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泣き虫教師と消えた卒業証書

 「……生徒を、卒業させちゃったんです。本当は、卒業できない成績だったのに……。」


 涙がブラウスの襟元から滲んで、慎司のシャツに触れた。


 「親に頼まれて……成績を……少し……」

 女が泣きつくときの匂いは、鉄板のソースより甘い。

 慎司はそう思っている。


 新丸ビルの喧騒の外、スマホ画面に新しい通知が灯った。

 『吉川 春菜(27)/2km圏内』

 プロフィールは自己紹介だらけで、面白みゼロ。

 教師らしい。


 いつもならスルーするタイプだが――

 プロフィール写真に映る、控えめな前髪と小さな鎖骨が妙に色っぽく見えた。


 『こんばんは、会えませんか?』


 慎司が送った言葉に、ものの三分で返事が届く。


 『会いたいです。』


 こういう真面目な女ほど、裏側に柔らかい何かを隠してる。

 それを剥がすのが、慎司はたまらなく好きだ。


 カフェ前で待っていた春菜は、期待以上だった。


 白のブラウス、細い首筋、落ち着かない視線。

 教師という肩書きに似つかわしくない、無防備さ。


 「……お待たせしました。」


 声は小さくて、でも耳に残る。


 「場所、任せていい?」


 慎司が問うと、春菜はすぐに小さく頷いた。


 「……はい。」


 心の中で笑う。

 「……行きたい店がある。」


 新丸ビルの飲食フロア。

 『丸の内もへじ』の暖簾をくぐると、いつもの鉄板の匂いが春菜の香水と混ざった。


 カウンターの奥に並んで座る。

 春菜の小さな肩が、すぐ隣にある。


 「ビール、飲める?」


 「……少しだけ。」


 慎司は百地に視線を送るだけで、冷えたジョッキが二つ運ばれた。


 一口飲んだだけで、春菜の頬は桜色に染まる。


 「先生、酔うの早いね。」


 からかうと、春菜は慌てて首を振る。

 だが、次の瞬間――


 ふわりと慎司の肩に頭を乗せてきた。


 「……ごめんなさい……」


 小さな声と一緒に、ブラウスの襟元から熱が伝わってくる。

 肩越しに感じる髪の香りが、さっきまでの真面目な自己紹介を全部裏切っている。


 「ちょっとだけ、休ませてください……」


 耳元に吐息がかかる。


 店主の百地がちらりとこちらを見たが、何も言わずに鉄板を叩いた。


 春菜の細い指が、慎司の膝の上をそっとなぞる。


 ――こりゃ、今日は確実だな。


 慎司が心の中で笑った瞬間、春菜がぽつりと囁いた。


 「……私……犯罪者かもしれないんです……」


 春菜の小さな声が、鉄板のじゅうじゅうという音に吸い込まれていく。

 「……私、犯罪者かもしれないんです……」

 そんな告白を聞くはずじゃなかった――なんて、慎司はもう思わない。


 「犯罪って……何したの?」


 わざと冗談めかして問いかけると、春菜は慎司の肩に顔を押し付けたまま、小さく震えた。



 震える声。

 酒で潤んだ目尻。

 鉄板の熱気と一緒に、春菜の体温が慎司にまとわりつく。


 「で、そいつが?」


 慎司が低く尋ねる。


 「今、その子に脅されてて……お金を……渡さないと……」


 泣きながらも、春菜の手は慎司の太ももにそっと置かれたままだった。

 理性が少しずつ熱に溶かされていくのを、慎司は自覚していた。


 「……先生、酔ってる?」


 冗談めかして言っても、春菜は答えない。

 代わりに、肩に乗せた顔を上げて、真っ赤な目で慎司を見つめた。


 「……高村さん……もう、どうにでもなっちゃえばいいのにって思うんです……。」


 吐息が近い。

 唇が、すぐそこにある。


 春菜がそっと身を起こし、バランスを崩すふりをして慎司の胸に倒れ込む。

 柔らかな感触が胸板に押し付けられた。


 「……ホテル、行きます……?」


 その声が、鉄板の音より熱かった。


 慎司は笑った。

 笑いながらも、心の奥で舌打ちする。


 ――抱ける女ほど、抱いちゃいけない。


 「……いや、その前にやることあるだろ。」


 慎司は春菜の肩をそっと押し戻した。

 指先に、確かな体温と吐息の残り香がまとわりついている。


 店主の百地が、カウンター越しに小さく目を細めた。

 黙っていても全部知ってる顔だ。


 春菜はテーブルに突っ伏して、ぐすぐすと泣きながらも慎司の袖をつかんで離さない。


 「……大丈夫。全部、俺が片付けてやる。」


 その言葉に、春菜は小さく頷いた。


 鉄板の上では、ソースが焦げて、煙がゆらりと立ちのぼる。


 泣き上戸の春菜を連れて、慎司は新丸ビルの外に出た。

 酔いと夜風が彼女の顔色を少しだけ正気に戻してくれる。


 「……すみません……変な女だと思いましたよね。」


 石畳の上、ヒールの先で小さな水たまりを蹴りながら、春菜がぽつりと漏らす。


 「変じゃなきゃ、会ってない。」


 慎司はわざと軽口を叩く。

 春菜は頬を赤くしたまま、笑うように息を吐いた。


 「……さっきの話、本当なんです。」


 慎司は頷くだけで応えた。

 嘘を嘘と知りながら、煙の奥で炙り出すのが自分の役目だ。


 「……私……全部捨てて楽になりたいんです。

 先生も、学校も、もうやめたい……。」


 春菜が立ち止まり、慎司の腕を掴む。

 指先がかすかに震えていた。


 「高村さん……今夜だけでいいから……忘れさせてください……。」


 目を伏せたまま、春菜の体がそっと慎司に寄り添った。

 体温が、吸い込まれるように胸元に伝わる。


 「……ホテル、行きます……?」


 吐息混じりの声が耳朶をくすぐる。


 慎司の喉が、ごくりと鳴った。

 あと一歩踏み込めば、全部を手に入れられる。


 だが同時に、春菜が隠している嘘の匂いも、皮膚の奥でまだ燻っている。


 「……ホテルより、先にやることがある。」


 慎司は春菜の腰をそっと離し、前を向く。


 「元生徒を締める。そいつを片付けないと、お前も俺も寝れない。」


 春菜の瞳に、微かな理性が戻った。


 「……だめ、私一人で――」


 「無理だ。俺がやる。」


 慎司の声に、春菜は観念したように小さく頷いた。


 スマホの通知が震える。

 見ると、知らない番号からメッセージが届いていた。


 『お前、誰だ。余計なことすんな。』


 元生徒。

 慎司は冷たい笑みを浮かべた。


 ――面倒な女とガキの嘘。

 煙と一緒に全部、鉄板の上で焼いてやる。


 元生徒とのやり取りを終えた慎司は、春菜を連れて再び『丸の内もへじ』へ戻った。

 夜の新丸ビルのフロアは、人影がまばらだ。


 店に入ると、百地が無言で奥の席を空けてくれた。

 店内は少し混んでいるが、慎司と春菜の周りだけが不思議に隔絶されている。


 春菜の指先はまだ慎司の袖を離さない。

 酔いが醒めきらない瞳が、鉄板の熱気でまた潤んでいた。


 「……大丈夫。ちゃんと終わらせる。」


 慎司がそう告げると、春菜は無言で頷いて慎司の肩に頭を預けた。


 その時、ドアのベルが無遠慮に鳴った。


 「先生、久しぶりじゃん。」


 若い声。

 店内の空気が一瞬で張り詰める。


 慎司が顔を上げると、細身のパーカー姿の若い男がカウンターの端に立っていた。


 元生徒。

 やる気のない笑顔と、薄汚れたプライドを全身にまとっている。


 「お前が俺を呼んだんだろ?」


 生徒はふてぶてしく近づく。

 慎司は立ち上がらずに目だけで制した。


 「ここは、騒ぐ場所じゃない。」


 慎司の声が低く落ちる。

 生徒は一瞬、唇を歪めたが、鉄板を挟んで向かいの席に腰を下ろした。


 「先生の秘密、まだバラしてねぇからな。」


 ニヤニヤ笑う生徒に、春菜が小さく身をすくめた。

 慎司の肩に隠れるように体を寄せ、震えた手で彼の胸元を握りしめる。


 ――女の胸の膨らみが、慎司の腕に触れる。


 理性の残骸を必死に抑え、慎司は生徒を睨んだ。


 「金が欲しいんだろ?」


 慎司が切り出すと、生徒は鼻で笑った。


 「証拠が欲しい奴に売ったっていいんだぜ? 卒業証書のデータ――」


 「……お前、いくつだ。」


 唐突な慎司の問いに、生徒は不意を突かれたように眉をしかめた。


 「は?」


 「年を聞いてんだ。」


 「二十……」


 言いかけた生徒の顎を、慎司は空いた手で掴み上げた。


 「二十歳にもなって、女ひとり脅して小銭稼ぎか。

 そんな安い人生で、誰がビビると思ってんだよ。」


 声を荒げないまま、慎司の目が鋭く光る。

 店内の客も百地も、鉄板を前に誰も口を挟まない。


 生徒の顔色が、鉄板の火より青ざめていく。


 「……証拠データ、出せ。」


 慎司が吐き捨てるように言った。


 生徒は唇を噛み、震える指でUSBをテーブルに置いた。


 慎司はゆっくりと顎を放し、息を吐く。


 春菜が、まだ慎司の胸に顔を埋めていた。


 小さな声が、湿った髪の奥から漏れた。


 「……ありがとう……高村さん……」


 ――鉄板の煙の向こうで、また一つ嘘が溶けた。


 慎司の指先に、まだ春菜の震えが残っている。

 USBを百地に預けた瞬間から、店内の空気は何事もなかったように元の熱と匂いを取り戻した。


 「……ごめんなさい。ごめんなさい……」


 春菜は何度も頭を下げ、泣き笑いを繰り返した。

 百地は何も言わず、鉄板を磨いている。


 「もう大丈夫だ。」


 慎司が短く告げると、春菜は頷きながらも慎司の袖を離そうとしなかった。

 カウンターの奥で、里奈が微かに笑っている。


 「……私……私、バカですね……。

 こんなことになって……もう、どうしたら……。」


 涙混じりの声が途切れ、春菜はゆっくりと顔を上げた。

 頬は赤く、目元も潤んでいる。


 「……高村さん……もう、私……どうにでも……」


 春菜の手が慎司の胸元に伸びる。

 指先がシャツのボタンを一つ外す。


 「ホテル……行きたいです……。

 お願い……抱いてください……。」


 店内の誰もが見ないふりをしている。

 慎司だけが、春菜の瞳を真っ直ぐに見つめていた。


 ――あと少し、あと少しで全部手に入る。


 それでも慎司は、ゆっくりと首を横に振った。


 「……俺は、こういう時は興ざめするんだ。」


 春菜の肩が、小さく震えた。


 「先生は先生に戻れ。

 今日のことは、全部ここで終わりにしろ。」


 慎司の言葉に、春菜の目からまた涙が溢れた。


 「……はい……」


 声は小さいのに、ちゃんと届いた。


 店を出る時、春菜は振り返って一度だけ微笑んだ。

 泣き虫教師は、明日からまた誰かの前で強い大人に戻る。


 慎司は鉄板前に戻り、冷めたジョッキを一気に空けた。


 「また面倒を片付けましたね。」


 里奈のからかう声が背中越しに聞こえる。


 「余計な世話だ。」


 慎司は笑い、ポケットからスマホを取り出した。


 新しい通知が光っている。


 『玲奈(27)/0.8km圏内』


 慎司は無言で画面を閉じ、店主の百地に軽く頭を下げた。


 ――煙の奥には、まだ面倒な女がいくらでもいる。


 外に出ると、丸の内のビル街が夜の匂いを漂わせている。


 慎司は心の中で、いつもの一言を繰り返した。


 「……行きたい店がある。」

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