第四話
清一八歳 チッチ十一歳
「自転車に乗りたい」
夕食のハンバーグを食べながら清一が呟いた。
「自転車ならもう乗っているじゃないか」
父親が笑って応えると、清一は箸を持つ右手をテーブルに強く叩いて
「違う、補助輪がないやつに乗りたい」
清一のクラスの友達のほとんどが補助輪無しの自転車に乗れているというのに、清一は未だに補助輪つきの自転車である。
「重ちーだって普通に自転車乗れるんだよ。僕だって普通の自転車に乗りたいよ」
清一は力なくハンバーグを箸で切った。
「分かった、分かった。日曜日お父さんが補助輪を取ってあげるから、大川公園で練習しなさい」
大川公園とは三年前清一が溺れた川の隣に面している公園である。
「あそこなら芝生が多いし、人も少ないから思う存分練習できるだろう」
その週の土曜日。大川公園の芝生広場に清一とその両親、そしてチッチの姿があった。
休日だというのに広場にいる人はまばらで、遠くの野球場から時折子供たちの叫び声が聞こえてくる。
「お父さん手を離すときは声をかけてね」
清一はハンドルを力強く握り締める。
「分かっているって、怪我はするなよ」
父親は軽く自転車の荷台に手を触れる。母親はその様子を左手にチッチを繋ぐリード、右手にフリスビーを持って微笑ましく眺めている。
「よし清一、スタートだ」
父親の掛け声とともに清一はペダルを漕いだ。
最初はよろめいていたが三十メートル進んだ辺りで清一の体が安定しだした。それを見た父親は自転車の荷台から手を離す。
「ち、ちよっとお父さん手を離すの早……」
「早いよ」と言う前に清一は自転車にまたがったまま横倒しになった。
「清一、怪我はない?」
母親がチッチを連れて清一に駆け寄る。
「お父さん手を離すの早過ぎだよー」
清一は顔を上げて父親に抗議した。
「文句を言えるってことは大丈夫ってことだな」
父親は落ち着いた様子を見せながら自転車を立ち上げる。
「あなた。いきなり手を離すんじゃなくて、最初のうちは後ろに付いたまま走らせたほうがいいんじゃないかしら」
母親が清一の服に付いた泥を落とす。
「やっぱりそのほうが失敗も少なくてすむか」
それからしばらく清一は父親の支え付きで自転車を漕いだ。三十分ほどすると慣れたのか速く漕ぐことができるようになった。
「だいぶ速くなったじゃないか清一。この様子ならチッチと勝負できるかもよ」
息を切らせながら父親は笑顔で清一の肩を叩く。
「チッチと競走するの!?」
清一は目を輝かせながらチッチのほうを見る。チッチはそれまで寝そべっていたが、自分の名前を呼ばれたので、顔だけを起き上がらせて清一を見る。
「お母さんがフリスビーを投げる。チッチはそれを追って走るから、清一はそれに負けないように自転車を漕ぐんだ」
「分かった、やってみるよ。お父さん、チッチに勝つまで手を離しちゃダメだよ」
「分かっているって、しっかりと支えてやるから」
「チッチ、行くよ」
母親がチッチをリードから離し、フリスビーをチッチに見せる。チッチは尻尾を振り今にもそのフリスビーに食いつかんと立ち上がる。
「それっ!」
母親がフリスビーを遠くへ投げたのと同時に
「行くぞ、清一」
父親が清一の自転車を強く押した。清一もペダルを力強く踏みしめる。よろめきながらも清一の自転車は動き出した。やがて体は安定し、そのスピードは速まる。
「お父さん、手を離さないでよ」
清一の視線は空中のフリスビーを追うチッチの背中のみに注がれている。
「分かっているってしっかり支えているから」
フリスビーがゆっくりとその高さを落としていく。チッチはそれを空中で捕えようと腰を落とした。
「お父さん、このままじゃチッチが勝っちゃうよ」
清一はペダルを力いっぱい漕ぎながら叫んだ。
「大丈夫だってそのまま進めば勝てる」
父親の声がなぜか遠くから聞こえる。
その直後チッチは後ろ足で地面を蹴り、緑色のフリスビーを口に咥えた。チッチが着地したその横を清一の自転車が走りぬける。
清一はブレーキをかけて自転車を止めた。そして自分を支えていた父親の方を向く。
「お父さん、引き分けかな?」
しかし、自転車を支えていたはずの父親はいなかった。
「清一ー、お前よく一人でそこまで走れたなー」
遠くから父親の笑い声が聞こえる。見ると彼はいつ手を離したのか、スタート地点にいる母親の隣で清一を眺めている。
「お父さん、手を離さないでって言ったじゃないか」
自転車を降りた清一は父親に向かって大声で叫ぶ。その前をチッチが通り過ぎていった。
この日から清一は補助輪無しの自転車に乗れるようになった。




