ、レディ。おかけになってください。話相手であれば喜んで」


「あ、えぇ。ありがとう」


 名乗る暇さえ与えず、間髪入れずに席を勧める。


 こんなに早く来てくれたのだ。さっさと戻りたいウィリアムにとってこれは好都合。それも、相手が下手を打てば破談にしてしまいかねないような兄とは違い、自身はもう少し冷静に話ができると自負している。

 先に自分の方に顔を出してくれたのであれば、もうここで決着としてやりたい。


「それで、我らを眠らせようとしたのは貴女で間違いないでしょうか」


「……眠らせようと?それは存じ上げませんが、話をしてみたいと願っていたのは私です」


 なるほど。手段は問わず、バレンティノ兄弟と話の場を設ける指示だけ出していたと。抵抗されると考えたのか、睡眠薬は部下の発案だろう。

 悲しいかな、こちらも飛んだ狭量だと思われたものだ。


「自己紹介が遅れました。ウィリアム・バレンティノです。伯爵の位を賜っております」


「まぁ、その若さで伯の地位ですか。私は……申し訳ありませんが名乗れないの。あくまでもお忍びですから」


 そう言われると気になる。まさか、皇后か、皇女だろうか。お忍びというだけあって、シックな装いではあるが。


「ところで、やはり無視はできませんわ。眠らせようとしたというのは?」


「イワン殿との会談中に出されたティーカップに眠り薬が塗られていました。そして我々は気づけばこの部屋に、というわけです」


「なんですって!誰がそんな手荒な真似をせよと指示したかしら!強く注意しておきます!」


 本心か、演技か、ウィリアムにも見抜けない。かなりの人物のようだ。


「では、貴女自身は手荒な真似はするつもりはなかった、と」


「えぇ。信じられないかもしれませんが。私はただ、あなた方と話す機会を与えてほしかっただけ。公にはできないのでこういう形でね」


 やはり皇族の可能性が高くなった。そしてその立場が行動の邪魔をしていると。護衛もつけずによくも魔族と会えたものだ。


「では御用件を窺いましょう、皇后陛下」


 イチかバチかではあるが、年齢からして皇女よりは皇后の方が可能性が高いだろと敬称をつけてみた。


「……誰の事を言っているのかわかりませんが、良いでしょう。我が君、ロシア皇帝陛下は、一日も早い戦闘の決着を望んでいます」


「それは我らも同じです」


「あなた方と手を結ぶのも吝かではないと。しかし、周りがそれを許しません」


「陛下が前向きなのは驚きですね。ただ、周りの連中がそれを許さないことも悪気があるわけではないでしょう」


「えぇ。それが問題なの。陛下も強く言えないとお困りのご様子」


 ここまで皇帝が顔を見せないのもそいつらが引き留めているせいか。

 こちらを信用するよう、トニーが様々な手を打ってきたが、なかなかに周りが強情だ。


「しかしそれでこちらと貴女が話してどうなるのですか?」


「陛下のお耳にあなた方の事をお伝えするくらいですわ。でも聞いていた通り。魔族と言えども、まるで人間ですね。こうして話だってしっかりと受け答え出来る。あら、差別的だと思われたらごめんなさいね」


 どうせ冗談だと取られるので「そりゃ俺も人間ですからね」とも返せず、ウィリアムは無言で頷く。


「どうにか重臣たちを説得できる手段があればいいのですけれどもねぇ」


「そうですね。皇帝陛下に直接お伝えいただけることはありがたい。我らも魔族と見なされ、同じ穴の狢と思われているのでしょうが、侵略の意図はありません。今までに解放してきた街の状況を見ていただければと」


「もちろんです。何もお返しは出来ませんが、街を救っていただいたことは感謝しています。ただ、それでも彼らは首を縦には振りませんでした」


 正直、これ以上できることはない。賄賂でも送るか、家族を人質にでも取るか。どんな手を使っても良いのであれば使うところだが。


 それよりも、目の前の女性はそんな手で協力を得られたと知れば、手放しで喜べないだろう。臣下が裏切った、ということになるのだから。


「……」


 ウィリアムも喉の先まで出かかっていたその言葉を飲み込む。


「しかし、兄ではなく何故、俺からお話を?我らの部隊はほとんど彼の采配で動いているのですが」


「どちらからでも良かったのです。単に、最初に入った部屋に伯がおられただけで」


 入室時の驚いた顔が思い出されるも、やはり真意は不明だ。


「では一つアドバイスを。皇帝陛下が協力に乗り気なのだとするならば、兄はさっさと会おうとするでしょう。陛下を出せと言ったり、反対意見を持つ家臣を疾く粛正せよと言うかもしれません」


「そ、それは……そんなに苛烈な御仁なのですね」


「協力が得られないせいで、こちらの兵も損耗しますからね。少ない犠牲で素早い結果を得られるなら当然かと。なので、血を見たくなければ陛下にお運びいただく方がよいかと思いますね」


 脅迫にも似た言葉だが、優しさでもある。この女性がウィリアムの部屋を出たあと、どう行動するのかが見ものだ。

 ただし、皇帝が動くとなるとさらに遅い時間になってしまうのは覚悟するしかない。


「その発言は不敬ですわね」


 概ねはおどおどしている風に見えて、こう毅然にも振舞えるか。やはり掴みどころがない。


「不躾な物言いであることは認めます。ですが兄に比べれば優しいものです。そして我らも祖国の方が、というより居城がこの長い留守の間に落とされていまして。一刻を争う事態。早くご協力いただきたいという一心です」


「えぇ!?なぜ撤退なさらないのです!」


「モスクワを見捨てるわけにはいかんでしょう。モスクワだけじゃない、他の街もですが。同胞ではあっても、人を襲う魔族をこの地で野放しにはできません」


 現在の所属はイタリア王国であり、人間でもあるウィリアムとしては祖国、同胞など、やや嘘をついてしまった部分はあるが、トニーの立場からの代弁として分かりやすく伝わればそれでよい。


「なぜそこまでして私どもの街のために戦ってくださるんですか?」


「当然、見返りがあるからです。我々にも欲しいものがありましてね。このロシアを取り込むように指示を受けましたが、武力で破壊しようとする一派もいれば、我が兄のように味方に付けてしまおうと考える一派もあるわけです」


「欲しいもの……この国でしょうか」


 欲しいものではなく、帰りたい場所が適切ではあるが、そう伝えたため、彼女が警戒するのも無理はない。


「違います。我らはロシア国民の命も、土地も、財産も、欲しいとは思っていません。ただ、友誼を結んで味方になってほしいと考えています」


 トニーとしてはロシアをアジア各国のように属国化するつもりだ。

 ウィリアムはヨーロッパ各国が、特にイタリアがどう出るか次第で身の振り方を変えるつもりではいる。だが、今この場ではその意志は関係ない。トニーの目標を完遂するために自我を捨てて尽力する。それだけだ。


「折角の機会なのです。あなた方の欲しいものとは何ですか?是非、お聞かせ願いたいわね」


「大多数にとって夢物語にしか聞こえない話ですから。どうしてもというのであれば、この後で兄に尋ねてみてください。気が乗れば教えてくれるかもしれません」


 自身の事を少々卑怯だなとは思いながらも、現世関連の話はトニーに丸投げした。


「ただし、これだけは言えます。ロシアに迷惑のかかる話ではありません。そこだけはご安心を」


「気になって仕方がないのですが……分かりました。ではこの話は置いておきましょう。協力というのは、一緒に戦う以外にもありますか?少し譲歩いただければ、さらに重臣たちを納得させる材料になりえますが」


「最もありがたいのは共闘ですが、食糧、医療品、防寒具の支援なども喜ばしいことかと」


「魔族と言えどもそういったものは必要ですのね。勉強になりましたわ」


「ほとんど人間と変わらないと解釈していただいて構いませんよ。特に我々は人を食うなんてことはしませんので」


 目の前の女性がハッとする。本来、魔族は人をも食うのだ。当然、トニーの下の魔族の面々はその辺りを徹底されているので心配はない。


「では、今相対している方の魔族は?」


「食うでしょうね。ただ、この街は村を襲うのとはわけが違う。そんな暇はないのでその一面が見れていないだけでしょう」


「なんとおぞましい……決めましたわ。私は何があってもあなた方のお味方をいたします。そんな地獄絵図、このモスクワだけではなく、この国から消し去ってしまわなければなりません」


「できればこの世界全体から消してやりたいものです。その前例が我々ですからね。人なんか食わなくても魔族は生きられますから」


 ウィリアムとて魔族をすべて駆逐する、とまでは言えないし、それが難しいことも知っている。

 元々は大魔王だけは討伐する気でいたが、トニーの部下とも接した今ではさらに、彼らをも含む魔族を皆殺しにする気は無い。


「その言葉、信じましょう」


 女性が立ち上がる。


「すぐに兄のところへ?」


「えぇ、そのつもりです。先ほどの話が気になりますしね。あなた方の欲しいもの、というのが」


 にこりと笑い、そのまま退室していく。


「聞いたところで悶々とするだろうがな。俺たちが欲しているのは世界を渡って故郷に帰る方法だなんてのは」


 チェザリスやカンナバーロを含めて、ウィリアムの周りの仲間たちは信じてくれている。

 だが、長い付き合いがあって信頼関係が築けているのと、今日会うばかりの魔族とでは全くの別もの。

 あの女性はトニーが意味不明な事を言っていると思うだけかもしれない。


 あとはここで待っていてもいいのだが、さすがに退屈だ。

 それに、ウィリアムの仕事は既に終わった。トニーと女性が話しているうちに、女団長やイワンがいるであろう、向かいの客室へと赴く。


「おや?どうされたのだ、バレンティノ伯」


「先に俺の方に客人が来たんでな。今は兄と話しているはずだ」


 部屋には女団長とイワンの護衛だけ。イワンはもう職務に戻ったらしい。

 部屋のレイアウトはウィリアムがいた部屋とほとんど同じだ。


「ほう!それで、どなたがいらっしゃったのだ?」


「名乗られなかった。だが、かなり高い地位の女性だと思う。たとえば、皇后陛下とか、皇女殿下とかな」


「何?まさかそんな。どちらだとしても一大事だぞ」


「真相はわからないさ。トニーが上手いこと情報を手に入れてくれることを願うよ」


 今まさに二人は話しているはず。こちらが開示できる手札はすべて分かっているので、ウィリアムとしてはあの女性の情報をトニーがどこまで引き出してくれるのかが気になるばかりだ。


「それで、大まかな内容は?」


「しがらみはあるが、最大限こちらに協力したい旨ではあったな」


「朗報だな。危険視していないのであれば、眠らせるといった手など使わずとも良かっただろうに……」


「あぁ。それはご本人も知らなかったようだ。俺たちを連れ出すときに何があるか分からないと考えた、彼女の指示を受けた部下共の独断だろうよ」


 結局はウィリアムが見破ったし、あの調子であれば仮に眠らされてもイワンが何事だと警戒しただろう。さらには女団長も同席していたのだから、睡眠薬は初めから成功するはずのなかった手段だ。


「それでも許される行為ではない」


「なんだ。身内だろうに、やけに厳しいことを言うじゃないか。大丈夫だ、これ以降はこんな小細工を仕掛けられることはない。俺たちが対話できる相手だと知らしめたからな」


「……そうであればよいが」


 いつの間にか、女団長はモスクワ側よりもこちらの身の安否のほうが優先度の高い事案となっているようだ。明らかに傾倒している。

 イワンの護衛の男は物言わぬが、女団長を睨むような厳しい視線を送っていた。


「さて、おそらくトニーは会話が終わったからといって、わざわざこの部屋には来ないぞ。頃合いを見てこちらから行くしかない」


「私もそう思う。しかし会話中であってはまずい。せめて三十分くらいは待とうじゃないか」


 その案にウィリアムの賛成し、その場で三十分待機。

 まずはウィリアムだけが先方として、トニーの部屋に赴いた。


「入れ」


 ノックで在室を確認し、返答を待って入室する。


「どうだった?」


「婆さんとの逢瀬なんて、予想外過ぎて拍子抜けだったな」


「ははは、逢瀬とはいい表現をする。俺の方では協力的だったが……おっと、話の前にあの女団長らも呼ぶぞ」


「あぁ、呼んで来い」


 ここで、不在のイワン以外の四人がトニーの部屋に集結した。


「それで、何を聞かれたんだ?逆に何か聞き出せたか?要求は?」


 女団長が矢継ぎ早に質問を飛ばす。前のめりなのは良いことだが……


「うるせぇぞ、てめぇ」


 やはりこうなる。トニーは自分のペースを乱されること、相手の思い通りに事が進むのを嫌うので、彼が話したいようにさせるのが一番だ。仮にこちらから引き出したければ一つずつの方が良いだろう。


「おっと、失敬。気が先走ってしまったようだ」


「まずはあの婆さん……あー、何て言ったか、皇后か?とりあえず、そんな奴が会いに来た」


 やはり彼女は皇后だったようだ。自身には明かさず、なぜ兄がそれを聞き出せたのか気になるところだが、今はそんなことはどうでもいい。


「大物だとは思ったが、皇帝の妃とは最上級の地位の人間が来たもんだな」


「あぁ。隠そうとしやがったがな。てめぇが誰か言わねぇ奴に話す道理はねぇと突っぱねた」


 思いがけずウィリアムが気になっていた回答が出たが、そんな柔らかい言い方ではなかったはずだ。恫喝でもしたのであろう。老婆相手に容赦ない。


「というか、ウィリアムの方に先に来たのか?なんでだ?」


「特に意味はないと思うぞ。どちらの部屋にトニーがいるとも分かってなかったかもしれない。でだ。俺と話したのは、こっちに味方したいが大勢の臣下が慎重で、皇帝の意見が通らないって事だった」


「それは俺も聞いた。皇帝が俺らと組みたいんなら下の意見なんてどうでもいい。強行突破させる」


 ここまでは既定路線というか、ウィリアムにも予測できていた。


「どうやってそれを実行する?」


 女団長が尋ねた。


「どうやって?どういう意味だ?部下共は無視すればいいだろう。まさか、邪魔な奴を排除しろとまでは言わねぇよ」


「なんだ、兄貴にしては優しい回答で驚いたな」


「はっ!こっちに牙むかねぇ人間なら殺さねぇよ!魔族もな!」


「しかし、皇帝自身がそれをできかねるわけだ。やれと言ってもやってくれないだろうから、手を貸す必要は出てくるぞ」


 排除は無し。であれば、その臣下とやらも接触が必要か。


「まずはイワンを使えばいいじゃねぇか」


 イワンの名前が出て、当然ながら護衛の男が黙っているわけもなく反応する。


「使うというのは?反対意見を持つ方々を懐柔するという意味ですか、将軍?」


「懐柔?まぁ説得だな。奴もそこそこの力があんだろ?皇帝も協力に賛成、イワン本人も俺らと話して感触は悪くないと思ってる。だったらそれを正直に話して味方を増やしてもらう。もしくは直接繋いでもらう」


「すごい自信だ。直接話せば心変わりさせられる、と」


「当たり前だろ。楽勝だ」


 トニーが扉を指さす。さっさとイワンを呼んで来いというところか。


「いや、しかし今日すぐにというわけには……」


「なんでだよ。俺らがクレムリンにいる時こそ最大のチャンスだ。それとも俺らの陣までそいつらに御足労願う方が楽だと思ってんのか?それなら明日でも良いがよ」


 今であればゲストをこの王宮の建物内でほんの少し歩かせるだけで事足りる。

 トニーらが戦場に戻ってしまったら、イワンの仕事の難易度が格段に跳ね上がるのは当然のことだ。


「くっ……わかりました。少々お待ちを」


 足早に護衛の男が出ていく。


「なんというか、将軍は誰でも動かせるんだな。皇后陛下にも名乗らせたというし。これがカリスマというものなのかね」


「人は使ってなんぼだ。俺自身がさぼりたいからな」


 そんなことを言ってはいるが、トニーの仕事はもっと別の次元にあるとウィリアムは考えている。マフィア時代から意思決定や人員の配置など、トニーにしか決められないことも多かった。

 ワンマンも輝きはするが、組織を最効率で動かすなら、人に任せるところは任せるべきだろう。


 それが板についているせいか、トニーの言動には無視できない力強さがある。それを羨ましいと思うと同時に、誇らしいとも思うウィリアムであった。


……


「なんなんだ!すぐに呼び出すとは!俺も暇じゃないんだぞ!」


 護衛の男と共に、イワンが戻ってくる。ひとまずは成功である。


「んなこた言ってられねぇぞ、イワン。俺らに会いに来たのは誰だったと思う?」


「知ったことか!どこぞの大臣連中だろう!」


「ところがどっこい、皇后陛下様だとよ。あの婆さんが嘘をついてなければの話だがな」


「何っ!?皇后陛下!?なぜもっと早く知らせない!そして貴様、婆さんとは何という言い草だ!」


 くるりと手の平を返すイワン。鬱陶しいが、興味を引いたのであれば良かろう。


「ふん。婆さん婆さんって呼んでやってたが、本人も笑って喜んでたぞ」


「それは愛想笑いだ!高貴な御方が怒りなど簡単に出すはずなかろうが!馬鹿者め!」


「じゃあ、怒鳴り散らしてるてめぇは低俗って自己紹介してるわけだな」


 いつまでも口論が続きそうなので、ウィリアムが割って入る。


「二人ともそこまでだ。俺の方から皇后のお言葉、依頼の内容を伝えるぞ」


「ふん、聞いてやろうではないか」


「なんで尊大なんだ、てめぇはよ。偉いのはてめぇじゃなくて婆さんなんだろ?」


 この二人のやり取りも無視し、ウィリアムは言葉を続ける。


「何があっても我らを支持する。臣下の説得にもできる限り協力する。支援の内容は軍事的なものはもちろんのこと、物資の提供も視野に入れる……と、こんなところか」


「あぁ、俺と話したのもだいたい同じだ。付け加えるとすれば、臣下は絶対に殺すなって言ってたかな」


 当然だ。見せしめに一人殺し、他を従わせるという手法もある。ただ、いくら何でもここまで積み上げてきた信頼を失うので、トニーがそれをやるとしても最後の手段ではあった。


「ううむ……皇后陛下がそこまで。仕方ない。協力してやる」


 あくまでも上から目線なのは解せないが、イワンも味方と見て良さそうだ。


「そうと決まれば俺たちが城内にいる間にある程度の仕事はこなしておきたいな。反対派の重臣に心当たりはあるか、イワン?」


「もちろんだ。何人かは顔も名前もわかる。ここへお連れすれば良いのか?」


「そうだな。とっとと終わらせよう」


 トニーが肯定すると、イワンと護衛の男はすぐに動いた。

 部屋にはバレンティノ兄弟と女団長だけが残る。


「案外とあっさり、イワン殿も協力してくれるようで助かったな、将軍」


「あれで断る方がおかしいだろ。イワンの野郎はもともとこっちに偏見もなかった。偉そうなのはムカつくがな」


「同感だな。今度、カードかチェスでも仕掛けてたんまり巻き上げるってのはどうだ、トニー?」


「そりゃいいな。ケツの毛までむしり取って泣きっ面にしてやる」


 ささやかな仕返しという奴だ。賭け事で稼ぐのはこちらにとって十八番。

 カードはイカサマ専用に小さく印をつけて仕立てておいてもいいが、などとウィリアムが考えていると、当のご本人が返ってきた。


 後ろにはでっぷりと太った壮年の男。言わずもがな、反対派の重臣の一人である。


「む……?イワン殿、こちらの方々は……」


「あぁ。騙すような真似をしてすまなかったな、ジノヴィエフ卿。彼らこそが貴殿の恐れていた魔族側の指揮官どもだ」


 その大柄で太った身体では考えられないほど大袈裟に飛び上がる男。


「な、なんですと!?わしを殺そうとでも言うのかね!?」


「まさか。こいつらと貴殿を会わせるまでが俺の仕事だ。ちなみに依頼人は皇后陛下だな」


「よう、おっさん。まぁ座れよ」


 長椅子に横並びで座るのはバレンティノ兄弟。扉の横には女団長が控える。

 トニーは対面の椅子を勧めた。


「何だ、ロシア語!いや、しかし、わしをどうする気だね!」


「どうもしねぇよ。葉巻はどうだ。一緒に一服やろうじゃねぇか」


「イワン殿……そして皇后様もですか。この事は忘れませんぞ」


 逃げ場なしと悟り、恨み節を吐き捨てながら男が仕方なく椅子に座る。


「ビビんなよ。本当に話すだけだ。危害を加えるつもりはない。そもそも、俺らはお前らの街を守るために外で同族とやり合ってんだぞ」


「ふん!それがどうしたというのかね!恩着せがましくそう言いながら、街に部隊が入った後でごっそりと乗っ取るつもりであろう!」


「たった数百人の兵でか?やらねぇよ。友好条約、同盟締結くらいは欲しいがな」


 葉巻を一本差し出すも、ジノヴィエフ卿と呼ばれた男は首を横に振って拒否した。


「どうやったら信じてくれるかって話だが、周りの街の話を聞いてないわけじゃないよな?」


「餌にしか過ぎんのだろう!本当の目的はこの国を乗っ取ることだ!外での同族との敵対関係も、こちらを欺くためのまやかしだ!」


「おう、おう。取り付く島もないとはこのことだな、おっさん」


 トニーに変わり、ウィリアムが入る。

 そしてトニーは任せたとでも言うように、椅子にもたれて煙を吐く。


「なんで俺らがわざわざ、こんな孤立して、雪が積もって、裕福とは言えないような国を奪うんだよ?本気で取るなら欧州の四か国だろ」


「知ったことか!では、そのための先兵にでも仕立てようとしているのかね!」


「要らねぇよ。弱いじゃねぇか、お前のとこの兵は。魔族の強さを舐めるなよ」


 女団長がムッとしたのが分かったが、別に本心ではない。人間にも魔族に匹敵する英雄がいるのは知っている。


「外の奴らはここを落とそうとしてる。俺らはそんな事せずとも仲良くやりゃ良いじゃねぇかと思ってる。そんで喧嘩になってんだよ。で、お前らはどっちに味方したいんだってだけの話だ。難しく考えんな」


「答えは簡単だとも!魔族は信用ならん!以上だ!そして今まさに本音も出ていたな!我が国が弱い、兵が弱いなどと安い挑発をしたことを後悔したまえ!」


「なら、その弱いと考えているロシアを力任せに潰さないのはなぜか考えろよ」


「モスクワが堅牢だからだ!兵が精強だからだ!貴様らに落とす実力がないから懐柔しようとしているのだろう!」


 これはいよいよ、ジノヴィエフ卿に関してはウィリアムも匙を投げるしかないか。

 トニーが珍しく、イワンに助けを求める。


「おい、イワン。この阿呆は会話が出来ねぇようだが?豚じゃなくて人間を連れて来いよ。ウチの出来た弟が頭を抱えてる。次元が低い相手とは議論できねぇってよ」


「知るか。俺に言われても困る」


「イワン殿!わしが豚呼ばわりされていることくらい、否定してはどうかね!貴殿はこちら側だろう!」


 イワンのどっちつかずの返答に、ジノヴィエフ卿が非難の声を荒げた。敵味方関係なし。手あたり次第の八つ当たりだ。


「これは失敬。バレンティノ将軍、そしてバレンティノ伯、こちらのジノヴィエフ卿は豚ではなく、人間だぞ」


「そうだったのか?あまりにも弟と会話ができないせいで、豚と勘違いしてしまったようだな。人間ってのは言葉を理解し、俺ら魔族とも歩み寄れる生き物だと思っていた。許してくれ、おっさん。あー、ジノヴィエフ卿だったか」


「この……化け物の分際で!それもこんな若造が将軍に伯爵だと!ふざけておる!」


 トニーが謝罪すらも煽りに変え、さらに激怒させる。


「敵だろうが、特に上位者には礼儀を持って接するのも人間だと思ってるぞ。お前はやはり豚で間違いないみてぇだな」


「化け物や畜生が偽りの地位を持っていて、それに従うはずがなかろう!」


「だから畜生はてめぇだろ、豚。さて、コイツはダメだな。養豚場に送りつけて、皇后か皇帝に説教でもしてもらった方がいいんじゃねぇか」


 一人目の説得は失敗。かといってこのまま解放するのは気になる。城内で吹聴して回りそうなほど、トニーとウィリアムに怒り心頭だ。


「むしろ逆に、ここに置いておいた方がいいかもな、トニー」


「ほう?毒にしかならんと思うが、お前がそう言うなら何か考えがあんだろ」


「何だ!勝手に決めるな!わしは帰るぞ!」


 ジノヴィエフ卿の腕を扉の前にいた女団長が掴む。


「卿、そう慌てずとも良いではないか。今より、他の重臣らもお見えになる。彼らと協議するのも一興ではないだろうか?」


 城内に解き放つよりは、ここでその連中と一緒になって吠えてくれる方がまだマシだ。トニーも女団長も、ウィリアムの決定に従ってくれた。


 後はイワンだが……


「じゃあ、俺は他の連中を連れてくるぞ。少し待ってろ」


 多少はこちらの肩も持つが、基本はあくまでも中立に近いようだ。それならば問題ない。


「待て!イワン殿!わしは帰ると言って……あぁっ!」


 護衛の男を引き連れ、イワンが退出する。


「おっさん、何度も言うが、俺らはロシアを欲しいなんて思ってねぇからな。アジア圏には侵攻してるが、領土や資源が欲しくてやってることじゃねぇ。魔族に友好的な地域を増やしてるだけだ」


「口ではどうとでも言える!実際にその場所を見たわけではないからな!」


 実際に見る……か、とウィリアムは思案する。


 トニーの言葉の半分は嘘だ。資源などが欲しくてやっているわけではないのは事実だが、属国化して支配しており、ロシアもそうするのが目標ではある。

 それでも手始めに同盟や友好条約、という手段は悪くない。


「トニー。こういった反対意見を持つ奴らを、アジア圏の国へ招待してみてはどうだろう?」


「あ?なぜだ?」


「どうやっても、俺たちに味方するということが、征服されるというイメージを拭えないらしいからな。実際に見せてやるのが早いだろう?」


 トニーが植民地としている国も、何ら不遇な扱いは受けていない。危険はないと自信を持ってアピールできる。

 今から来る連中もジノヴィエフ卿と同じような感じだったとしたら、それこそが手っ取り早く説得できそうな手段だと言える。


「今だけは、それがあまり良い手だとは思えねぇな。オースティンの野郎が襲ってこないとも分からねぇ」


「だからこそだ。奴が来る前にロサンゼルス以外の街……中国だろうが日本だろうが構わない。人々の暮らしを見せてやるのが一番だと思う」


 見せるとしたら、空間転移でひとっ飛びだ。大した時間はかからない。


 ただし、今この部屋にカトレアなどを招き入れる必要がある。本陣までジノヴィエフ卿らを連れ出すのは現実的ではない。


「おい、おっさん。俺らと友好関係にある人間の街がどんな感じかを見れば、多少はこっちの言い分も信用できるのか?」


「そう言って、わしをどこかへ攫おうというのかね!反対する者が行方不明になれば、都合もいいだろうからな!」


 彼の根底にあるのは保身かと感じる。

 他の面々の態度は分からないが、ジノヴィエフ卿については強制的に連れていくしかなさそうである。


「こちらです、団長。どうぞ、お入りください」


 そこへ、イワンが戻ってきた。やけに丁寧なのは、団長と呼ばれた男が彼の直接の上官であることから明白だ。

 なるほど、騎士団にも反対者がいるというのは意外だったが、あり得ない話ではない。


「……魔族、と聞いたが。まるで人間だな」


 団長と呼ばれた男は非常に若々しい好青年だった。例えるならイタリア国王が近い。

 おそらく三十代前半で、黒色の軍服に黒いロシア帽を被っている。


「魔族に会わせると聞いたうえで、物怖じせずにやってきたことは褒めてやる。座れ」


 トニーの横柄な態度にも団長は眉一つ動かさず、黙ってジノヴィエフ卿の隣に着席した。感情に左右されないタイプは、ウィリアムとしては好感が持てる。


「すっ飛ばして話す。このおっさん共々、俺らとの協力に反対派の連中には街を見てもらおうと思ってる」


「待て、貴殿がバレンティノ将軍で間違いないな?街というのはモスクワ近郊の衛星都市の事を指しているのか?」


 トニーの名前と役職は、道すがらイワンから説明を受けていたのだろう。


「おう。俺がトニー・バレンティノだ、騎士団長さん。街ってのは、ロシア国内の街ではなく、アジア圏にある俺らが占領してる街だな」


「そんな長旅をしている暇はないぞ」


「心配すんな。移動と滞在含めて小一時間ってところだ」


 騎士団長はやはり無表情だが、隣のジノヴィエフ卿は訝しそうにトニーを睨む。言っている意味が分からないからだ。


「俺ら魔族は、移動に船や飛行機なんか使わねぇんだよ。魔術でひとっ飛びだ」


「飛行機……?いや、今はそんなことは良い。魔術で移動か。命の保証はあるのだろうな」


「当たり前だ。そもそも、俺らはてめぇらを攻撃したくてここにいるんじゃねぇぞ。だから城の外では同士討ちが始まってるんだからな。モスクワの味方をする魔族と、敵対する魔族。実に分かりやすいだろ」


「ふむ……前者が貴殿らか。分かった。街とやらを見せてもらおう。それで我々の見解が変わるという自信があるようだからな」


「団長!?」


 即決した騎士団長に、ジノヴィエフ卿は金切り声を上げて戦慄している。


「決まりだな。ウィリアム、ガキをここに連れてこれるか?もちろん他の奴でもいい」


「分かった。戻りは転移で彼女とここに飛ぶ。みんな、驚かないようにな」


 単身は危険に思われるが、一度、トニーの本陣に戻ってしまえばカトレアと帰ってくるだけだ。何とかして見せるとウィリアムは頷いた。


……


 一度は通った正門を抜け、貴族街、軍人街、平民街を早足で歩く。

 ジロジロと目線は感じるが、特に止められる様子はない。


 ウィリアムとて、護身くらいはできる。少数の暴漢程度なら、仮に囲まれても撃退可能だ。


「さて……ここからが本番か」


 いよいよ街の端、城壁の前までやってきた。当然ながら、日が沈む前なので外ではまだ戦闘が繰り広げられている。


 こればかりは力づくで突っ切るのは論外。かといってあまりトニーらを待たせるのも気に食わない。


「お、おい!アンタ、出ちゃならんぞ!」


 流石にここでは呼び止められる。攻勢を受けている箇所ではないものの、防御のために展開している兵士の一人だ。


「急ぎなんだが、夜までは無理か?」


「夜になっても本来は出ちゃならん。だが、どうしても街の外に用事があるのならそうするしかないぞ」


「味方してくれている魔族の一団は近くにいないのか?そこへ合流してしまえば守ってもらえると思うんだが」


「いるにはいるが……そうまでして急ぐのか」


 城兵はある程度、反対派の重臣らよりも魔族には友好的だ。時には彼らと連動して城を防御しており、実際に戦いぶりを見ているおかげでもある。


「火急の用事だ。皇族からの依頼でな」


 嘘は言っていないはずだ。ただ、それを簡単に漏らすというのはいただけない。しかし、やはり効果は絶大だった。


「な……!?いやしかし、それならば尚更アンタを死なせるわけにはいかんだろう!」


「そうだな。絶対に死ぬわけにはいかない。だが、ここで足止めを食らうわけにもいかない。どうにかならないか?」


「どうにかって言われてもなぁ!分隊長に相談してもらえるか?彼だ」


 ここにいるのは僅かな兵だけで、とりあえずその責任者を紹介された。

 分隊長は何かあったか、と近付いて来る。


「理由があって、街の外へ無事に出る必要がある。何か良い手段はないだろうか?」


「正気かい、兄さん。街の外は化け物同士が戦ってる最中だ」


「あぁ。その内、こちらに味方してくれている魔族の一団に合流出来ればそれで問題ない。外へ伝えなきゃならない重要な伝令があってな」


 誰であれ、そこから一度本陣へ空間転移をしてもらい、カトレアと合流すれば良い。

 もし彼女がまだ万全でなければ、本陣にいる他のスケルトン兵やリザードマン兵で構わない。


「それなら可能だが……奴らも兄さんをわざわざ守ってくれるとは言い切れんぞ。何せ戦闘中なんだからな。余裕もないだろう」


「その時はその時だ。頼む」


 合流して、副指令のような立場であるウィリアムが無視されるということはまず有り得ないのだが、その説明は省く。


「……ううむ、分かった。では一度城壁の上へ同行願おう。ロープで降ろしてやる」


……


 上るとなれば一苦労だが、降りるだけならばウィリアムにとってもそう難しいことではない。

 城壁に足をつけ、ロープを掴んで消防士のように降下していく。


「いけそうかー!?絶対に放すなよ!無事では済まんぞ!」


「あぁ、大丈夫そうだ!ありがとう!」


 上から顔をのぞかせる分隊長にそう返し、さらに下へ。命綱は当然ないので、彼の言う通り手を放せば一巻の終わりだ。

 そんな中ではあるが、この世界に飛ばされた当初、ローマで魔族から逃げるために城壁を上へよじ登ったことを思い出す。

 あの時は確か、イタリア国王が最後に引き上げてくれたのだったか。


 それだけではないのだが、それも含めた命の恩義を返すため、ウィリアムは今日まで奔走している。


 長い時間をかけ、地面に降り立った。ローマに比べて高い城壁であることを再認識する。


 手を振りながら、ロープを二回引く。それを合図に、上で待機していた分隊長がロープを引き上げた。大きく回り込んで城門や城壁の崩れている場所に行かない限り、これで後戻りはできない。


「うーむ。あちこちで戦ってはいるが、どこへ向かうか」


 近距離で衝突が起きていないのは上から確認していたが、どちらにせよ接触はするのだ。敵を突っ切る形より、味方に直接話せる態勢になっている箇所を探す。つまり、味方の背や横に行ける箇所だ。


 ウィリアムはトニーのように魔術は使えない。魔剣や銃があっても一人で魔族の敵兵団を相手取るのは厳しい。

 万が一の場合、基本は逃げの一択だ。


 一番良いのは、味方の兵の誰かがウィリアムに気づいてくれることではあるが、さすがに難しいか。

 敵に見つかった場合は予測不能だ。モスクワから出てきた人間と認識した者をわざわざ目の前の魔族と比べて優先的に殺しに来るだろうか。


 慎重に、どこが合流が容易いかを観察しながら移動する。合流をせずに完全に一人でここを抜け、本陣を目指しても良い。

 そのために、進行方向はトニーの本陣を目指すことにした。直進はできないので、右に左に大きく迂回しながらも目線はそこを向けておく。


「うぉぉぉっ!」


「押し負けてるぞ!副長が戻られるまでは死守しろ!」


 敵兵の声が聞こえてくる。オースティンが戻る?

 彼はもはや、ここを捨てているものだと思っていたが、可能性はゼロではないか。


 出来る限りの時間稼ぎのために、戻るまで死守せよと言っているだけかもしれない。もしそうであれば、それを信じている敵兵らには同情を禁じ得ない。

 そして、本当に戻るよりはそちらの方が有り得そうな話だ。


 全滅ではなく、ある程度の制圧が済んだ段階でオースティンが帰らなかったことを指摘し、残存兵を味方に引き入れられないだろうかという案も浮かんでくる。


「……」


 だが、ウィリアムは首を横に振った。今は自身の命の危機でもあるというのに、そんな状況ですら次の一手を考えようとしている。ワーカホリックもここに極まれりだ。


 こんな性格だから兄に信頼されているともいえるし、良いように利用されているわけでもある。

 そして、それで構わないと思っている自分もいる。


「バレンティノ伯では!?」


 ようやく見つけてくれたか。もうこのまま本陣まで一人旅でもいいかと思っていた矢先。

 近くにいた味方のリザードマン兵がそう叫んだのが聞こえた。手を振る。

 この一団はウィリアムから距離はあるが、接敵していない。安全に合流できそうだ。


 一分程度で彼らはこちらへと寄ってきた。


「おかえりなさいませ!しかしなぜお一人で!?危ないですよ!」


「出迎えご苦労さん。トニーからの指示を受けてな。カトレア嬢に会いに行っているところだ」


「モスクワの中から本陣までですか?誰かを呼んでもらえればそれで良かったものを!」


 その手段がないからこうしているのだが、心配から出た言葉である。咎めはしない。

 しかし、魔族に心配までされる立場になるのは妙な気分だ。


「悪いが、誰かトニーの本陣まで空間転移を頼めるか?」


「もちろんです!おい、送って差し上げろ!」


 命令を受けた別のリザードマン兵が、ウィリアムの前に空間転移の歪みを作り出す。


 ズゥ……バリバリバリッ!


「伯、どうぞ!お入りください!」


「あぁ、助かるよ。では、貴殿らの武運を祈る」


 転移門をくぐると、先ほどから穴が開くほど見つめていたトニーの本陣の天幕前。カトレアはおそらくこの中だ。


「では自分はこれにて!」


 本人はそれをくぐらず、顔だけを出したリザードマン兵が別れを告げて空間転移は閉じた。送るというのだから一緒に来るかと思ったが、確かについて来る必要はもうない。


 陣内にいたわずかな兵からは、天幕前に出るとは何者かという視線が飛ぶも、ウィリアムだと気づくとそれもすぐに消えた。


「カトレア嬢、入るぞ」


 陣内で働いている兵だけはいたが、今この天幕の入り口に立っている歩哨などはいない。繋いではもらえないのでノック代わりに軽く声をかけ、そのまま中に入った。

 トニーの寝台、布団などはかけず、そこに寝て丸くなっているカトレアの姿があった。こうしているとやはりただの子供だ。自軍内の最大戦力が彼女だとは到底思えない。


「おい、起きてもらえるか。まだ、身体が重いのかもしれないが……」


「むにゃむにゃ。閣下の……閣下の……お皿のやつ欲しい」


 食事の夢でも見ているのか。トニーの前の料理を欲しがっているようだ。

 仕方なく、背中に手を当てて身体を揺する。


「ううん……まだ食べる」


「カトレア嬢。カトレア。起きろ」


「やぁん、エッチ」


「おい、今度は夜這いの夢か。早く起きてくれ。愛しの王子様……いや、将軍様からの呼び出しだぞ」


 揺すり続けるも、なかなかに起きないので、鼻をつまんでみた。


「ふがっ!?なななな、なにをするですか!乙女の呼吸を止めるとは!毒リンゴですかい!」


「ようやくお目覚めだな。変な言葉遣いになってるぞ。それに、よく白雪姫なんて知ってるな」


 飛び上がったカトレアは、壁を背にしてゴールキーパーのように両手両足を大きく広げている。


「え?白雪……何?てか、弟くん!なんでここにいるのぉ!?しかも一人で!閣下とモスクワ城に行ったんでしょ?」


「あぁ、行った。それで、城の中の連中を説得するために、お前の力が必要なんだと。身体の具合だが、調子はどうだ?」


「えぇ?あたしの力ぁ?ふふんっ!閣下ったら、まだまだお子ちゃまねぇ!やっぱりあたしがついていないとダメなんだからぁ!」


 急に機嫌が良くなったカトレアが飛び出そうとする。その手を掴む。


「おい!着の身着のまま行くつもりか!それに、俺も一緒だ!」


 なぜ走っていこうとしたのか、そして彼女はかわいらしいフリルのついた白いパジャマ姿だ。


「そっか!お着換え!顔を洗う!歯を磨く!髪を梳く!ん-と、お風呂に入る?」


「風呂は好きにしろ。着替えと洗顔くらいはした方がいいかもな」


 呼び止めておいて何だが、急ぎではある。しかし、このまま連れていくもの良くはない。


「じゃあ入る!」


 天幕内にある大きな木製の風呂桶に、カトレアは魔術で湯を張った。


 あまりにも手際が良かったので、その場で素っ裸になるのではとウィリアムは退室しようとしたが、風呂桶とウィリアムとの間に木板のパーテーションを立て、カトレアは入浴を始める。


「ちょっと待っててね~!覗いたらダメだぞ!」


「あぁ、もちろんだ」


 ウィリアムも男ではある。だがトニーほどに女好きなわけではなく、特に子供になどまるで興味がない。


 先ほどまでカトレアが寝ていたトニーの寝台に腰かけ、紙巻き煙草に火を点けた。

 やることもないので、今後の行動を思案する。


 まずはカトレアと城門の前まで一緒に空間転移。城内にいきなりでも構わないが、まずは城壁から降ろしてくれた分隊長に帰還を報告。

 そして次は王宮の真ん前。そこで再度の王宮への入場を伝えておくか。

 そしていよいよ、トニーらが待つ客室へ転移だ。


 三度、転移を使わせることになるが、カトレアの体力は持つだろうか。

 今のところ元気なようには見えるが、無理をしていないかは気にかけてやる必要がありそうだ。


「カトレア嬢、身体のダルさはもう平気なのか?」


「ふんふんふーん。えぇ?なんか言った?」


 頭でも洗っていたのか、こちらの話は届いていない。


「いや、なんでもない。さっさと済ませてくれ」


「ふんふんふーん。えぇ?なんか言った?」


「……」


 聞こうとしてくれているのか、そうでもないのか、これ以上なにか投げかけても永遠に同じやり取りが続いてしまいそうなので、ウィリアムは沈黙してカトレアが風呂から上がるのを待つことにした。


 二十分ほど待たされ、バスローブ姿のカトレアが出てくる。


「お・ま・た・せ!あ、そうは言っても、セクシーで無防備なカトレアちゃんを襲ったりしたらダメだよ!」


「あぁ、非常に魅力的だが、兄の妻だからやめておくよ。さっさと髪を乾かせ」


「ほーい。え!?ねぇ、魅力的!?もっと閣下にもそう言うように伝えておいて欲しいなぁ!」


「善処しよう」


 カトレアが魔術用の杖でドライヤーのような温風を出し、ブラシで髪を整えていく。

 何気なく使っているように見えるが、おそらく温風というのは火と風の組み合わせだろうか。おそらく普通の魔族では使えないほど高度な魔術だ。

 ほとんどが攻撃に用いられるはずの魔術を、オリジナルで生活用に改善している時点で、カトレアの能力が如何に優れているかを表している。


 ブラッシングを終え、魔女服へと着替えを済ませ、カトレアが準備万端と頷く。

 化粧はしないようだ。しなくとも、その幼い顔は整っているし、肌も透き通るほどみずみずしい。仮に顔を変えるとしたら魔術でさっと出来るのだろうが。


 二人で天幕を出る。


「では行くか。まずはあそこの……城壁の辺りに頼めるか?あの内側に挨拶したい男がいてな」


「いいよー。お手て繋ごうねぇ。びゅーん!」


 亀裂をくぐる空間転移とは違い、瞬間転移はその名の通り一瞬。ただし、術者に触れる、もしくは術者に触れている者に間接的に触れておく必要がある。


 順々に手を繋いでいけば、カトレアが苦しくない範囲で複数人を転移できる。

 彼女の体調が万全であれば十人、二十人程度なら平気だろう。


「なっ!?」


 視界の景色が変わるよりも先に、その驚いた声でウィリアムは転移に気づかされた。飛ばされる側としてはその脳の処理が追いつくより先に事が済んでしまっているというべきか。


「よう、俺だ」


 ウィリアムの指示通り、カトレアは城壁のすぐ内側に飛んでくれていた。

 目の前には守備兵の分隊長。城壁の上からロープを下ろしてくれたあの分隊長で間違いない。


 ローマのように外敵の転移による侵入を防ぐ結界のようなものがあるのかとも思っていたが、それはないらしい。

 さすがにこれだけ物理的に強固な城だ。結界があるとしても王宮のごく一部だけなのかもしれない。


「おぉ、無事だったんだな。それで、大事な仕事ってのはその女の子の救出だったか。しかしいきなり目の前に瞬間移動してくるとは思わなかったぞ」


「あぁ、俺自身も驚いているよ。どうやって飛んだのかは企業秘密ってことで」


「皇族が絡んでる話だってんだろ?驚きはしたが詮索はやめておくさ」


「助かるよ。カトレア嬢、具合は平気か?」


 手を繋ぐカトレアを見下ろす。やはり少し辛そうだ。


「大丈夫……!」


「そうか、それは何よりだ。だが、到着した時にはトニーにもっと元気な姿を見せてあげないとな。すまない、王宮に向かう車を手配してもらえたりしないか?」


 ここからは転移でなく、馬車での移動をウィリアムは選択する。


「もちろんだ。兵員輸送用の馬車が近くにある。それで良ければ使ってくれ。おい、御者ができる者はいないか」


 分隊長が兵に確認すると、数人が挙手。その中から一人を指名して馬車を取りに行かせた。


「大丈夫って言ったのにぃ。どうして意地悪するかなぁ」


「意地悪?どう考えたって気ぃ遣ってやってるだけだろうに。ただ、休める時に休んでおくのは大事だ。ここから先は戦場を飛んでくるのとは違って、車の移動でも十分安全だからな」


 馬車に揺られている間に回復してくれればそれでいい。せっかく連れて行っても、そこからは大人数を連れて各国への行脚だ。ここに飛んだ時以上に疲れるのは目に見えている。


 そして乗る予定の馬車がやってくる。


「それじゃ、分隊長。行きも帰りも世話になったな。これを。少ないが取っておいてくれ」


 金貨を一枚手渡す。欧州のものだが、通貨は万国共通だと聞いている。


「はぁ!?おいおい、さすがはお偉いさん絡みの使者は太っ腹だな!ありがたい!」


「喜んでくれて何よりだ。すべて使えとは言わんが、こんな緊張しっぱなしの毎日じゃ気も休まらんだろう。一度くらいは部下たちを連れて一杯ひっかけに行ってやってくれ」


「あぁ!もちろんそうさせてもらうさ!休暇が出れば、の話だがな!」


 彼らの休暇のためにも、さっさと首脳陣には協力してもらわなければ。

 馬車の荷台に乗り、カトレアを引き上げる。


「待ってくれ。アンタ、名前は?最後にそれくらい聞かせてくれよ」


「……ウィリアム・バレンティノだ。よし、車を出してくれ」


「やはり外国人か!いや、バレンティノ……?その名前、どこかで」


 考え込む分隊長を尻目に、馬車は発進した。

 彼も立派な軍人だ。仕事中に上官からポロリとトニーの名前が話にでも出たのだろう。


「むにゃむにゃ……」


 大丈夫、とついさっき豪語していたはずだが、馬車の発進と同時にカトレアが眠りこけている。


 馬車は兵員輸送車というだけあって、貴族が乗るそれとは比べ物にならないほど簡素だ。

 馬は一頭立て。その割に荷車は大きいが、屋根も壁も椅子もなく、ダンプやピックアップトラックの荷台に乗っているようなものだ。

 床だけは板が張られているが、他は骨組みだけである。


「お客人、王宮の正門でよろしいですか!」


「あぁ、問題ない。防衛任務の中での急務、感謝する」


「いえ!退屈してたのでちょうどいいですよ!」


 はきはきと答える御者役の兵士はまだ若い。おそらく十代後半の新兵だろう。

 ウィリアムとしては出会った頃のアマティを思い出す。


「退屈ってお前、国の一大事だろうに。しっかりモスクワを守ってくれよな」


「えぇ!それはもちろんなんですが、軍に入った以上は少しくらい活躍したいじゃないですか!それが、毎日毎日城壁の上から戦況を監視するだけになっちゃってるんで」


「一兵卒が活躍か。腕っぷしに自信ありなんだな」


 ウィリアムも化け物じみた人間は見てきたが、この青年を見た感じ、そういったものは感じられない。仮に接敵したとして、無謀に突っ込んで犬死しなければ良いが。


「そりゃもう!自分の槍捌きは訓練生時代にトップの成績だったんですから!」


 槍捌きと言われたら、今度はカンナバーロを思い出す。彼はチェザリスの指揮の下で戦っている最中だろう。

 彼ほどの腕前でも魔族の前では決して安心できない。


 雑兵相手であれば、イギリスのモリガン元帥や先代のウィリアム・マンチェスター王くらいの実力でようやく安心というところ。

 それでも、将軍や魔女クラスの魔族と相対するとなれば話は別。知っての通り、イギリスの先王はそれで命を落としているのだから。


「家族はいるのか?恋人や、妻は?」


「はい?年老いた母があばら家にいますが、他に家族と呼べる者はいません。出世して、立派な家と綺麗な奥さんを手に入れるのが夢です!」


「なるほどな。手柄は確かに重要だが、お前の身に何かあった時、母親はどうなるんだ?お前の給金以外の食い扶持はあるのか?」


 このくらいで諭せるわけもないが、言わずにはいられない。


「それはそうですが、だからと言って今の薄給では何も改善しませんからね……」


「槍働き以外に、得意なものはないのか?たとえば早駆けや夜目が利くなら斥候任務、医療知識があれば衛生もいける。金勘定が得意なら輜重の手配とかな」


 どうして見ず知らずの若者の人生相談なんかしているのか。暇つぶしには丁度いいが。


「えぇ?そうですね……うーん、やはり一番得意なのはやはり戦闘です」


「師と呼べる人物は?」


「います!師というより目標ですが!歩兵隊の伍長殿に、凄腕の槍使いがおられて!」


 やはりどこの軍にでも達人はいるか。カンナバーロと競わせてみたいものだ。


「いいじゃないか。どうしても槍働きしかなければ、その上官に直接しごいてもらえ。倒せるようになればもっと良い。実力が認められ、許可が下れば前線で戦える近道になるかもしれないぞ」


 そこまでの強者となれば、犬死はしづらくなるだろう。あとはこの若者次第だ。


「確かにそうかもしれませんね!今度、伍長殿に稽古をお願いしてみます!」


「あぁ。そうするといい」


「楽しみだなぁ!敵将をばったばったとなぎ倒して見せますよ!」


 馬車は軍部辺りを通過している。その伍長殿とやらも普段はこの辺りにいるのだろう。稽古が始まるにはまず、外での戦闘が収まる必要があるのだが、それだとこの青年の手柄は立てづらくなる。


 言い換えれば、手柄を立てるためにはまず戦闘が終結する必要があるのに、手柄を上げるには戦闘状態でなければならない。

 武術大会などがあれば活躍して表彰される可能性はあるものの、槍働きでの大出世はまだまだ先のようだ。


 馬車は貴族街まで進み、もう少しで王宮前に到着する。


 カトレアは依然として眠っている。ぎりぎりまでこのままにしておいてやるとしよう。なんなら、到着後も客室へおんぶで移動し、仕事の時まではそのままにしておいてやってもいい。


「ところで、お客人は皇族に仕えてるんですか?しかし外国人なんですよね」


「俺の所属はモスクワではなくまた別にある。今回の仕事がそっち絡みだったというだけだな」


 別に明かしても良いが、トニーの部隊なのにイタリア王国で伯爵という、一兵卒にはいくら説明しても理解されないような立場なのでやんわりと話した。


「幼子を連れて、どう考えても怪しいと言われそうですが」


「そう思ってくれていて構わないとも」


「はぁ」


 仮にカトレアが貴族令嬢のような恰好をしていたとしたら、この青年もどこぞの御家のお嬢様を救出したと思ってくれたかもしれない。

 しかし当の本人はくたびれた魔女帽子をかぶった、良く見えても一般階級の娘と言った感じだ。


「俺の事は良いさ。それよりお前の話が聞きたいな。夢の話ってのはどんな内容であっても聞いているとワクワクするもんだ。大出世して、その後はどうするんだ?」


「え?そうですねぇ。家と嫁さんを貰ったら……次は子供ですかね!あとは犬も飼いたいな!」


「それは良い。まさに絵に描いたような幸せな家庭だな」


 現世の若者に訊いても同じことを言われそうな、ありふれた夢ではある。

 だが、目標が無く日々の生活に必死で意気消沈している若者を見ているよりも、随分と心の保養になる。


「仕事の立場も様変わりですよ!せめて大隊は率いていたいなぁ。部下は千人!国中の精強な兵は我が隊を第一に志望するのです!」


 だんだんと調子づいてきたが、これでいいのだ。夢に向かって走ってこその若人である。

 ただし、幼少期からそこそこの暮らしをしてきたウィリアムに、夢はあるかと訊かれた場合は難しいところだ。今となっては欲しいものなどほとんどない。


「そのためにも今すぐに戦場に突っ込むのは我慢だな。伍長から一本取るのが最初の目標になるかもしれない」


「なかなかに険しい壁ですね……あの方が片膝をつくというのは想像できません」


「どうした。大きな夢に障害はつきものだぞ。諦めずに頑張ってみろ」


「諦めたわけではないですが!本当に強いんですよ!」


 ここまで言われると、カンナバーロを部下に持つ者としてはその伍長殿とやらの腕前を本気で見てみたくもなるが、今はそんな時間は無い。


 そんな中、貴族街の途中でとある馬車とすれ違った。

 いくら皇都とはいえ、二両の馬車が通るには全速力では歩行者を巻き込んでしまいそうで危ない。そこで互いに減速する。


「おや、この馬車は?確か、アガフィア・コズロフ男爵とかいう爺さんじゃないか」


 ウィリアムが言うと同時に、横を抜ける馬車の扉が開いた。

 今、こちらが乗車している裸の荷台とは違い、立派な屋根と壁のある客車がついている。


「おぉい。どうしたんだ。軍用の輸送車になんか乗って」


「よう、爺さん。今一度、街の外へ移動する必要があったからな。今度はアンタじゃなく、兵隊に拾ってもらったんだよ」


 軽口を叩き合い始めた二人の間で、御者の兵士は敬礼をしたまま固まっている。相手が男爵だと分かっていれば当然の反応だ。

 コズロフ卿の御者の方は主人の立ち話にも慣れたものだろう、ウィリアムに向けて軽く会釈だけをくれた。


「ほう、忙しいんだな。こっちはあいも変わらず、ずっと散歩よ」


「らしいな。そんなに日がな一日街を走ってても、何も変わり映えしないんじゃないか?」


「そうとも。だから、街の中で最も早い戦の終結を待ち望んでいる一人と言っても過言ではないかもしれんな」


 自身の退屈しのぎのためにそんなことを望んでいるのは勝手だが、これはほんの冗談だろう。

 戦闘自体が終わるのは交通の便、住民の不安といった一般的な観点から見ても良いことしかない。


「それをどうにかするのが俺らの仕事だ。終戦を期待してて待っててくれ」


「うむ、何かあれば言いなさい。力になろう」


 御者の青年兵士は、今更ながらウィリアムが何をしているのかを理解し始めたらしく、口をあんぐりと開けている。


 皇族の依頼を受ける立場とはわかっていても、直接戦闘を左右する存在だとは思っていなかったか。

 実際に最前線を行き来する人物を目の前にして、防衛任務が退屈などと口走ってしまったことを恥じているのかもしれない。


「そうだな、その時は頼む。あぁ、それと、皇帝にはまだ会えてないが、皇后には会えたぞ。よろしく伝えておこうか?」


「本当か!お忙しい御身だからな。無理には伝えなくてよいとも。折があればまたお茶でも、と」


「承知した」


 男爵という地位であっても、古くから皇帝に仕える由緒ある家なのだろう。本人同士の年齢も近く、皇后と茶飲み友達なのも不思議な事ではない。


「では、引き止めて悪かったな。頑張ってくれ、バレンティノ殿!」


「あぁ。ではまたな、コズロフ卿」


「ははは、今まで通りに爺さんで構わんよ」


 とことん立場にこだわらない好々爺だ。皇帝や皇后の事も、仕事ではなく私事として捉えているに違いない。


「はぁ、びっくりしました!コズロフ男爵……でしたっけ。街でたまに見かけはしても、貴族の方と直接対話する場に居合わせたのは初めてです!」


「そうだったか。だが、お前が出世して大隊長になった頃には、飽きるほど話す機会は増えるだろうな」


「確かに!そのための良い機会となりました!ありがとうございます!」


 素直に前向きにとらえてくれて何よりだ。


 そして、そのまま談笑をしながらクレムリンまでの残り短い道のりを進み、十分足らずで到着した。


「いやー、久々にここまで来ました。任務でもなければおいそれとは近寄れない場所なので」


「助かった、礼を言う。兵士はあまり宮殿までは来ないのか?」


「今はほとんど城壁の近くで寝泊まりしてますし、たまに内側に上がって来ても軍部の詰め所までですね。クレムリンにいる人たちは、まさに高嶺の花です」


 なるほど。クレムリンにも軍人はいるが、内勤のようなことをしているのはエリート層か。あのイワンがエリートなのだと言われてもしっくりこないが。

 それと「内側に上がる」という言い方をするのは地元民だけなのだろうが、なかなか面白い言い回しだ。


「お姫様はまだ寝てるな……起こさないように抱えて、と。それではな。城壁までまた長い道のりだ。事故らないように気をつけて帰れよ」


「はっ!ではこれより帰投します!御武運を!」


 馬車が去る。一人でまた街の外周まで戻るのは一苦労だろうが、耐えてもらうほかない。主に、孤独との闘いである。


 ハイウェイの上を何時間も車で、隣の州なんかに向かうときには気晴らしにラジオやCDでも聞けば良いが、この世界の馬車だとそうもいかない。


「待たせたな、通るぞ」


「……どうぞ、お入りください」


 一連のやり取りを見ていた正門前の衛兵は、ウィリアムをそのまま通す。既に何度もここを行き来しているので、ほとんど顔パスだ。

 そして、トニーらが待つ客室へと向かった。


 客室前、同じような景色が続くので、どの扉だったかと迷っていると、その内の一つが中から開かれた。女団長が顔をのぞかせる。


「おぉ!バレンティノ伯、ようやく戻られたか!カトレア嬢もおいでだな、こちらへ!」


「あぁ、待たせたな」


 カトレアを抱えたまま入室すると、中には退屈そうなトニーだけがいた。

 ジノヴィエフ卿、モスクワの騎士団長、イワンはおろか、その護衛の優男の姿も見えない。


「おせぇぞ。他の連中には明日以降ということで帰ってもらった。というか、帰りやがった」


「すまない。見ての通り、カトレアが一度の転移で疲れてしまってな。モスクワに入ってからは馬車に乗せてもらってここまで戻った」


「それが時間を食った理由か。ガキにこだわらずとも、他のやつに頼めばよかっただろうが」


 あの後、反対派の多くがここに集まっていたのだろう。そのチャンスを逃したとなればトニーが不満そうなのも頷ける。

 転移だけで帰ってきた場合の予定時刻から言えば、三時間ほど遅かったのではないだろうか。


「確かにその通りだ。役目を果たせず、すまなかった。明日以降、また人を集めてもらうしかないな」


「ふん。それで、そのガキは使い物にならないって?今後、大勢を引き連れて各国を回るってのに、大丈夫なのかよ」


「それは本人が起きたら訊いてくれ」


 本当に無理そうであれば、本陣にいる誰かと交代だ。

 瞬間転移ではなく、空間転移となるので多少の不便さはあるが、それも発動に少々時間がかかるというだけの事。各国を行脚するのには問題ない。


「むにゃむにゃ……閣下……」


「まったく、この寝坊助め。どうやったら魔力が戻るのか。やはり大魔王か大魔女の老害どっちかに相談するしかねぇか?」


「さてな。それで戻るのか俺にはわからんし、やるかは任せる。ただ、どちらにせよカトレアの復活は早めにやっておいた方が良いのかもしれないな。これが続くのであれば今後、支障をきたすレベルだ」


 大魔王も大魔女も、ウィリアムにとっては未知の存在だ。どう考えても魔族内で頂点に君臨する者共だろう。会ってみたい気持ちはある。だが、決めるのはトニー、そしてカトレア本人だろう。


「二人とも、イワン殿らはどのくらいのタイミングで声を掛けようか?その辺りの雑務は私に任せてくれ。何も仕事がないと手持無沙汰だ」


 女団長が言った。


「明日の朝一だ。その前に、ガキが起き次第、一度本陣に戻して誰かと一緒に戻す」


 それがいいだろう。予備の転移要員だ。


 カトレア以外の人材となると、誰も彼もがリザードマンやスケルトンなど分かりやすく化け物の姿をしている。

 ジノヴィエフ卿あたりは腰を抜かしそうだが、我慢してもらうしかない。


「流石に俺たちも休ませてもらった方が良いかもしれないな、明朝であればそれくらいの時間はある」


 トニーもここで待っていただけではなく、反対者たちが帰るまでは口論をしていたはずだ。

 今となってみれば、トニーにカトレアとの同行を依頼し、ウィリアムがここに残っていた方が良かったのかもしれない。


 ただ、あくまでも代表者はトニーなので、二人きりの時であるならばともかく、他人の前でウィリアムがそれを言い出すのも兄の顔が立たない。


「それは好きにしろ。戦場の方はどうだった」


「特に問題はなかったよ。俺たちがいなくても、じわじわと敵の兵を減らしていってる。ただやはり、時間はかかるだろう。オースティンが援軍などを引き連れてこないか心配だな」


 今のところオースティンはモスクワ攻略を中断して戻ってこないとの予想だが、本人が来なくとも、少しの増援が送られて来るだけでも痛手だ。


「歯がゆいな。雑魚しかいないのに数が多すぎる。とっととモスクワの連中が連携してくれれば楽だってのに」


「さっきの連中みたいなのがまだまだ反対してるからな。もう一人の転移要員だが、ジャックはどうだろう?スーツ姿だし、顔は化け物だが、彼らへの威圧感も少なくて済む」


「ジャックか。別に構わねぇぞ。アイツ自身も喜ぶだろうしな」


 ジャックの忠誠心はトニーの部下の中でも一、二を争う。元よりいたはずの組員らよりも、トニーの事を慕っているのではないだろうかとウィリアムは感じている。


 文字通り、命がけでトニーの為に尽くしてくれるだろう。スケルトンが死ぬというのもよくわからないので、破壊というのが的確か。

 その身体が朽ち果てる瞬間まで、トニーの側にいようとするはずだ。


「では、カトレアが起き次第ジャックを迎えに行く。彼も日中は出陣しているだろうから、朝になってもカトレアが起きない場合は無理にでも起こして早めに陣に戻ろう。その仕事も俺が請け負っていいのか?」


「あぁ、今度は遅れんなよ。また反対派を呼び寄せて空振りじゃあ、もう説得は無理になる」


 それもこれもカトレア次第だ。


 ジャックに飛んでもらう以上、帰りの転移はもうカトレアに寝ていてもらって構わない。

 つまり一度きりで良いのでカトレアには踏ん張ってもらう必要がある。

 寝ぼけて変なところに飛び、そのまま眠ったりしなければ良いのだが。


「そもそも、カトレアは置いてきてもいいんじゃないか?安静にしておいた方が回復が早いのかどうかも分からないが」


「さぁな、俺にも分からねぇよ。どっちでもいい。連れて行く場合はアジアの街を回る途中か前で、婆さんのとこにも行ってみるか。治せれば飛びやすくなる」


 婆さん、とは大魔女の事を言っているのだとウィリアムは理解した。

 クレムリンの連中を連れたままアメリカ国内に飛ぶということだが、トニーがそれでいいのであればウィリアムからは何も言うまい。


「今度こそ遅れる可能性はほぼ無いが……万が一、本当に万が一にも遅れた場合は、カトレアが妙なところに飛んでしまった場合だけだと承知しておいてくれ。あとは、ジャックが見つからなかった場合か?」


「それなら別の奴を連れて来い。ジャックにこだわる理由はねぇ」


「分かった。では、注意すべきはカトレアの飛び先だけだ」


 予定が決まったところで、カトレアをようやくベッドに降ろす。

 軽いのでウィリアムは彼女を抱えたまま会話していたわけだが、それでも起きる様子はなかった。


「トニーも何らかの理由で魔力が枯渇するとこうなるのか?」


「さぁな。俺らはもともとこっちの連中とは違う。無くなっても平気な気はするが」


 現世出身のトニーの魔術は、いわば後天的なものだ。さらには人間と魔族の違いもある。


 この世界でも、魔力を持たない人間はごまんといる。

 身体のつくりが魔力に頼りっきりで、死ねば塵となる魔族とは違い、人間には身体に秘めた活力がある。


 魔力を失っても平気なのではないだろうか。少なくとも身体は消えないだろうし、死ぬ可能性はないと思われる。

 逆に魔族にとっては魔力の枯渇は生命力に直結しているのではないか、と推察できる。


 つまり、肉体を破壊できなくとも魔力を完全に奪ってしまえば倒せるということだろうか。

 カトレアでさえ魔力が減ればこの通りなのだ。

 無論、魔力を奪う力など持ち合わせていないで直接叩くしかないのだが。


「だが……オースティンにはそれができる。それってのはつまり、俺らが思ってる以上に強力な存在なんじゃないのか?特に魔族にとっては天敵だ」


「あん?魔力を吸い上げる力か?確かに、魔族にとっては弱点でしかないな。だから、こっちは実弾兵器の開発を進めてるわけだ」


「そうだな。やはり人間は魔術なんかより、技術を進歩させるべき生き物なんだよ。こんな世界でもな」


 魔術が発展した世界ではあるが、結局、魔力で魔族には敵わない。


 ウィリアムが当初計画していた、大軍を率いてアメリカに攻め込み、大魔王を討つといった話でも、やはりトニー言う通り技術力が重要になってくるのかもしれない。

 人間側の強者は総じて、魔術よりは剣術や槍術などの武器を使った戦いを主としているのもある意味では正解だ。


 ただ、技術力向上を目指すトニーはあくまで魔族側。オースティンとは敵対しているものの、大魔王は彼の味方である。

 となると、その高めた技術力も人間側に向けられてしまうということか。


 しかし、ウィリアムがこのままトニーの側に肩入れする場合、なんとか融和政策で人間側を取り込むつもりでいる。

 イタリア国王の捜索も、その身を心から案じる以外に、まずはイタリアが人間と魔族の架け橋になれればという思惑もある。


 魔族が統治する形になってしまうが、戦争になって死人が出るよりは良いとウィリアムは思っている。

 この世界の人間たちすべてがそれを良しとは思わないだろうが、現世への帰還を叶えるためにも我慢してもらう他ない。


 その後、戦争になるとしてもそれは彼ら自身の判断だ。冷たいようだが、帰還後は面倒を見てやることはできない。


 バレンティノ兄弟がいなくなったこの世界が混沌と化しても、打つ手はないのだ。出来る限り長い間の平和を望む。


「このガキはお前の部屋で寝せてやれ。起き次第、すぐに行くべきだろうしな」


 嫁の貞操は良いのか、とも言いたくなるが、即座に対応が必要となる緊急事態なのは言うまでもない。

 ウィリアムも、そして夫であるはずのトニーでさえも、カトレアにどうこうしようという気はないので何の心配も要らないのは事実だ。


「分かった。ジャックか、或いは他の者が合流した後は返すぞ。それまで彼女は預かろう」


 ベッドに置いたばかりのカトレアを再度抱え上げ、ウィリアムは隣の客室へと移動した。

 両手がふさがった彼の為に、女団長がついてきてトニーの部屋からの退室時と、ウィリアムの部屋への入室時にドアを開けてくれる。


「すまない」


「行ったり来たりで疲れただろう。早めに休んでくれ」


「あぁ。そうさせてもらおう」


「寝坊の心配はないぞ。私は元気だからな。将軍も伯爵も、必ず起こすと誓おう。カトレア嬢については約束できないが、頑張って起こしてくれ」


 寝ずの番でもするつもりだろうか。ただ、女団長も手持ち無沙汰は我慢ならず、自分の役目を果たそうとしているだけだ。

 ここは甘えておくことにする。


「助かるよ。ではまた明朝に」


「うむ、失礼する」


 カトレアをベッドに置いた後、ウィリアムはソファに横になった。

 まさか兄嫁と横に並んで寝るわけにもいくまい。


 女団長の言っていた通り、平気なつもりではあっても疲労は溜まっていたようだ。城壁を降りたり、陣まで歩いたりと予想以上に身体には堪えた一日だった。


 瞳を閉じる。


……


 眠気はすぐにやって来て、そのまままどろむ。

 朝まで、という事だったので日が昇る前には起きておきたい。そんな考えで眠ったおかげか、まさに夜明け前にウィリアムは覚醒した。


 女団長の手を借りる必要もなかったというわけだ。まだ眠い瞼を擦りつつ、窓を開ける。外はまだ薄暗い。


「さてと……なにっ!?」


 カトレアがいない。血の気が一気に引く。

 寝かせていたはずのベッドにも、その下にも、部屋中どこにも見当たらない。


 攫われたのか、いや、それよりは寝ぼけてどこかへ行ってしまった可能性の方が高い。

 勢いよく扉を開いて廊下に出ると、ウィリアムとトニーの客室の間に立つ女団長と目が合った。


「伯、私が起こすまでもなかったか」


「カトレア嬢がいない!何か知ってるか?」


「あぁ。夜中に起きてきてな。将軍の隣が良いんだと。今は横で寝ているんじゃないか」


 ホッと胸をなでおろす。しかし、カトレアが起きたのであれば女団長はその時にウィリアムを起こすべきではなかったのか。

 とはいえ、夫の側にいたいという乙女の願いを叶えてやる、彼女なりの気遣いだったのだろう。


「そうか。だとしたら無闇に入室は出来んな。しばらく自室で待機しておく」


「いや、それでも頃合いだ。伯も起きたのであればそろそろ一度飛んでもらう必要がある。私が先に様子を見てみよう」


 何を配慮しているのか知らないが、おそらく二人は寝ているだけだ。

 トニーはカトレアが布団の隣に入って来ていることも気づかずに、高いびきをかいているんじゃないだろうか。


 数秒待たされ、カトレアを抱えた女団長が戻ってきた。

 そしてカトレアを渡される。


「伯、あとは任せた」


「おいおい……トニーはどうしてる?」


「まだ寝ておられるようだ。起こすか?」


「ううむ、報告は必要かもしれんが、まぁどちらでもいいか。このままカトレアと飛んでくる」


 カトレアを起こすのは気が引けるが、再チャレンジだ。


「カトレア嬢、何度も起こして悪いが仕事の時間だぞ」


 やはり起きないので、鼻をつまんで無理やり覚醒させる。またこの手を使うことになるとは。


「ぷはぁっ!ちょっとちょっと、閣下ったら大胆!口づけならまた……あれ?弟くん?いやぁぁぁん!あたしに何をしたのかね!?」


「元気そうで何よりだ。一旦、本陣に飛んでジャックを連れて来たい。頼めるか?」


 思っていたよりも回復したように見える。


 廊下で騒がしくしてしまったせいか、メイドが遠くからこちらを窺っているのが分かった。女団長がそれに向けて手を上げ、何でもないとアピールして引っ込ませた。


「あ、え?また戻るの?やだぁ。まだ閣下と寝てたいのにぃ」


「それが終わったら戻してやるから。しかも今回は片道だけでいいんだぞ。帰りは寝てても良い。ジャックか誰かにここまで戻してもらうからな」


「えぇ……弟くんが自分で飛べばいいのにさぁ。人間は飛べなくて大変だねぇ」


「本当にそう思うよ。今度、トニーにも同じことを言ってやってくれ。それで、改めてお願いできないか?日中になって戦闘に入るとジャックも本陣を出てしまうだろうから、あまり時間がないんだ」


 カトレアの頬が膨らむ。不満があるのは仕方ない。


「むぅ……貸しイチだからね!」


「貸し?難しい言葉を知ってるもんだ。だが良いさ。借りておこう」


「んじゃ、ガイコツ君がいるところにしゅっぱぁつ!」


 カトレアがその気になり、瞬間転移を始めてしまえばなんてことは無い。

 手を繋がれたと思ったら、次の瞬間にはトニーの本陣の天幕の前にいるだけだ。


 そして、例によってフラフラになっているカトレアの肩を抱き寄せ、そのまま持ち上げる。既にもう寝ているようだ。


「ジャック!いるか!」


 天幕の中か、それとも外か、とにかくどちらにいても聞こえるように大音声で呼びかける。本人に聞こえなくとも、他の兵に聞こえればよい。

 一緒にジャックを探してもらうなり、いなければその者に追従を命令するなりするだけだ。


「ジャック!どこだ!トニーがお前を呼んでいる!」


「はっ!ここに!」


 二度目の呼びかけでジャックが姿を現す。

 どうやら陣の中にはいたが、天幕からはかなりの距離がある場所で仕事をしていたようで、全力で走ってきたのが見て取れる。スラックスの足元や靴が舞い上がった雪で真っ白だからだ。


「トニーが呼んでる。カトレアと俺を連れてクレムリンの中へ転移だ。即座に可能か?」


「はっ!しかし、猶予がいただけるのであれば、私が抜けることを兵らに伝え、代わりの者を立てたく存じます」


「五分だ」


「ははっ!」


 くるりと振り向いたジャックが、再び雪煙を上げながら駆けていく。

 スケルトンなので重量は軽いはずだが、馬並みの速度が出ているのでちょっとした吹雪のようだ。


「スケルトンの全力疾走はあんなに速かったのか?」


 ジャックは一般のスケルトン兵より腕が立つのは知っているが、速度が出るかどうかなど知らない。

 そんなどうでもいいことを考えながら、一度暖かい天幕の中に入った。


 カトレアをトニーの寝台に降ろす。

 主人の不在だというのに、この中だけは暖かく保つように心がけているようだ。ジャックの配慮に違いない。これならトニーがいつ戻っても問題ないだろう。

 部隊の仕事を引き継がせるついでに、この天幕内の管理も誰かに一任するのだろうか。


 三分程度でジャックが戻ってきた。先ほどよりもさらに雪煙に巻かれている。

 ウィリアムがいたので飛散を抑えるべく、あれでも疾走の速度を抑えていたのかもしれない。


「そんな恰好でトニーに会うつもりか?笑われるぞ」


「はっ!いや、その、しかし替えが」


「ちょっと来い。黒いはずのスーツが真っ白だ」


 替えがないはずなどないが、戦闘で何着かダメにしてしまい、これが最後の一張羅だったのかもしれない。

 ジャックを呼び寄せ、天幕内にあった適当な布で雪を払ってやった。土ではないので汚れも残らず、拭くだけで十分だ。


「おぉ……伯が手ずから、面目次第もございません。感謝いたします」


「いい。それより空間転移を頼む。カトレアは俺が抱えて行こう」


「かしこまりました。それでは、空間転移」


 ズゥ……バリバリバリッ!


 ジャックは天幕の中ではなく、入り口のすぐ外側に転移用の門を呼び出した。

 狭い場所で開くとその中にある物も一緒に運ばれてしまうのだろう。


 であれば、続いているのは客室ではなく王宮前あたりだろうか。

 衛兵を驚かせないよう、ウィリアムが先行した方がよさそうだ。


「伯、どうぞお通りください」


「あぁ、わかった」


 カトレアを抱え、その転移の亀裂をくぐる。

 予想通りというべきか、出口は流石に客室内ではなく、城門の前だった。それも、王宮ではなく、モスクワ外縁部の門の前だ。つまり、街にすら入っていない。


 ジャックが後ろからやってきて、空間転移の亀裂が閉じる。


「おい、ここからだとまだ距離があるぞ」


「申し訳ありません。行けないことはなかったのですが、寸分違わぬ正確な場所は把握できず。一度、街の中に入り、中央にある宮殿の正門が見えれば次はそこに飛びます」


 場所を見知っている方が正確に飛べるというのは納得だ。というより、カトレアの転移速度と精度が異常すぎるだけなので批判するのはお門違いである。


「うおっ!?魔族!?」


 城門の上にいる門兵が驚いている。ウィリアムも見知らぬ顔。説明が必須である。


「驚かせてすまない!我らはモスクワに味方している側の集団だ!誰か責任者を呼んできてもらえるか!?」


 上に向けて叫ぶと、兵は顔を引っ込めた。攻撃されなかったので、要求通りに誰かを呼びに行ってくれたようだ。


 すると今度は見知った顔が上からやってきた。

 世話になった、あの分隊長だ。しかし、ウィリアムが通ったのはこの門ではなかったはず。時折、持ち場を交代して気分転換でもしているのだろうか。

 ともかく顔見知りがいるのは僥倖だった。


「おー、アンタか!また会ったな!」


「こっちのセリフだ!だが助かった!今回は見ての通り。スケルトンが一体いるんだが、入城は出来るだろうか?」


「スケルトンだぁ?それは難しいんじゃねぇか!そうだな……まるで俺が人間だと勘違いしてしまうような仮面はないのか?」


 それとなくジャックが街に入れそうなヒントをくれる。そしてカトレアを連れ、何度も出入りを繰り返している理由は特に訊かれない。よくできた人間だ。


「仮面か……陣内にはないと思うが、ジャック、何か案はあるか?」


「包帯などで目出しの状態にするのは如何でしょう?目元を凝視されたらまずいですが」


「それでいこう。おーい!コイツが顔に大やけどを負ってしまってな!包帯など融通してくれると助かるんだが!」


 当然ながら、例の分隊長もその意味を即座に察する。


「なんだって!そいつは大変だ!一巻き分、そっちに放るから受け取れ!」


 上から落とされた包帯で、ジャックの顔をぐるぐる巻きにする。

 ウィリアムがコーディネートしてやるしかないので、カトレアはその間だけジャックに抱えさせた。


「うん、こんなもんか?」


 首とその上は目元以外、それも片目以外は完全にふさぐ。

 口や鼻の部分が空いていないのも怪しいが、鼻は削げ、唇も消えるほどの大やけどで見るに耐えないと言って通すしかあるまい。


「伯、ありがとうございます」


「ハットは深くかぶっておけ。サングラスでもあればいいんだが、目だけはどうしても空洞だからな」


「はっ!」


 サングラスなどジャックは知るはずもないが、いちいちそれが何かと訊いてはこない。

 トニーも幾度となく同じようなことを言っているはずだ。例えば、電気があれば、電話があれば、自動車があれば、と。


 ギィッ……


 今回は城壁を登るような必要はなく、分隊長は城門の袖にある小さな勝手口を開けてくれた。

 戦闘が始まる前の時間帯は少しルールが緩いらしい。


「おうおう、こりゃ人間にしか見えねぇな。俺が誤って通してしまっても仕方がないというわけだ」


「何から何まで世話になってすまないな」


「なに、飲み代の礼さ。それよりも、絶対にバレるなよ。そして、仮にバレても俺に責任なんか押し付けるんじゃねぇぞ」


「もちろん、そんなことはしないさ。俺がアンタを騙して通した。それだけだ」


 それでも多少の罰則はこの分隊長にかかるかもしれないが、首が飛ぶなんてことは無いだろう。そもそも、ジャックは入城したからと言って何か粗相を働くような人物ではない。普通にしていれば正体がバレる方が難しい。


「ジャック、どのあたりまで歩けば次の転移ができる?」


「王宮の正門が良く見えればいつでもいけます」


「王宮が良く見える場所……か。城壁の上ってのは王宮の正門は見えるのか?」


 もしそれが可能であれば最短で飛べる。


「いや、見える場所もあるが、この真上は無理だな。ぐるっと壁の内周を東にでも回って見える位置に来たとしても、城壁に上げるわけにはいないと断られるぞ」


 当然の話だ。この分隊長が協力的過ぎるだけなのだから。他でそれが通用するはずもない。


「であれば少し歩くしかないな。貴族街まででも行けば、嫌でも見えてくるだろう」


「そうなるな。正体がバレないように気を付けていくんだぞ」


 歩きとなるとまた時間がかかる。トニーにどやされなければ良いが。


 そして、今回は車は出してくれないらしい。全く期待していなかったと言えば嘘になるが、前回よりも移動距離は少ないのでわざわざ頼みはしない。


「ジャック、カトレアを頼めるか。俺が先導する」


「はっ、承りました!」


 いくら軽いとはいえ、子供を長時間抱えておくのは腕が疲れる。疲れ知らずのスケルトンにバトンタッチだ。

 そして、カトレアを抱えさせておくことによって、移動中にジャックの顔が少しうつむいた状態でいるのも多少は自然になる。つまり、目にぽっかり空いた穴が見破られにくいというわけだ。


 分隊長に見送られ、ウィリアムたちは街の中へ。ただ、やはりスーツとコート姿の外国人は目立つ。遠巻きには見られているので、ジャックはますますハットを深くかぶり直した。


 目も完全にふさいで盲目を演じても良かったが、それではジャックの視界は完全に失われるので危険だ。穴だから見えていないわけではなく、スケルトンは人間と同じく目の部分で視界を認識しているのだから。


「うぅむ。幼子を攫う怪しい二人組ってところかもな」


「申し訳ありません。自分が姿を変える幻術でも使えればよかったのですが。もしくは、一度で目標地点に飛べるほどの転移術が使えれば」


 幻術や奇術の類はウィリアムは良く知らないが、眠っているカトレアは姿も自在に変えられることは把握している。

 転移術も彼女の得意領域なので、本当に魔術に関してはスペシャリストなのだと分かる。


「別にお前は魔女じゃないだろ。何でもできてしまっては魔術職の連中の顔が立たないぞ」


「確かに仰る通り。いち兵士の立場をわきまえずに、多くを望んでしまったようです」


 いち兵士というには将軍の側近は栄誉ある立場だと思われるが、ジャックがそう思っているのであれば天狗になるよりマシだ。


「俺やトニーは転移術すら使えないんだ。何でも比べれば良いってもんじゃないな」


「お二方は屈強な戦士であり、優秀な指導者ではないですか」


「なんだその評価は。俺らが戦士だって?」


 思わず足を止めて振り返る。

 トニーもウィリアムも、戦いはするが鍛えているわけではない。人を使い、銃を使い、現代的な考えに基づいて相手を倒しているだけだ。

 しかし、それも魔族からしたら立派に見えているらしい。


「えぇ。閣下の話にはなりますが、あのお方は多くの敵を倒してこられた。我ら魔族にとってそれは称賛に値します」


 基本的には強さこそがその者の立場を決める。シンプルだ。


「本人は身に降る火の粉を振り払っただけだと思っているんだろうがな。ただ、そうだな……トニーは確かに強い。戦士としてではなく、人としてな。俺はそう思っているよ」


「人として……」


「あぁ。彼ほど逆境を気にも留めないやつを見たことがあるか?絶望しそうな状況でも前だけを見ている。悩みなんてのは似合わない男だ。そんな男を兄に持てて誇らしいよ」


 ウィリアムがトニーと反りが合い、今までも支えてこられたのはこの部分にある。控えめなウィリアムからすれば、豪快な兄は輝いて見えた。そして、意外にも人情味が強い。

 お互いにイケイケであれば兄弟が競い合う形になって、組も分裂していたのかもしれない。


「閣下が悩まれている様子……そうですね、閣下は常に何ができないかよりも、何をやるかを考えておられるご様子」


「分かってくれて嬉しいよ。兄の期待に応えるためにも今は早く合流しないとな。それでは進もう」


 身体を王宮の方角へ向き直し、再び歩き始める。

 心なしか、即座の転移が出来なかった自分を責めていたジャックの足取りも、いくらか軽くなったように思える。


……


「伯、ここならば王宮前まで行けそうです」


 平民街を抜け、軍部へ。さらに歩く必要があると思っていたが、ジャックはここで大丈夫だと判断したようだ。


「正門自体は見えていないが?」


「問題ございません。正門の真ん前とはいきませんが、かなり近い位置に飛べる自信があります」


「そうか。王宮の近くであれば文句は言わないさ。こっちへ」


 瞬間転移と違い、通常の空間転移は目立つため、一度路地裏に入る。


 しかし、ここでトラブルが発生する。

 裏路地へ入る怪しい集団。二人組で女児を抱えている彼らが目立たたないはずもなく、兵士の一団が追尾してきたのだ。


「そこの者、止まりなさい!」


 警笛を吹き、責任者らしき兵士が制止命令を飛ばす。

 止まって説明しても良いが、王宮の兵士や城壁の分隊長に確認を取るだけでも時間がかかる。となれば、強行突破だ。


「ジャック、転移で振り切れるか?」


「難しいかと。発動中に追いつかれて、一緒に飛んでしまうやもしれません」


 それはないのではないかとウィリアムは予測する。果たして、突然現れた見慣れない空間の亀裂に飛び込めるだろうか?


「やってくれ。俺が少し引き止めてみよう」


 舌戦はウィリアムの十八番だ。後ろで怪しい魔術が発動される中、こちらに近寄らせないくらいの事はやれる。


「待て!貴君ら、こちらにあまり近付くと危ないぞ!」


「なにっ!?どういう意味かね!こんな場所で何をしているんだ!」


 注意深くこちらを観察しながら、兵士ら数人は距離を詰めれずにウィリアムと対峙した。ジャックは転移術の発動を開始している。


「な、魔術だと!?まさか、魔族か!人間の子供を攫おうというのかね!」


「全く違う!俺は人間だ!とある高貴な御方の命によって王宮に向かうところである!」


 嘘くさくてかなわないだろうが、一つも嘘をついていないのが面白いと、ウィリアムは暢気な事を考える。


「王宮?王宮に遣える魔術師だとでもいうつもりか!そんな怪しい風体をしておいて!」


「怪しいのは認めるが、人攫いをしているのではなく、保護をしているのだ!犯罪行為であればわざわざ貴君らの目の届く場所を通る意味がないだろう!」


 兵士らは今か今かとこちらに飛びつく号令を待っているが、責任者は迷っている。もし王宮の関係者であれば彼の判断は問題となるからだ。


「伯、行けます」


「分かった。おい、悪いことは言わない!我々の事はこのまま見逃してくれ!あとで王宮にいる者に確認を取ってくれても構わない!王宮に出入りしている証言は得られるはずだ!火急の用事なので失礼する!」


 そして踵を返し、先にウィリアムが、続いてカトレアを抱えたジャックが空間転移の亀裂へと入った。


 目の前には王宮の正門、後ろで閉じる空間転移、追跡の手はなさそうだ。


「なっ!?」


「あー、えーと」


 今度は門兵への説明だな、とウィリアムが嘆息する。

 しかし、その必要はなくなった。


「なんだ、見た顔だと思ったら。しかし急に現れるのは頂けないな。それは魔術か?」


 ここは何度も出入りしているのだ。門兵が交代していない限りはこういった反応になる。


「あぁ、悪い。急ぎだったもんでな。移動用の魔術を使わせてもらった。それで、通ってもいいか?今回は従者もいるんだが。こんな怪しい風体でも害はない」


「もちろんだ。止めたらこっちが怒られてしまうだろう。それに、怪しいのは最初からだ。今さら気にすることじゃない」


「はは、俺も似たようなもんだってか。ところでさっき、街で兵士に追われてな。逃げるように魔術で飛んできたんだ。行先だけは答えたので、もしかしたらここに来てないかと訪ねてくるかもしれん」


「承知した。客人だから心配ないとでも返しておこう」


「恩に着る。ジャック、行くぞ。こっちだ」


「はっ!」


 クレムリン王宮内に入り、奥へは進まず客間の方へと曲がる。

 見ていないので分からないが、皇帝や皇族、重臣らはおそらくそちらにいるはずだ。さすがにそちらへ向かおうとすれば止められるかもしれないが、客間へと向かうウィリアムたちを止める者はいない。


……


「ようやく仕事がひと段落だと思ったんだがな」


「良く戻った。安心しろ。ここからはお前の仕事じゃねぇぞ、ウィリアム」


 トニーのいる客間には、既に反対派が勢揃いの状態だった。


 ソファに座るトニー、後ろに控える女団長。対面に座るモスクワの騎士団長、イワン、ジノヴィエフ卿、他にも知らない人物が数人。そのほとんどが険しい顔をしているので、魔族との友好関係への反対派であるとみて間違いない。


 表情がいくらかマシなのはイワンと騎士団長だ。軍部の人間は魔族との接点も多いからだと思われる。


「じゃあ早速、今回の旅行の説明に入るぞ」


 旅行、というトニーの言葉を聞いて反対派の一同からは驚きの声や呆れの声が上がる。


「旅行なんて軽々しいものでは無かろうに!」


「そうだ、我々は命がけなのだということを忘れるなよ、魔族め!」


 ジノヴィエフ卿が吠え、それに続いて初めて見る中年の貴族の男が言った。


「あ?あんまり舐めてると置いて来るぞ。お前らが納得するまで、俺の持つ領地を半日回ってここへ戻ってくる。その日帰り旅行を何か国かに渡って続けるつもりだ。要は根競べだな」


「ふん!どうせ煌びやかな大都市ばかり選んで、貧しい村々は見せぬつもりだろう!」


「それが望みならそっちも見せてやるよ。だが、まずは腹ごしらえに上海辺りにでも行くか。海鮮がうめぇぞ」


 トニーはどことなく楽しそうだが、一同からはさらに呆れたような声が返ってくるだけだ。


「だから……我々はそんなお気楽な考えではないと申すに」


「しかしまぁ、ジノヴィエフ卿。せっかく外国に、それも魔族が治める地にいけるのですから、良い経験であることには違いありますまい?」


「団長、なぜ貴殿はそうもこ奴らを信用できているのかね?全く、軍人の考えは理解出来んな!」


「ただ、こちらも思わぬところがないわけではない。バレンティノ将軍、滞在は小一時間と聞いていたんだが、半日とは?それに、連日それを繰り返すつもりというのも聞き捨てならんな」


 ここは丸め込めなかったか、とトニーが嘆息する。


「簡単な話だ。一度行けば、むしろそっちから何度も連れて行けと頼むようになるぞ。こんな雪国の、それもどこの国とも繋がってないような大陸にいたんじゃ、そのくらい刺激的な体験になるだろう」


「ほう、大した自信だな。しかし我らも暇ではないのだ。仮に貴殿が治める街で素晴らしい体験ができたとしても、そうなる未来は想像できんな」


「その通りだ!我らを懐柔できるなどとは思わんことだな!」


「……ったく、皇帝や皇后はそれを望んでるってのに、そっちも配慮してやれよ。街が良いものだったら良い、悪いものだったら悪い。そういう公平な判断が欲しいもんだな」


 言いながら、トニーはいよいよジャックの方へ視線を送った。

 命令を受ける前に、ジャックが転移術を開始しようと身構える。


「あ?なんだ、ジャック。そのツラは?」


「あ、はい。素顔を出すと目立つからと浅慮いたしました」


「俺がジャックの顔を隠してやったんだよ、トニー。気に食わないとしても彼を責めてくれるな」


「ふん。ジャック、転移門を出せ。ここにいる連中全員を一度で飛ばす。目標は上海だ」


「はっ!承知いたしました!」


 ウィリアムのカットインで、それ以上は突っ込まれずに何事もなく進む。


 ウィリアムがカトレアを受け取り、包帯で顔面がぐるぐる巻きのジャックが空間転移を発動。室内だが、仕方あるまい。いくらか調度品が転移に巻き込まれたら後で持ち帰るしかない。


 その時になって初めて、反対派の連中はジャックが人間ではないと気づいたようだ。厳密に言えばカトレアもそうだが、見た目では人間にしか見えないので気づくはずもない。


 ズゥ……バリバリバリッ!


「閣下、お待たせいたしました」


「おう」


 先頭はトニー。ゲスト全員を見送ったら最後にウィリアムや女団長、ジャックが入る。


……


 ズゥン……


 一同はトニーの希望通りに上海の街へ。ジャックが気を利かせたのか、城内ではなく飲食店が立ち並ぶ繫華街に降り立った。


 突如現れた空間転移と大勢の人間に、通行人は驚きそうなものだが、頻繁に空間転移で街に出入りする魔族の兵士や組員らのおかげもあって、混乱は一切起きない。

 一瞥こそされるものの、「また誰か来たみたいだ」といった程度のものである。


 しかし、今回は違った意味での混乱が起きる。


「なっ!?バレンティノ将軍閣下!?」


「本当だ!バレンティノ将軍ではありませんか!」


 通行人の男の一人がトニーの顔を見知っていたようで、跪いてお辞儀をし始める。そうなると人が人を呼ぶ形でちょっとした騒ぎになってしまった。


「お久しゅうございます、閣下!」


「しばらくお顔を見なかったので、皆で将軍はお元気だろうかと話しておったところです!」


「そうか、俺も暇じゃねぇんでな。長らく空けて悪かった。許せ」


 跪く民草の肩をやさしく叩く。このトニーの行動に驚いたのは反対派の連中だけではなく、ウィリアムもだ。ここまで優しい声をかけるのは意外だった。


「彼らは……?」


「あ?見ての通り、この街の住民だ。中国人だな。そうか、アジア系の人間を見るのが初めてか。こいつらは魔族じゃねぇぞ」


 質問したのは騎士団長。だが、トニーは質問の意図をはき違えている。

 おそらく、どうしてこんなに慕われているのかを聞きたかったはずだ。


「それより腹ごしらえだ。今回はお前らの腹を満たすのが目的だからな。来い。この辺りに並んでるのは美味い店だらけだぞ」


 煌びやかな中華料理店が建ち並ぶ通りを、トニーを先頭、ウィリアムが最後尾で一同が歩き出す。


「すごいな、外国というのはこんな街並みなのか。人々の顔も全く違う。将軍も釘を刺していたが、我らから見れば魔族と見分けがつかんな」


「それよりも、暑くないかね騎士団長。よくこんな土地で生きていられるものだ。やはり人間ではないのではないかもしれん」


「それはないでしょう。街を作り、店を出す魔族なんていますかな。奴らは人を取って食うだけの蛮族だという印象ですが」


 騎士団長とジノヴィエフ卿の会話。

 万年寒い地域で暮らしていると、適温ですらも暑いと感じてしまうものらしい。行き交う人々に対しても興味津々だ。


「え、閣下!?それにカトレア様も……っとお休み中でしたか。大声を出して申し訳ありません」


「おう、親父。空いてるか?これで全員だ」


 行きつけ、というほどには最近通っていないかもしれないが、店先に立っていた顔なじみの中華料理店の店主に声を掛けられ、トニーはそこへの入店を決める。


 普通の中華料理店であればウィリアムも文句ない。トニーに限って変な店は選ばないという保証もある。むしろ、ウィリアムよりトニーの方が美食家だ。


「えぇ、もちろんでございます!……ひぃ、ふぅ、みぃ、全部で十名様ですね。個室にお通しできますよ。どうぞ!」


 雑多な大広間ではなく、個室を準備してくれるようだ。


「繁盛してるはずだが、お前は外に立つ余裕があったのか?」


「はは、おかげさまで人を雇える程度の盛況っぷりでしてね。厨房は若いのにやらせることも多いんです」


「あぁ?不味かったらタダじゃおかねぇぞ」


 個室に案内される間、トニーと店主がそんな会話をしている。


「閣下とお連れ様の分でしたら私が自ら調理しますのでご安心を!」


「そうか、親父の腕なら信用できる。ただ今日は見ての通りガキは寝ててな。コイツが食わねぇ分は差し引いとけ」


 カトレアは良く食う。それはウィリアムも知っている。いつものような量は作らなくていいから、さっさと料理を出せというトニーの言い分もわかる。


 ただ、カトレアが匂いにつられて起きてしまいそうな気もしている。その場合は誰かの分が食い荒らされるだろう。ご愁傷さまだ。


「中華料理店は久しぶりだ。楽しみだな、トニー」


「おう、俺も久しぶりだからよ。好きなだけ食え。親父、蟹は出るか」


「えぇ!活きのいい上海蟹がありますよ!甲殻類がお望みでしたら海老も大盤振る舞いしましょう!」


 ゴクリ、とウィリアムの喉が鳴り、トニーが笑う。


 トニーの部隊に参陣し、戦場での食事がしばらく続いていた。決してそこでの飯もまずくはなかったのだが、専門店となるとやはり格別だ。


「蟹だの海老だの、知らない料理ばかりだが、どんな食べ物なのだ?」


 モスクワの騎士団長から質問が飛んでくる。隣のジノヴィエフ卿も料理の内容は気になっているようで同調するように頷く。


「見たことがないのなら説明が難しいな。食べる方が早いと思うが。見た目は脚が多くて、デカい虫に見えないこともないので驚くかもな。しかし味は絶品だぞ」


 ロシアに魚料理がないわけではないが、海水魚よりは淡水魚を使ったものが多い。海が凍って海洋漁業のできない時期が長いことが関係している。


 そして、ウィリアムの回答の中に虫という単語が出たので騎士団長はギョッとしたところで、個室に到着する。


「さぁ、こちらのお部屋へどうぞ。今、食前酒をお持ちします」


「おう、頼むわ。みんな適当に座れ」


 中央の天板が回る仕組みの大円卓がある個室。丁度、十人掛けの卓だが、カトレアが寝ているのとジャックは食事を必要としないので、椅子にかけるのは八人だ。

 上座などないので各々がバラバラに座る。ウィリアムも、トニーの近くではなく最も遠い対面の席に座った。


 ジャックはカトレアを抱えたまま、入り口辺りに待機している。


 卓や椅子、室内の調度品などを珍しがって見ている者。

 トニーやウィリアム、そしてジャックを油断なく観察している者。

 ただただ、料理を楽しみにして腹をさすっている者。反応は様々だ。


 店主の手によって、まずは紹興酒が運ばれてきた。ロシアの代表的な酒であるウォッカに比べれば弱いが、それでもアルコール度数がきつい酒だ。


「では乾杯を。ウィリアム」


「俺で良いのか?」


「御大層な口上は得意だろ」


 乾杯の音頭を振られたウィリアムが、咳ばらいを一つして立ち上がる。

 お偉方の前だ。即興で、それらしい口上でも並べるしかあるまい。


「では、皆々方。この度はよくぞ我が魔族の領地、遠く中国は上海の街までお越しくださった。異国の地の料理と酒を存分にご堪能あれ。両陣営の友好と、繁栄を願って……乾杯」


「「乾杯」」


 返答をする者と、無言で杯を掲げるだけの者、盃に手すら伸ばさない慎重派もいるようだが、とにかく宴会が始まった。


……


「ほう、この酒。癖が強いな。苦味と酸味を同時に感じる不思議な酒だ」


 初めて飲む酒に感想を漏らすジノヴィエフ卿。飲み慣れているだろうウォッカは度数こそ強いが風味は薄いので、紹興酒の独特な味わいが気になったようだ。


「気に入らないか?他の洋酒を頼んでも良いぞ」


 ウィリアムが提案するも、ジノヴィエフ卿は首を横に振る。不味い、という意味ではなかったようで安心だ。

 ワインやブランデーのような甘みのある酒に慣れている人間であれば、砂糖を欲しがっていたことだろう。


「酒もいいですが、やはり料理が気になるところですな。ジノヴィエフ卿?」


「ふん!酒や飯が美味いから何なのだ。作っているのは人間ではないか。魔族の手柄ではない!」


 それを統治しているのがトニーだという話なのだが、ジノヴィエフ卿の心を動かすのは難しそうである。


「閣下、伯。カトレア様が……起きられるやもしれません」


「む、まずいな」


 トニーは聞いていないが、ウィリアムはジャックがポツリとこぼしたのを聞き逃さない。今は酒しか出ていないものの、やはり匂いを感知したようだ。

 そしてジャックの言葉に、バッとジノヴィエフ卿が身体ごと反応した。


「伯……?あの魔物、貴様の事をそう呼んだのか?」


「あぁ、名ばかりの爵位だ。気にするな」


「ふ、ふん!人間の貴族の真似事とはふてぶてしい!貴様らは兄弟らしいが、兄が将軍などやっておって、弟が似非の伯爵とは珍妙だな!」


 確かに爵位は兄が継ぎ、弟が軍人という方が一般的だ。少し悔しいのだろうか、ジノヴィエフ卿は精一杯の虚勢を張っている。


「お待たせいたしました。八宝菜でございます」


 ウィリアムが苦笑しているところに、まずは前菜とでも言うべき、野菜料理が運ばれてきた。

 野菜料理とはいえ、油で炒められて餡を絡めた濃い味付けの一品。美味そうな香りが漂ってくる。


「んんんんん!あぁぁぁぁぁぁっ!」


「あぁっ、カトレア様!飛び降りられては危のうございます!」


 お嬢様が覚醒。注意するジャックの手を振りほどき、空いている席に陣取った。

 今度は店主が苦笑いする。


「おや、カトレア様。おはようございます。どうでしょう、閣下。追加で調理いたしましょうか」


「……あぁ、頼む」


 頭を抱えるトニー。カトレアが大喰らいなのを知らないモスクワ側の人間たちは、子供を見る目でほっこりとした表情になっている。


……


「んむ、んむ、おいしいぃぃ!」


 次々と大皿が空になり、先ほどまでの視線は一変。カトレアを見る目は、まさに化け物を見るそれだ。八宝菜は皆で取り分けることができていたが、その後から運ばれてくる料理は、カトレアがほぼ独占している状態だ。

 幼子がやることだからとモスクワ側からは誰も咎められなかった結果である。


「なんということだ、楽しみにしていた蟹や海老が……」


「手を付けられませんでしたな。しかし、卿。楽しみにしていたとは?」


「う、ううん!楽しみにしてなどおらんわ!気になっていただけである!」


「え!?ごめん、あたし食べ過ぎちゃったかな!いっぱい寝てお腹すいちゃったの!」


 店主の次の入室時に、トニーが依頼する。


「親父、見ての通りだ。あり合わせで構わんから、もっと料理を持ってきてくれ」


 先に気を利かせて追加してくれたのに、それでも足りなかったのだ。

 贅沢な品よりは簡単なもので、もっと量を作るように依頼する。


「はい、かしこまりました!これでも足りんとは、やはりカトレア様は育ちざかりですなぁ!しばしお時間いただきますので、先にお酒の替えを多めにお持ちしましょう」


「頼んだ。おい、ガキ。そんだけ食えればもう全快と言っていいんだろうな?」


「えー?まだまだ元気ないかもぉ!」


「はぁ?嘘ついてんな、お前」


 睡眠や食事が魔力の枯渇にどれほど寄与するのかは分からない。しかし、この食べっぷりはトニーの目から見て仮病にしか感じられないのだ。


「ついてないって!お腹ペコペコなのは本当なんだって!身体がご飯を欲してるの!」


「そうかよ。だったらまずは満腹まで食ってみろ。そんで寝ろ。起きた時にまだ全快じゃなかったら、婆さんに診てもらいに行くぞ」


「えー?おばあちゃんにー?治せるのかなぁ。魔力貰えって事でしょお?」


 なにせ、カトレアの魔力量は膨大だ。大魔女があらゆる手を尽くしても完全回復までは長いのかもしれない。大魔女の魔力を奪ってしまうわけにもいかない。ただそれでも、行くべきだろう。


「将軍、カトレア嬢の空腹はここで満たすとして、店を変えてはどうだ?他の面々にはやはり一級品を食べさせてやるべきではないだろうか」


 女団長がそう進言する。彼女自身も楽しみにしていたはずの料理に手をつけられていないので、願望も込められていそうだ。


「そうだな……だったら他の店の自慢の品を、ここまで運んでもらえばいい」


 ライバル店の料理を出前してもらうなど、普通では考えられない。

 だが今はこの店の食材不足であるという緊急事態であり、中国全体を治める領主であるトニーの意思でもある。


「親父、ガキに食わせる分は任せる形で良いんだけどよ。こいつらの方は俺の客なんだ。別の店からでもいいから、一級品を持ってきてもらっちゃくれねぇか」


「はい?それはつまり……あぁ!食べ損ねた分をこちらの方々に、ということですな!わかりました!確かにウチはカトレア様の分で手一杯ですから、他の店に注文に行かせましょう」


「いろいろとわりぃな」


「なんのなんの!せっかくのご来店ですからな。他店の力を借りてでも、皆様には是非喜んでいただきましょう!」


 あくせくしている店主に相談すると、快諾してさっそく他店に遣いを出してくれた。


……


 新たに運ばれてくる、カトレア向きの簡単な料理と、他の一同への出前の品々。元は女団長の提案だが、モスクワの面々、そしてウィリアムにも喜ばしい結果となった。


「確かに見た目は悪い……しかし、身に弾力があって悪くはないな」


「卿、正直に美味いって言えば良いんじゃないか」


 ジノヴィエフ卿は斜に構えているのに対し、イワンは正直に海鮮が気に入ったようだ。彼らしく、豪快にバリバリと多少の殻は剥かずに海老を食べている。


「いっぱい!おいしいぃぃ!」


 カトレアに出されているのは卵や野菜、豚肉、米などを簡単に炒めた料理ばかりだが、その量が途轍もないので満足しているようだ。

 延々と供給され続けているので、他の料理に手を伸ばしてくることはない。


「言ってることは普通なんだが、やはり食べる量が子供じゃないな。可愛らしいと言えるのかどうか甚だ疑問だ」


「えー?弟くん、あたしの事を可愛いと申したのかね!美少女魔術師カトレアちゃんとはよく言ったものだねぇ!」


「……そうは言ってないな。ただ、都合のいいところだけしか聞こえていないようで何よりだ」


「でしょぉ!へへーん!おいしいぃぃ!」


 ウィリアムの言葉もこの通り全く通用しないので、彼女の事を良く知らない周りは最早、何も言えないでいる。


「で、おっさんら。まずは料理から堪能してもらったわけだが、不満はあるか?あぁ、出前になってしまったことは言うなよ。このガキの暴走はイレギュラーだ」


 おおよそ、皆が食事を終えたところで、トニーがモスクワの反対派の連中に尋ねる。


「自分は満足できましたよ。将軍、感謝する」


「俺もだ。外国のメシってのはここまで美味いものなんだなと驚かされたぞ」


 騎士団長とイワンの言葉。

 現世では隣国であるはずなのに、この世界でのロシアはオーストラリアのような独立した大陸になってしまっているので、他の国の食べ物とは無縁となっている。イワンのような感想が出るのも尤もだ。


「飯は旨いとも。だが、それがどうしたと何度も言っているだろう」


「そうだ!こんな接待程度で、貴様ら魔族と友好的になってやると思うなよ!」


 ジノヴィエフ卿の手厳しい意見に、同調する者も見られる。肯定派と否定派は半々といったところだ。


「そうか。ではまだまだ満足できねぇって連中は俺と、飯が気に入ったって奴はウィリアムと行動だ。ガキもそっちに連れていけ」


 トニーの提案にウィリアムは首を傾げる。引率するのは構わないが、何をするつもりなのか。


「ウィリアム。お前は言った通り、この騎士団長たちと女子供連れて、街を案内してやれ。菓子屋、服屋、酒場、賭場だって好きなように回っていい。金は後で俺に請求しろ」


「あぁ、わかった。トニーは?」


「俺はこの頑固おやじたちを連れて別行動だな。ちょいと野暮用だ」


 これでピンときた。おそらく向かうのは娼館だな。幸いなことに、否定的な面々は全員が中年以上の男たちだ。良い女を宛がって、楽しい気分にさせてやろうという魂胆に違いない。


「そっちは大変だと思うが、こちらはのびのびと上海を回らせてもらうよ。集合場所や時間は?」


 女を買うのを大変などとは思っていないが、カトレアがいる以上、こういったブラフも必要だろう。


「気にしなくていい。お前らの方が長くかかるだろう。そこに俺が向かう」


 ウィリアムが観光でどのあたりを回るのか、トニーには予測できているらしい。繁華街は固まっているので探すのも苦労しないという意味だ。


 しかし、トニーが人を呼び寄せるのではなく、自分から向かうというのも珍しい。

 娼館に行った直後なら、そのくらいのことは気にならないくらい上機嫌なのかもしれないが。


「えー?あたしも閣下と行きたいー!」


「ダメだ。てめぇはウィリアムたちと一緒になんか食ってろ。こっちに来ても食い物は出ねぇぞ」


「えー?そうなのー?わかったー」


 トニーと居たい気持ちより、食べ物への欲の方が強いか。

 カトレアがいてはトニーの仕事は完遂出来ないので、責任を持ってウィリアムが捕まえておく必要がある。


「あっちは仕事だから退屈だぞ?さぁ、では俺たちも行こうか。まずは甘味処でも探すとしよう」


 ウィリアムを筆頭に、女団長、カトレア、モスクワの騎士団長とイワンの五人である。ジャックは主であるトニーの方の護衛に戻った。

 女を相手している間は無防備なので、彼があちらにいるのは安心だ。


 商店や飲食店が多く、甘味処と言ってもたくさんある。ここはウィリアムよりも、それとなくカトレアに決定権を与えて店を選んでもらうことにした。


「カトレア嬢、あの店は何を売ってるんだ?」


「え?あ!杏仁豆腐だ!」


「気になるならここにするか?」


「うん!」


 中華料理店でも杏仁豆腐くらいは食べられるのだが、専門店の店先に座って食べるのが観光の醍醐味と言うものだ。


「どうした、イワン。食べないのか?」


 軒先のベンチに横掛けで座るが、イワンだけは手渡されたデザートを見つめて黙っている。


「いや、これは甘味なのだろう?どうも、甘いものは性に合わんでな」


「無理に食えとは言わんさ。代わりに茶でも出してもらおう。カトレア嬢、このおじさんは食べないらしいから食ってやれ」


「えぇ!?ラッキー!」


 ひょいと伸びてきた小さな手がイワンから杏仁豆腐と匙を奪い取る。当然ながら、自身の分はすでにぺろりと平らげた上での犯行だ。


「まったく、この少女の腹は底なしだな」


「同意見だ。まぁ、育ち盛りと言ってやれ。あくまで見た目は可憐な少女だからな。魔族って事を除けば」


「一人でこれだけ食うんだ。貴様らの部隊の全体の食糧が気になるな」


 屈強な魔族の兵であっても、カトレアほどは食わない。


 ウィリアムは、彼女が常に膨大なエネルギーを必要としているせいなのだと予想している。

 本人に聞いても近い答えが返ってくるだろう。特に今は弱っているので、平時よりさらに食っている印象だ。弱っていて食欲が減退するのではなく増強するのは魔族の所以か。


「多くはない、と思う。一般の兵士は至って普通の量だ。彼女は特例だな。魔族きっての魔術師だと燃費も悪いのさ」


「魔族の中でも指折りに強い、という意味だな?それも見た目に寄らんか。まったく、貴様らは困った種族だ」


「同感だよ」


「はっ、他人事みたいに言いやがるもんだ」


 イワンの為に烏龍茶が運ばれてきた。それをすすり、これまた知らない味だと唸っている。


 そして、魔族に関する情報はウィリアムにとって他人事。これも事実であるのだから仕方ない。陣営として魔族側に立っているのは間違いないので、別世界の人間であるとは説明などしないが。


「これまた不思議な料理だ。柔らかく……いや、柔らかいなんてもんじゃない。ほとんど液体です」


「騎士団長殿は杏仁豆腐を気に入ってくれましたかね。ゼリーやヨーグルト、プリンにも近いですが、ロシアにはありませんでしたか」


「えぇ、そのどれも知りません。ただやはり、これで我らの考えが覆ると思っているバレンティノ将軍のお気持ちは分からないな。せいぜい文化交流が出来た程度でしかない」


 それでいいのだ。

 特に今、ウィリアムの前にいる騎士団長とイワンはほとんど中立くらいの気持ちになっているように見える。強く反発していた方の面々はトニーが何とかしてくれる。


「文化交流で良いんですよ。まずはこちらの暮らしを知ってもらえれば、相手国にも生きた人がいることを知ってもらえれば、対話するきっかけにはなります」


「そうでしょうか。ただ、戦っている魔族と、あなた方とでは違うというのは確かに理解しました」


「よし、では甘味はこのくらいで。次は服でも見に行くとしよう。中国の服は煌びやかで面白いものが多いんですよ。お土産に好きなだけ選んでくれて結構」


「わーい!お洋服!あたしも買っていいよね!」


 甘味処の次は服屋へ。ここは騎士団長とイワンより、随伴している女団長、そしてカトレアの方が嬉しそうだ。


……


 服屋には派手なチャイナドレスもあるが、日常生活用の漢服も売っている。煌びやかな前者は女性陣が、後者は道行く人が着用しているので男性陣が興味を持ったようだ。


「身軽そうだがやはり薄いな。ロシア国内で着るならば部屋着が関の山か?」


「団長、奥様に一着持って帰ってはいかがです」


「それを言うならイワン、君も奥方に贈るのに適切だよ。派手なドレスもあるじゃないか。この刺繡は何だ、蛇か?」


 騎士団長が指さすのは、蛇ではなく龍の金刺繍が縫い込まれたチャイナドレスだ。生地は光沢を放つ赤い絹糸で、非常に高価な逸品である。


「やめてください、こんなピカピカした服なんか持って帰ったら笑われちまう。ウチのカミさんにはこっちの地味な平服にしましょう」


「だからこそだよ。惚れ直してくれれば万々歳じゃないか。いや、色っぽい衣装で君が惚れ直す方かな」


「よしてくださいって!中年夫婦にそんな感情は残ってませんから!」


 心底気持ち悪いと、イワンが断固拒否する。

 ウィリアムには知る由もないが、時の流れというのは夫婦間にとって残酷な変化を与えるようだ。


 その一方で女性陣。

 カトレアはどう見てもサイズの合わないチャイナドレスを何着も手にしている。それ全てを買うつもりなのだろうか。おそらくドレスの横にあるスリットから脚を出して、トニーを誘惑するつもりなのだろうが、鼻で笑われるだけだ。

 こちらの夫婦は時の流れなど関係なく、常に片想いである。


「カトレア嬢、せめて身体に合うものにしよう……私が見繕ってやろうじゃないか」


 見かねた女団長が、小さなレディのためにコーディネートを考えることになったようだ。

 とはいえ、子供用のチャイナドレスなどほとんどない。


 そこである程度、サイズが小さいものを仕立て直してもらう事になった。トニーもまさか、カトレアの衣装代が一番の出費になるとは思わなかっただろう。


「これとこれとこれとこれ!」


「四着だな。しかし、あまりに多いと将軍と合流するまでに間に合わないのではないか?」


「えー?二着ならいい?」


 女団長と、そして顔をのぞかせていた服屋の主人の双方にカトレアが確認を取る。

 トニーが戻るのは早くて一時間、長くて三時間ほどだろうか。そしてそれが分かっているのはウィリアムだけなので助け舟を出した。


「一着なら確実だが、二着だと間に合うか分からないくらいじゃないか?まぁ、二着程度なら頼んでおいていいと思うぞ」


「わかった!じゃあ、これとこれ!」


 一着なら確実、二着ならトニーらの帰りが早かった場合に少し待たせてしまうくらいの体感だ。おそらく娼館を楽しんだ後のトニーの機嫌は悪くないはずだというウィリアムの予測である。


 仕立てを頼んでいる間、再び男性陣。こちらは妻に贈るプレゼントをまだ決めかねている。自身の分ではないだけ献身的だが、他にも回りたい店はいくらでもあるので早めに決めてもらうことにする。


「二人とも、部屋着の予定なんだろ?漢服でいいさ。チャイナドレスは社交向きだが、その機会は奥方にあるのか?」


「うん?これは正装なのか?だそうですよ、団長。やはり我らはこの普段着を買って帰りましょう」


「確かに舞踏会なんて行くガラではないな。わかった、ではこれを」


「せっかくだ。二人とも男女分のペアにしたらいい。着心地は悪くないはずだ」


色っぽい見た目なので、この二人もカトレアのような考えを持っていたはずだが、ウィリアムによってそれが否定され、普段着を選ぶ運びとなった。


「うん?お前は良いのか?」


「私か?特に不要だとも。甲冑や軍服以外、着る機会は無かろう」


 女団長は唯一、何も持っていないので尋ねる。確かに彼女がそれ以外を着ていることを見たことはない。


「ではこの髪留めと、こっちは小物入れだろうか。これくらい土産に持って帰るといい」


 ウィリアムは扇子を模した赤いかんざしと、花の刺繍が入った黄色の巾着を無理やり押し付ける。一人だけ手ぶらというわけにもいかない。


「良いのか?いや、せっかくのご厚意だ。頂くよ、ありがとう」


「どういたしまして。ではここには後から戻ってくるとして、次に向かおう」


 仕立てが終わるまで、また別の場所に移動する。とはいえ、食事や酒、甘味、買い物とある程度のものは終わらせてしまった。

 後はやるとしたら、観劇や観光スポット巡りだろうか。


「と、ちょうどいいところに」


 道端に人だかり。どうやら大道芸人が何かを披露しているようだ。

 中国と言えば曲芸や雑技は有名なので、その類であろう。


「あそこで何かやっているみたいだ。ちょっと見て行こう」


「なんだ、芸人か?こんな往来でよくやるもんだ」


 イワンが言った。

 ロシアにもパフォーマーはいるのだろうが、どこかの劇場だったり、城や軍部に招かれて御前での披露というのが一般的なのだと思われる。

 外が寒いせいで、屋外には人が留まりづらいというのも関係していそうだ。


 人だかりの先には、組体操のように人の上に人が乗り、その上にさらに人が乗り、と大きな柱を形成している一団。


「ほう。これが雑技か。あちらの世界でも見たことがないので新鮮だな」


「あちらの世界、ですか?」


「あぁ、気にしないでくれ。世界中あちこち飛び回っているからな。どこにもこんな曲芸は無かったという意味です」


 騎士団長に突っ込まれるも、ウィリアムははぐらかした。


「中国だけでこの驚きようだ。我々にとっては、他の国でも驚きの連続なのでしょうな」


「もちろん。ロシアに閉じこもっていては得られない経験ばかりでしょう。今、兄がお連れしている面々が協力的になれば、他の国にもぜひ招待したい」


「ははは、これは意地悪な事を言われる。我々も加勢しなければならなくなるではないか」


 魔族、特にオースティン副長の率いる凶暴な魔族を排除するための同盟要請だが、やはり文化交流という副産物の方が楽しんでもらえそうだ。


 大道芸を一通り楽しむと、数人の芸人らが帽子を片手に観客の近くを回り始めた。おひねりを求めているのだろう。

 ウィリアムの前に男が来た際に、金貨を一枚、帽子の中に放り投げてやる。


「えっ!?こんなに!ありがとうございます!」


「ここの全員からの分を合わせてそれだと思ってくれ。一人ひとりで割れば大した額じゃないだろう」


「いやいや、それでもかなりのもんです!ありがとうございます!身なりから察するに、閣下の部下の御方でしょうか?また見に来てくださいね!」


 やはりトニーの知名度と羽振りの良さの噂は民草の間でも抜群だ。

 娼館には着いただろうか。兄の方も上手くやってくれることを祈る。

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