最終話
清一十二歳 チッチ十五歳
「チッチ、チッチ」
清一がチッチを呼んで手を近づけると、チッチは臭いで清一の手を探り、鼻に清一の指が当ったのを確認するとペロペロと舐めだした。
「お母さん、チッチの目が見えないって本当なの?」
チッチの頭を撫でながら清一は隣に座る母親に尋ねた。
「ええ、お医者さんがそう言っていたわ。さらに胃腸が弱くなっているんですって」
母親の視線の先にはチッチが大量に残したドックフードと茶色に染まった枯葉の固まり。
「ご飯も胃腸に優しいものに変えないといけないわね」
「それならお母さん、お粥をつくろうよ」
「お粥か……、確かに胃に優しいけど、チッチが火傷しちゃうわよ」
母親が清一の頭を優しく撫でると清一は反論した。
「じゃあ冷たいお粥をチッチのために作ろう」
その日から清一はチッチのためにお粥を作った。普通に作ったお粥を冷蔵庫に入れて冷やし、程よい温度になったところでチッチに与える。
最初は訝しそうに臭いをかぐだけであったが、清一の思いが通じたのか、チッチは少しずつそのお粥を食べるようになった。食べる量と比例してチッチの元気が心なしか戻ってきたようにも見えた。
年が明け二月に入ったある日のこと――。その日は朝から風雨が激しく清一の町を襲った。夜になっても弱まることを知らず、さらにその強みを増していく。
窓を叩きつける雨粒を見て祖母が呟いた。
「これじゃあチッチの家にも雨がいっぱい入っているかもねぇ」
テレビアニメを見ながらそれを聞いた清一は、テレビを消すと
「お母さん、このままじゃチッチが風邪をひいちゃうよ。せっかく元気を取り戻したのに風邪をひいたらまた元気がなくなっちゃうよ」
「そうね、チッチを玄関に入れないとチッチが可哀想だわ」
母親と清一は合羽を着ると庭へと出た。外には冷たい風が吹きすさび、頬に当る雨粒には氷が混じっている。
「チッチ、迎えに来たよ。お家に入ろう」
清一の声を聞いたチッチが犬小屋から顔を出した。全身が小刻みに震えている。
「チッチ、寒かっただろう。家に入ったらあったかくしてやるからな」
清一は首輪に付いた紐を外すと、首輪を掴んでチッチを玄関へと誘導した。チッチはゆっくりと清一の隣を歩く。
家の中に入ったものの、チッチには自分の体に付いた水滴を飛ばす元気がなかった。チッチの全身の毛先から水滴が垂れ落ちる。
「チッチ、体拭いてあげるね」
母親は白いタオルをチッチの全身にかける。そして優しく叩くことで乾いたタオルにチッチに付いた水滴を染み込ませる。
「お母さん、僕も手伝うよ」
清一がタオル越しにチッチの体に触れる。その体は以前よりも細くなったように感じられた。
「清一はチッチのベッドを作って。風呂場にまだタオルいっぱいあるから」
「うん、分かった」
清一は風呂場へ走り様々な色のタオルを十枚ほど持ってきた。それらで丸まったチッチより一回り大きな円を作る。
「チッチ、お前のためにベッドを作ったからな。今日はこの中に入って寝るんだぞ」
清一の言葉を聞いたチッチは、鼻でタオルの位置を探るとその中心に入り丸くなった。
「よかったな、チッチ。これでもう寒くないよ」
清一がチッチの頭を撫でると、チッチは目を瞑り小さく鼻を鳴らした。冷たい雨に打たれて冷えたチッチの体の奥にほのかなぬくもりを感じた。
翌朝清一は母親の声で目を覚ました。
「清一、玄関に来て」
眠い目をこすりながら玄関に向かうと、父親と祖母がすでにそこにいた。二人の視線は玄関に寝ているチッチに注がれている。
「お母さん、お父さん、お祖母ちゃん、チッチがどうかしたの?」
清一が尋ねるが誰も答えようとしない。
「チッチ、どうした寒いのか」
清一がチッチの側へと駆け寄り頭を撫でる。冷たい――。昨夜も冷たかったけど、その時とは違う――。と清一は感じた。
「おい、チッチ寒いのか? 寒かったら返事をしろ」
清一はチッチの冷たい頬をつねった。チッチはそれに対して何の反応も示さない。
「清一ー」
父親がやっと口を開いた。
「チッチはもう起きないんだ」
「起きないってどういうこと?」
「チッチは死んでしまったんだ」
チッチの葬儀が終った後でも清一には「チッチの死」が信じられなかった。学校の国語や道徳の授業で聞いたことはあるが生まれて初めて目の当たりにした「生命の死」――。
「ねえ、チッチはどこに行ったの? チッチが死んだってどういうこと?」
「清一、チッチは天国に行ったのよ」
「天国ってどこ? お母さん」
「天国は……、空の上の世界よ」
「チッチにはもう会えないの?」
「また……いつか会えるわよ、きっと」
そう言うと母親は自分の仕事部屋へと逃げてしまった。母親の答えに清一は満足いかなかった。
「清ちゃん、こっちへ来なさい」
その時、祖母が清一を自分の部屋へと呼んだ。
「お婆ちゃん、お婆ちゃんならチッチがどこに行ったか分かるの?」
清一が尋ねると、祖母は笑顔で頷いた。
「ええ、分かるわ。お婆ちゃんの膝の上に座りなさい」
清一は言うとおりにした。すると視線の先に大きな仏壇と数枚の白黒写真が入ってきた。ただし一枚だけカラーの写真があった。それはチッチの写真だった。
「チッチはね、ここにいるのよ。清ちゃんのお爺ちゃん、私のお父さん、お母さんと同じようにこの仏壇の中にいるの。ここから清ちゃんのことを見守ってくれるのよ」
「見守る?」
「そう、清ちゃんが無事で元気に暮らせるように見守ってくれるの。チッチの体は清ちゃんから見えなくなっちゃったけど、その代わり清ちゃんを守ってくれる力を手に入れたのよ」
「チッチは前からずっと僕のことを守ってくれたよ」
確かに清一はチッチから守られ続けてきた。清一の疑問は当然である。
その疑問にも祖母は怯まずに答えた。
「そうね、清ちゃんの言うとおりね。だけどチッチは年を取るに連れて体が弱くなって清ちゃんを守ることができなくなってしまったの。だからチッチは清ちゃんのお爺ちゃんと一緒にずっと清ちゃんのことを守る力を手に入れたのよ。もう今度は年を取ることもなければ弱くなることも無いわ。ずっとずーっと清ちゃんを守り続けるのよ」
「チッチがずっと僕を守り続けるのか……」
清一はチッチの写真を撫でるとこう呟いた。
「チッチ、これからもよろしくな」
春になり、清一は中学生になった。これから自転車で毎日中学校へ通うことになる。その自転車は、かつてチッチの犬小屋があったところに置かれていた。
毎朝自転車にまたがるたびにチッチのたくましい背中が清一の脳裏に浮かぶ、そのたびに清一は心の中で呟いた。
「チッチ、行ってくるよ」
桜の花びらが舞う中、清一は自転車を漕ぎ始めた。その後姿をチッチが尻尾を振りながら見つめている。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
作者自身は犬を飼った経験はありませんが、小学三年から六年間住んでいた家の隣家に飼われていた犬とはまるで自分の飼い犬のように可愛がらせてもらいました。
今回はその思い出をちょっぴり混ぜて書いてみました。
読んでいただきありがとうございました。
また別の作品でお会いしましょう。ではでは。




