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第二話

 清一二歳 チッチ五歳


 歩くことを覚えた清一は家のあちこちを歩き回る。フローリングや畳の上はもちろん、昼寝をする父親(聖司)の背中や、母親(雫)がたたもうとしている洗濯物の上も歩く。そのたびに父親や母親から注意されるのだが、歩くことが楽しい清一にとってはそんなことは苦にならない。

 家の庭もよく歩く。遠くに行かないようにその時は必ず家族の誰かが見ている。

 庭を歩くとき、清一は必ず「チッチ、チッチ」とチッチの周りを何度も歩く。チッチはお座りの姿勢で尻尾を振ってそれに応える。

「チッチ、ベローン」

 と、チッチの頬を強く引っ張ることもある。しかし普段大人しいチッチは怒ることなく、逆に清一の頬を舐めるのだった。


 それはある雨の日のことだった。

 清一はこの日も庭を歩いていた。祖母(ハツ)に黄色の合羽と長靴を買ってもらったのがよほど嬉しかったのだろう。水溜りだろうが、泥土だろうが気にせず時には飛び回ったりした。

「チッチも来ゆのー」

 清一は犬小屋にいるチッチに呼びかける。しかしチッチは犬小屋の中で寝そべって清一を見るばかりで外へ出ようとはしない。

「チッチは清一みたいに合羽を着ていないから濡れるのが嫌なんだよ」

 青い傘を差している父親が笑いながらチッチを見る。チッチ右耳を父親のほうに少し動かした。

「チッチが来ない、ダメー」

 清一は犬小屋に入るとチッチの背中に乗った。チッチはゆっくりと清一の方を振り向いた。

「チッチ、動け、動け」

 清一はチッチの頭を何度も押す。数分ほどしてチッチが清一を背中に乗せたままゆっくりと犬小屋から外へ出てきた。

「お、おい清一大丈夫か?」

 父親が慌てて清一のところへ駆け寄るが、清一は父親の心配をよそに。

「チッチ、動いた。動いた」

 と、チッチの背中にしっかりと掴みながら喜ぶのであった。清一から見るとチッチの背中は逞しいものに見えるのであろう。

「清一、チッチが重いって言っているだろう」

 父親が清一をチッチから離す。

「やだー、チッチ乗ゆのー」

 清一は膝下を上下に動かして抵抗するがそれも適わず、チッチはゆっくりと歩きながら犬小屋へ戻るのであった。

 小屋へと戻ったチッチは全身を激しく震わせ自身の体についた雨水を振り飛ばす。

「チッチ、ごめんな」

 父親は清一の代わりに謝り、「清一戻るぞ」と清一を抱えたまま家の中へと入っていった。チッチはその様子を小屋の中から視線を追って眺めていた。


「チッチと遊んだのー」

 清一は合羽と濡れた靴下を脱ぐことなく玄関からリビングへと歩いていった。

「おやおや、清一ちゃん、合羽は脱がなくちゃだめよ」

 祖母の注意も聞かずに、洗濯物をたたんでいる。母親のところへと向かう。清一は濡れた手で母親の腕を掴み

「ママ、チッチの上乗った。乗った」

 と、飛び跳ねた。乾燥機から出たばかりの洗濯物の上で、当然合羽についた雨水泥水が洗濯物につく。

「清一、何やっているの! そこをどきなさい!」

 怒りに満ちた母親の声に清一は動きを止めた。洗濯物を踏む足に力がこもる。

「見なさい清一。洗濯物も床も汚れちゃっているでしょ、どうしてそんな格好で家の中を歩き回るの! さっさとその合羽と靴下を脱ぎなさい!」

 清一は怯えながらその場に座り込んだ。目から大粒の涙が零れ落ちる。

「清一、チッチと遊んだのー」


 それからしばらくして清一の姿が消えた。家族三人で家中を探し回ったが清一は見つからない。日はすっかり落ち、雨が屋根を叩く音は激しく、風は窓に自らの体を強くぶつける。

「私がきつく叱ったばっかりに家を出て行ってしまったのかしら、どうしよう。洗濯物なんてまた洗えば済むのに」

 母親は先ほど自分の言葉を悔いた。今にも泣き出しそうな顔をしている。

「雫は悪くないよ。玄関で合羽を脱がせなかった僕がいけないんだ」

 父親は妻の右肩を優しく抱き寄せる。

「こんな嵐の中外にでていなけりゃいいんだけど……」

 祖母は心配そうに窓の外を眺める。青いワゴン車が雨に打たれ続けている。

「清一はまだ小さいから外に出たとしてもそんなに遠くには出ていないと思うんだ。近所を一回りしてくる」

 父親は上着を羽織玄関へと出て行った。

「まって、聖司。私も行く」

 母親は上着を着ずにそのまま夫の後を追った。


「清一ー」

「清一ー、お母さんが悪かったから、もう怒ってないから、出てきてちょうだーい」

 二人は手分けして町内中を探し回ったが清一の姿は見つからない。

 この嵐の中で傘は気休めにも使えず、家の前で二人顔を会わせたときは頭の先から足の先まで水に浸かっていると言っていいほど濡れていた。

「こうなったら警察を呼ぶしかないな……」

「そうね……」

 二人が落胆と絶望の表情を見せた頃、激しい風の中からかすかに何ものかの声が聞こえてきた。その声は小さく、遠慮がちに聞こえる。

「ねえ、何か聞こえてこない」

 母親がまずその声に気がついた。当たりを見回す。

「なんだろう、何か吠えているような……」

 「吠えている」という言葉が出た瞬間、二人の視線はチッチの犬小屋一点に向けられた。

「清一、いるの?」

 おそるおそる二人は犬小屋の中を覗きこむ。

 清一はそこにいた。黄色い合羽姿のままチッチの背中の上ですやすやと眠っていたのだ。

「チッチが清一を守ってくれたんだね」

 父親が清一を抱きかかえる。その腕の中で清一は「チッチ……」と呟いた。

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