第十四話 オフ会前夜
玄関を上がると、ふわりと温かい匂いが鼻をくすぐった。
「もうすぐできますからね」
キッチンの方から、柔らかな声がかかる。
玲華の母だった。エプロン姿で、手際よく鍋を扱いながらも、初対面の阿里亜に気を配っているのが伝わってくる。
「遠いところから来てくれたんでしょう? 今日はゆっくりしていってください」
「あ、ありがとうございます……」
少し背筋を伸ばして頭を下げると、玲華が隣で小さく笑った。
「そんなに緊張しなくて大丈夫。母、こう見えてゲームの話もわりと聞き慣れてるから」
「こう見えては余計です」
軽くたしなめるような声と一緒に、食卓に料理が並び始めた。煮込み料理、彩りのいい副菜、湯気の立つ炊きたてのご飯。
どれも家庭的で、けれど丁寧に作られているのがわかる。
席につき、手を合わせる。
「いただきます」
一口食べた瞬間、思わず息が漏れた。
「……おいしい」
「よかった」
玲華の母はほっとしたように微笑み、玲華はどこか誇らしげだった。
会話は穏やかに進み、仕事の話や運転の話、名古屋のこと。
深く踏み込むことはなく、けれど排除もされない距離感が、阿里亜には心地よかった。
食後、玲華が声をかける。
「お風呂、先にどうぞ。広いから、びっくりしないでね」
案内された浴室は、確かに広いの一言では足りなかった。
足を伸ばしても余る浴槽。静かな照明。肩まで沈むと、一日の緊張が音もなく溶けていく。
(……すごいな)
贅沢というより、安心するための空間。
そう感じた。
風呂から上がると、用意されていた部屋着に着替え、玲華の部屋へ向かう。
整った机に、並べられた二台の端末。椅子を並べ、自然な流れで腰を下ろす。
「じゃあ、ログインしましょうか」
「うん」
画面が立ち上がり、見慣れたタイトルが表示される。
現実の阿里亜が、ゲームの中でアメリアになる。
玲華は、メリッサに戻る。
ログインした瞬間、スカーレットの拠点が広がった。
【cat】「あ、アメリアさんにメリッサさん!」
【メリッサ】「今日はアメリアさんが、私の家に泊まりに来ています」
【さつき】「なにそれ楽しそう!」
チャット欄が一気に賑やかになる。
「cat、早いね」
「さつきも、ミロクもいる」
玲華がくすっと笑った、その直後。
【もも】「え、リアル同居!? もうそれ結婚じゃん!!」
思わず、現実の阿里亜が端末から顔を上げた。
「……この人は、ほんとに」
半ば呆れ、半ば苦笑いで呟くと、隣で玲華が声を殺して笑った。
「相変わらずだね」
【メリッサ】「違います」
【もも】「でも否定の仕方がもう怪しい」
catがすかさず流れを変える。
【cat】「でもいいなー、リアル合流」
【さつき】「写真は?」
【メリッサ】「写真はダメです」
即答。迷いのない拒否に、笑いが重なった。阿里亜は画面を見つめながら、小さく肩をすくめる。
「……ほらね」
そう言うと、玲華は楽しそうに頷いた。
「うん。でも、こうやってると……」
一瞬だけ声を落とし、画面から目を離して、阿里亜を見る。
「なんだか、二人だけで内緒話しながら遊んでるみたいだね」
胸の奥が、きゅっと鳴った。
「……そう、かも」
現実の距離は、椅子一つ分。けれど、ゲームの中でも、確かに並んで立っている。
【メリッサ】「明日、みんな来るんでしょ」
【cat】「羨ましすぎる」
アメリアは、少しだけ指を止めてから打ち込んだ。
【アメリア】「明日、会えるね」
その文字を見て、玲華がこちらを見た。
「明日、みんなにも会えるんだね」
どこか夢を確かめるような声音だった。
「……うん」
楽しみなはずなのに、胸の奥がそわそわする。
画面越しでは何度も話してきた相手たち。
でも、現実で会うとなると、話は別だった。
その夜、ログアウトして布団に入っても、阿里亜の頭はなかなか静かにならなかった。
意識は妙に冴えている。天井の見えない暗さの中で、時計の針の音だけがやけに大きく感じられた。
「……起きてる?」
「……うん」
「やっぱり?」
玲華の声は、昼間やゲームの中よりも、少しだけ柔らかかった。
「緊張、してる?」
「……してる」
正直に答えると、ふっと小さく笑う気配がした。
「だよね。私も」
その一言に、阿里亜は目を開けた。
「……意外」
「よく言われる」
玲華は苦笑するように言う。
「でも、昔からそうなの。大事な予定の前の日ほど、眠れなくて」
しばらく、沈黙。
沈黙が気まずくならないのが、不思議だった。
「……学生時代ってさ」
阿里亜が、ぽつりと切り出す。
「どんな感じだった?」
少し間が空いた。考える時間を、きちんと取っている沈黙。
「……文武両道、成績優秀、容姿端麗」
玲華は、自分のことをそう並べてから、静かに続けた。
「そんなふうに言われていたわ。学校でも、身内からも」
「うん」
「だからね。いつも一目置かれる側だった」
声は淡々としているのに、どこか距離があった。
「先生にも、クラスにも、先輩にも後輩にも。ちゃんと扱われる。でも……誰も、本音では近づいてこない」
阿里亜は、何も言わずに聞いていた。
「気を使われてるの、わかるの。変なこと言わないように、失礼がないように、って」
「……」
「一緒にいるけど、同じ場所にはいない感じ」
玲華は、少しだけ声を落とした。
「友達、って呼んでいいのか、ずっとわからなかった」
その言葉が、胸に静かに沈む。
「私はね」
今度は、阿里亜の番だった。
「学生時代、わりと真逆だったと思う」
暗闇の中で、苦笑が浮かぶ。
「工業高校のインテリア科でさ。自己紹介で、調子に乗った一言言ったら、めちゃくちゃウケちゃって」
玲華が、息を殺して笑う気配がした。
「……想像つく」
「でしょ」
「それからは、もう“面白い阿里亜”」
「求められるたびにやるし、やると盛り上がるし。気づいたら、いつも輪の中心」
少し、言葉を探す。
「楽しかったよ。ほんとに」
でも、と続ける。
「卒業したら、全部なくなった」
現場仕事。年上ばかりの職場。名前をネタにする空気もない。
「面白い私を出す場所が、急にどこにもなくなって」
しばらく、静寂。
やがて、玲華が言った。
「……アメリアはね」
「うん?」
「スカーレットの中では、ちゃんと中心にいるよ」
その言葉に、胸が少し熱くなる。
「誰かに求められて演じてるんじゃなくて、自然に」
阿里亜は、布団の中で、小さく息を吐いた。
「それ、メリッサが作ってくれた場所でもあるよ」
「ふふ」
柔らかな笑い。
「じゃあ、お互い様だね」
「……明日さ」
阿里亜が言う。
「うん」
「うまく話せなくても、いいかな」
「いいよ」
即答だった。
「そのままで来てくれれば」
その声は、ゲームの中で皆を包むメリッサそのものだった。
やがて、会話は途切れ、静けさが戻る。さっきまでより、少しだけ深い静けさ。
阿里亜は目を閉じる。不安は、まだある。
でもそれ以上に――
(この人になら、知らない自分も見せられるかもしれない)
そんな予感が、胸の奥で、静かに灯っていた。




