1
少女は逃げていた。
太陽が天高くいるにも関わらず、鬱蒼と茂る森の中。点々と暗闇を切り裂くように差し込む光を通過した時、腰まである深い茶色の髪が赤く煌いた。
不釣合いな色を纏う一人の少女。白を基調とした素材の良い服を着た少女は、時折背後を振り返り、誰もいないかを確認しながら森の中を歩く。
迷いながら確認するように歩く、急を要するとは思えない足取りは、辺りを見回すために何度も何度も止まる。
少女は薄暗い森を不安がりながらも物珍しそうな、好奇心に溢れた目で見ていた。
少女の心の中は、罪悪感と初めて見る景色に対する興奮で満たされていた。
本でしか見たことがない、物語で登場するものでしかなかった場所に、自分がいる。
そのことに、口元で両手を合わせ微笑む。
嬉しい。私はやっと。
だが、その高揚も自分がしてしまったことに、どんどんと罪悪感が積もっていく。
あぁどうしましょう。でもちゃんと置手紙も書き残してきて……、だけど……大丈夫でしょうか……。
せめぎあう葛藤に苦しむ。
しばらくの間その場に立ち続け、やがて近くの背の低い茂みで鳴った音に顔を上げた。
一つガサリと鳴ったそこは、少女が顔を向けた後沈黙を保った。
じぃっと少女はそこを見つめる。
しかし時間が過ぎてもそこはそれ以上の変化が無く、気のせいだったのだろうかと小首を傾げた少女はあることを思い出して顔を青くした。
――も、もしかして、魔女!? いえ、呪い……っ!
この森は『呪いの森』だと呼ばれていることを思い出したのだ。
やれ魔女がいるだやれその魔女が入ってきた人間に呪いをかけるだ、いや違うこの森自体に呪いがかかっておりそこに踏み入れる者を惑わせるんだ、とかも言われている。
元々は、少女はその噂を聞いてここに来たいと思ったのだ。
魔女がいるのならその人と話してみたい。呪いなら原因があるはず。その他の理由も面白いかもしれない。冒険心をくすぐられる想像に胸を高鳴らせ、少女は遂にこの場所に踏み入ったのだ。
だが、いざそれに出くわしたのかもしれないと考えると、足がすくむ。
少しずつ、少しずつ足が震えていく。
不安に襲われた少女は、今まで歩いてきた鬱蒼とした森が自分に牙を向いているような、全てが自分の敵になったような錯覚に見舞われた。
――ど、どうしましょう。どうすれば……、あぁ……っ!
混乱が極みに達しようとした瞬間、茂みがガサリと鳴った。
びくりと身体を震わせた少女。
そして、そいつが顔を覗かせた。
腹を空かせた、犬の形をした魔物だ。
魔女ではない。呪いでもない。魔物だ。
それは、状況をさらに悪化させたといってもいい。魔物は人語を介さないからだ。
少女は慌てて腰にさしていた細身の剣を抜く。
震える切先を魔物に向けながら、気丈に声を上げた。
「く、来るならきなさい! 私がお相手になりましょう!」
少女は自分の剣の腕に自信を持っていた。師である教育係も、剣の腕を誉めてくれた。
それは所詮世辞なのかもしれない。けれど、世辞を言うような師でもないとも知っている。
ならば、私は戦えるはず。
少女はそのことに意思を固める。剣の震えが止まった。
それを待っていたかのように魔物が遠吠えのような長い咆哮を上げ、少女に襲い掛かる。
少女は襲い来る魔物を迎え撃つ。
大丈夫。このぐらいの速さなら目で追える。身体もついていける。
そう思い、剣を振るう。
その一振りは見事魔物を斬りつけ、魔物は怯み少女から距離を取った。
はしたなく涎を垂らしながら様子を窺う魔物は、少女の戸惑いを見つける。
好機と判断したのだろう。魔物は再び少女に襲い掛かる。
それは目でも身体でも追える速さだ。少女は強い。
だが、少女は剣を振れなかった。迷ったからだ。
少女は魔物を斬りつけた時の感触と血に、迷った。
少女は生き物を相手に怪我をさせたのは初めてだったのだ。
振れない剣。少女はいやいやと首を振り、迫る魔物にどうしようもなく悲鳴を上げた。
「きゃああああぁぁぁぁっ!!」
魔物の爪が肩に食い込み、少女を押し倒す。
眼前にある魔物の顔。牙がずらりと並んだ口が開かれ、少女を食おうと鼻を荒くする。
必死に抵抗した。細身の剣を口にすべらせ、それを噛ませる。
爪が暴れ狂う。控えめな装飾を施した白の服が破かれていく。
――死ぬのは、嫌っ!
もっと広い世界を見てみたいのだ。
窓から見る切り取られた世界ではなく、自分の目で、自分の足で、世界を見たい。
こんなところで死ぬわけには。
だけど、剣が、振れない。
自分の命を奪おうとする魔物を、逆に命を奪うため斬り捨てるなんてできない。
「嫌っ、嫌ぁっ!」
どうしたらいいのか分からない。分からない。
私はこのまま死んでいくの? 嫌。それだけは嫌っ!
必死に抵抗する。傷がどんどんと増えていく。
そして細身の剣が手から離れ、あっと言う間も無く少女の手から剣が奪われた。
赤く色付く口腔が視界に現れる。
少女は死を覚悟した。
――死にたく、ないっ!
口に向かって両手を伸ばす。
白い手袋に覆われた手が、魔物の口に。
その口が閉じられようとした。手が、無くなる。
直感した。食べられてしまう。遅い時間の中、幻覚を見た。
自分の両手が食べられてしまうところを。
「ぎゃんっ!」
鈍い音がし、視界から赤が無くなった。同時に身体にかかっていた魔物の体重も無くなる。
一瞬、理解できなかった。何が起こったのか分からず、視界の中で翻る白を咄嗟に目で追った。
白はローブだ。マントのようにひらひらした上着。頭まですっぽりと覆われた背中。
剣が見えた。少女が持っていたものと似た剣がローブからはみだしていた。
低く透き通る声が言う。
「……恨みは無いが、人に手を出した魔物は放ってはおけないんだ。許してくれ」
男の声。白いローブの背中から聞こえるそれは哀れみの色をしていた。
身を起こし男を睨んでいた魔物は、逃げる素振りを見せた。
が、男は容赦なく魔物を斬る。
短く高い悲鳴。いとも容易く一つの命がそこで終わった。
少女は上半身を起こし、ぼぅっとその背中を見ていた。
血が付いた剣を一つ振り、紙のようなもので拭う。そして男は振り返った。
少女は息を呑む。深海がそこにあった。
精緻に施された顔の造りの中に嵌る二つの深海。悲しみを帯びているようにも見えるそれに少女は魂を抜かれたかのように魅入った。
「きれい、です……」
「えっ?」
男の驚いた声に、少女は慌てた。
――初対面の殿方に向かって、私は何を!
殿方にきれい、だなんて失礼にも程がある!
少女はあわあわと慌てふためき、顔を赤らめて何故か男に向かって救いの目を向けた。
男はそんな少女を見て下げていた眉を戻した。その顔に微笑が浮かぶ。
儚いその笑みに少女の顔はとうとう茹でたタコのようになった。恥ずかしすぎた。
「大丈夫? 怪我は……、これは酷いね」
「あ、あああの! 私! その!」
「手当てをしなくちゃ。ばい菌が入ったら大変だしね。近くに俺の住まいがある。そこに手当て道具があるから、ごめんだけどそこまでついてきてくれないか?」
「え、あ、あの……。い、いんですか?」
「? うん」
手当て、の言葉に、てっきり街に行くのかと思っていた少女は安堵に息を吐いた。
男は少女の髪についた土を払った後、白いローブを脱ぎ少女にそっと羽織わせた。
白から一転。全身を黒で固めた姿になった男はうん、と頷いて立ち上がる。
「立てる?」
「はい。大丈夫です、……あ、ありがとうございます」
言葉と共に差し出された手を掴み、立ち上がる。
ローブがずり落ちないように胸元を握り、もう片方の手で服についた汚れを払う。
それを終えると、少女は自分よりも背の高い男を見上げた。
「行こうか」
「あ、はい」
再度差し出された手に数瞬迷い、少女は結局その手の上に自分の手を置いた。
魔物に引っ掻かれた傷が、じくじくと痛み出す。
少女はその痛みにさえ新鮮な気持ちを抱いた。
ただ、やはり痛いものは嫌だ。そう思い、くすりと笑う。
少女は男の手に引かれ、森の奥へと向かった。