おまけ⑦
「······楓ちゃん?」
「······お久しぶり。俊君」
麻痺棚俊の想像の地平線の遥か彼方に存在していた楓。そんな遠すぎる楓が今、自分の前に現れた。
もう二度と会えないとすら思っていた俊は、素人の役者のように何も出来ず、ただそこに立ち尽くしていた。
「······よく私だって分かったね。高校生の頃の見た目と比べると、結構変わったと思うけど」
楓の柔らかい声をその耳に感じた俊は、人の温もりを得て動き出す彫像のようにぎこちなく、一歩楓に近づく。
「······わ、分かるよ俺には。楓ちゃんは楓ちゃんだから。でも、なんだか逞しく見える。見違えたよ」
「今ね。私、給食センターで働いているの。毎日小学生の子供達の給食を作ってる。この仕事ってかなりきつい肉体労働なの。おかげで腕や脚がすごく太くなったのよ?」
俊は混乱していた視覚を徐々に取り戻し、楓を正面から見る余裕を得た。高校生の時はあんなに白かった肌が、僅かに小麦色になっており、それは健康的に見えた。
「······か、楓ちゃん。身体の調子は? 右肘と左足首。それと今眼鏡していないけど右目の視力は?」
7年も前の恋人の身体の不具合を当たり前のように覚えていた俊の言葉に、楓は驚きと嬉しさで呼吸が一瞬止まりそうになった。
「······肘と足首はリハビリで随分と良くなったの。あと右目は手術してね。おかげで今は眼鏡無しで生活できるの」
「······あの願望は? 楓ちゃん」
俊の声色が少し低くなった。楓は少し困ったように頷く。
「······たまにね。本当にごくたまに聞こえるの。私の中にいる自殺願望を持つもう一人の自分の声が」
「······そう」
「でもね。私はその声からもう逃げないって決めたの。一生向かい合って戦う。そして天寿を全うするわ。こう思えるまで、7年かかったけどね」
「······そっかあ。良かった。良かったよ」
安堵した俊は身体中の酸素を全て出し切るかのように身体を曲げ、長い長いため息を吐く。その俊の姿を見るだけで、楓の胸は苦しさで一杯になる。
「······俊君は夢を叶えたね。今日の漫才、観覧席から観てたよ。私何度も笑った。とっても面白かった」
「うわぁ。そっかあ。楓ちゃん観てたのかあ。やばいな。急に恥ずかしくなって来た」
俊は赤面した顔を両手で隠す。その時、自分の指の隙間から楓の左手首が見えた。その薬指には、シルバーの指輪が鈍く光っていた。
変わった苗字。左薬指の指輪。それが何を意味するか、俊の脳内にその答えが強制的に送られる。
「······か、楓ちゃん。け、結婚したんだね。おめでとう」
「······え?」
楓が小さく声を漏らした瞬間、俊の両目から涙があふれ出してきた。
「······おめでとう。本当におめでとう。ご、ごめん。こ、これは嬉し泣きだから。本当に嬉し泣きだからね」
心と真逆の嘘を並べ、俊は必死に楓の門出を祝福しようともがいていた。
「······俊君。私、結婚していないよ?」
楓のきょとんとした表情とその声に、俊は暫く顔を上げられなかった。
「······え? でも沢原って苗字に変わってるし」
「え? ああ。実は私の両親離婚したの。今の沢原 は母親の旧姓なの。あ、一応円満な離婚だったから心配しないでね。今も3人でたまに会うし」
「······じゃ、じゃあ。その指輪は?」
俊が楓のシルバーリングを指差すと、楓は両手で抱えていた花束を右手に持ち、左薬指を俊の前に差し出した。
「この指輪。本当に覚えがない?」
楓が少し不機嫌に見えた俊は、全集中力を高めてその指輪に穴が開くほど見つめる。そして遠くにあった記憶の扉を探し当てた。
「······まさか。あの時の? まだ持ってたの?」
それは7年前、高校生だった俊がクレーンゲームで獲得した景品のシルバーリングだった。
「まだとはずいぶんね。私にとっては初めて男の人から貰った大事なプレゼントだよ」
楓はそう言いながら優しく微笑んだ。その笑顔を見た俊は、覚悟を決めたように楓にまた一歩近づく 。
「······楓ちゃん。俺達の漫才観たって言ったよね? 」
「······うん」
「あ、あの漫才で言ってた事、本当だから。お、俺はまだ楓ちゃんの事を、す、好きだから」
昨年、その情熱的な演技が高く評価され賞を取った美男子俳優は、この時ずぶの素人以下の台詞しか言えなかった。
「これまでも。これからも。俺はずっと楓ちゃんが好きだから。楓ちゃんだけが好きだから」
「······俊君」
映画館のスクリーンやテレビで数多の女性達をその演技と台詞で魅了してきた人気俳優は、両目を赤く腫らし、涙を流し、鼻の下を濡らしていた。
その時、楓は俊の背後にうずくまっている少年が見えた。少年は水族館の階段の踊り場で泣き崩れ、 いつまでも、いつまでも声を出して泣いていた。
楓は花束を手から離し、無意識の内にその少年に近づいていた。両の膝を折り、楓は少年の背中に手を置いた。
少年は驚いたように顔を上げた。 少年は万人に評価されるに足る造形美の顔を痛々しいほど歪めて泣いていた。
それはあの夏の日、自分が水族館に置き去りにした17歳の少年だった。 楓は震える両手を少年の頬に添える
「······ごめんね、七年も待たせて。ごめんね、ずっと一人にして」
楓の両目から大粒の涙が溢れ出す。楓は少年の首に両腕を回し、力の限り抱きしめた。少年は涙で霞んだ両目を閉じ、大声で泣きながら楓を抱きしめ返す。
「······俊君。私がお婆ちゃんになっても、また一緒に水族館に行ってくれますか?」
「······うん。一緒に行くよ。人混みが苦手になっても。足腰が弱くなっても。必ず楓ちゃんと一緒に行く。約束するよ」
誰かが言った。一緒に楽しい時を過ごすからこそ男女は恋をすると。
誰かがこうも言った。互いの距離が離れれば、いずれその心も離れていくと。
そして誰かが断言した。時間は全てを変えていく。美しい風景も。輝いていた筈の思い出も。その時永遠と信じた相手への愛さえも。
それは、長い人生を生きてきた先人達の身をもった忠告であり、この世の真実の一つかもしれなかった。
だが、俊と楓はその真実を互いに手を取り合って乗り越えて行く。世の真実を覆すでもなく、抗うでもなく。
二人はただ、自分の心のままに相手を想い続けただけだった。
俊と楓の止まった時間は、7年の月日を経て再びその時を刻み始めた。畳の上に落ちた花束の中からカサブランカが顔を覗かせる。
その白い大輪は、2人が再会を果たしたこの場所を、甘く優しい香りで包みこんでいた。
······才色兼備と評判のコンビ楓の敏腕マネージャーは、俊を呼び出す為に楽屋の前にやって来た。楽屋の扉の横には、俊の相棒である合方正寿が壁に背を預けていた。
「正寿。そろそろ結果発表だからスタジオに入る準備をして。俊は部屋にいるの?」
俊の相方である正寿は、指で目頭を押さえながら首を横に振った。
「美紀さん。部屋に入るのはもう少し待ってくれ。たぶんアイツは今、人生で一番大事なシーンの最中だから」
「大事なシーン? ちょっと正寿。貴方泣いているの?」
「美紀さん。俊は心の中で17歳の迷子の自分をずっと抱えていたんだ。今日やっと帰る場所が見つかった。だから頼むよ。もう少しだけ待ってやってくれ」
正寿は本格的に泣き出した。俊があまりに目立つ為にその影に隠れがちな自己肯定感が低い相方。その殻さえ破れば、俊以上に化けると美紀は正寿を評価していた。
「······良く分からないけど。待ってあと10分よ。10分後には必ず2人でスタジオ入りするのよ?」
正寿は合掌するように手を合わせ、無言で美紀に感謝した。
······新人漫才大会の結果は、コンビ楓の俊と正寿が見事に優勝を果たした。だが、その発表前に既に2人の目は赤く腫れに腫れていた。
優勝発表の後、司会のアナウンサーが何故発表前に泣き腫らしていたのかと俊と正寿に質問すると、2人は「優勝を確信していたので感動の前借りをしていました」と息の合った答えを返した。
その「感動の前借り」と言う言葉は、テレビ放送後たちまち世間で認知され、その年の流行語大賞にノミネートされた。
······あと数分で日付が変わる月夜の下、俊と楓は手を繋ぎながら夏の夜の道を歩いていた。
「楓ちゃん。まひるちゃんは元気? 随分と長い事ご無沙汰なんだけど」
「うん。元気だよ。まひるは今、長野で化粧品造りに夢中になってるの。肌に負担の一切ない原料の自然由来の化粧品だって。あ、あと最近ね、いい雰囲気になってる同僚の男の人がいるんだって」
「へえ。まひるちゃん頑張ってるんだね。まひるちゃんに言っといてよ。良かったら俺が宣伝するって。勿論ノーギャラでね」
「うん。言っておくね。近いうちにまひると会う予定だから。賭けに勝ったから、まひるに三星ホテルのランチを奢ってもらうんだ」
「え? それ何の話?」
俊が不思議そうに楓に問いかけると、楓は白い歯を見せ花が開いたような笑顔になる。
「17歳の時、32階の屋上で約束した賭けだよ」
楓は、今にも駆け出しそうな勢いで力強く俊の手を引く。愛する人の笑顔に俊はいつまでも見惚れていた。
湿度を含んだ重い夏の空気が、これから始まる未来への予感となって俊の胸を高鳴らせていた。
おわり




