あの日、空に放ってしまった赤い風船のように…
ついにカフェリンダに到着。
カフェリンダで大切な時を噛みしめる奈々と雅樹の前に突然現れる…
奈々が俺の手を引いて走る。
「奈々? もしかして走ってる?」
「はぁはぁ、走ってます! 雅樹さん急いで…」
きっと奈々は一生懸命走っているのだろうが…
遅い…
そもそも歩くのも遅いから予測はしていたが…
予想以上に遅い。
まぁせかせか歩くのも奈々のイメージじゃないし、100m10秒台で走る奈々なんてのも全く想像がつかないが。
のんびりノロノロ歩いているのが一番奈々らしい。
そもそもこの子はだいたい何かしら考えながら歩いているからね。
歩くの遅くてもしょうがないかな。
だが…
奈々は俺の手を引いて一生懸命速く走っているつもりなのであろうが。
これではまるで、おばあちゃんがおじいちゃんの手を引いて必死に歩いているようにしか見えない…
「奈々? そんなに慌てなくてもここからカフェリンダなんてすぐだよ」
「はぁはぁ…そうです、ね。もう歩きます」
「大丈夫? 奈々」
「大丈夫です…」
必死な顔の奈々。
「奈々って…やっぱり何やっても可愛いね…」
「え? どうして?」
「走ってるんだが歩いてるんだかわかんなかったけど…一生懸命で可愛かった…」
「もうっ! 奈々が一生懸命走ってるのにそんな意地悪言って!」
やっと息が整った奈々が恨めがましい顔をして言う。
「いやいや意地悪じゃなくてさ、俺の手引いて走ってる? 奈々の姿があまりにヨチヨチだからおじいちゃんの手を引いて歩いてる可愛いおばあちゃんみたいだったよ」
俺はニヤニヤしながら思わずそう口走る。
「そうよ! 雅樹さんがおじいちゃんになったら奈々がああして手を引いて歩いてあげるんだから! 奈々のこと大切にしないと大変なんだから!」
「そうだね、奈々を大切にしないとね」
ふたりは同時に笑い出す。
やっと正常空間に帰ることに前向きになった奈々の手を取り並んで歩く。
元の世界に戻って再び巡り合うことが出来たら、そんな日も来るかもな…
奈々を説得しながら自分自身にも言い聞かせていた。
『異空間ではダメだ』
奈々との心躍る時間が俺の気持も揺さぶっていた。
このまま異空間で奈々と共に生きるという選択肢。
奈々は元の世界に戻り互いに記憶をなくすことを恐れていたが、それはまた俺も同じだった。
一度手放してしまったらもう二度とその手には戻らない…
あの日、空に放ってしまった赤い風船のように…
大切な物であればあるほどそんなものだ。
失った後にそのかけがえのなさに気が付くことのなんと多いことか。
選択しながらいろんなものを捨て、失いながら生きていく。
もちろん得るものだってあるさ。
しかし何もかも、全てを手に入れることはできないのだ。
元の世界に帰ることで平凡な日常を取り戻す。
そしてかけがえのない奈々を失うことになるだろう。
元の世界に帰ればここでの記憶は儚く消える。
それで良いのかもしれない。
用意されていたそもそもの未来。
記憶を失うことが結局一番ベストな結末にも思えてくる。
愛しい奈々は悲しむこともない。
奈々を失い絶望することもない。
ただただ元の世界が元の様に流れていく。
自然の摂理は抗うものを容認しない。
ファイティングポーズをとって対峙したところで敵う相手ではないのだ。
そして戦うべき相手でもない。
人も摂理の一部であり全貌だからだ。
それでもなお、愛する者の願いを叶え、
永遠にその身を抱こうとする。
人はいったいどこに向かって走っているのか。
なにを求めて
何の為に
答えはどこに?
答えはここに…
奈々の手を取り逡巡しながら歩いているとあっという間にカフェリンダに着く。
感じ良く古びた扉を開けて奈々を誘う。
「とうとうカフェリンダに着きましたね…」
奈々がポツリと言う。
「いろんな思いはあるが、まずはノートを…」
俺はノートのありかを探るため店内を動き回ろうとする。
と、
「雅樹さんコーヒーどうぞ。昨日暗黒空間が来たばかりだからまだリンダ先生のコーヒー美味しい」
奈々の呑気な声がする。
「奈々? やっとここまで来たんだから早いとこノートを…」
そんな俺の言葉を奈々が遮る。
「もうここまで来たんだからそんなに慌てないで…。ここまで来たんだから大切にしたいの…」
ふたりの想いが交錯する。
しかし想いは俺も同じであった。
ひとまずカウンターにつき奈々の入れてくれたコーヒーをすする。
ふと壁に目をやるとバロック調の額に収まった品の良い鏡に目が行った。
その鏡の中に小さな額を見つけた俺は反対側の壁にも目をやる。
ちょうど向かい合った壁の向かい側に同じ額に収まった鏡がありお互いを映し合っていた。
「雅樹さんあの席に青いノートがありました。奈々のお気に入りの場所。京子ちゃんも気に入ってよくあの席に座っていました」
そう言いながらカフェリンダの一席を指さす。
確かに異空間に来た初日に奈々とここに来た時、青いノートはあの席に置いてあった。
その様子を見て奈々はおかしいと言っていた。
青いノートはいつもきちんと同じ場所にあるのに、と。
あの時はふたりとも気にも留めずノートをもとの場所に戻して終わってしまった。
今日はそのノートを、真実の青いノートを確認に来たのだ。
奈々の仮説形成により青いノートに京子のメッセージがあると結論立てられた。
恐らく間違いなく奈々の仮説は実証されるだろう。
そこには何が書かれているのか。
はたして異空間からの脱出方法が書かれているのか。
逸る気持ちを抑えるようにバロック調の額を愛でながらコーヒーを口にする。
この時間を大切にしたいという愛しい奈々の気持を踏みにじるようなことはしたくなかったのだ。
しかしそんなふたりの時間を突き破る事態が不意に訪れた。
ふたりは共に同じ光景を目にして絶句した。
バロック調の額に収まった鏡の中から白くしなやかな二本の腕が伸びて来たのだ。
その二本の腕は壁を抑えまさに鏡から出てこようとしていた。
「雅樹さん!」
カウンターの中にいた奈々が俺の名を呼び慌ててそばに駆け寄ってくる。
俺は奈々を守るようにしっかりと抱く。
「奈々、下がってろ」
奈々を自分の背中に隠すように後ろに回す。
恐怖から逃れるように奈々が俺の体に手を回ししがみつく。
鏡の中から長髪の頭が抜き出て来たかと思うと額縁に足をかけ、とうとうカフェリンダに降り立った。
しっかりと俺の背中に張り付き前を見ようとしない奈々をかばいながら鏡の中から出てきた男と対峙する。
カフェリンダには禍々しさの欠片もなくただ静寂とコーヒーの香りだけが漂っている。




