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お飾り婿のつもりでしたらお引き取りくださいませ 〜無能だと勘違いした馬鹿どもを、婚約者が本物の手腕とざまぁで叩き潰します〜  作者: あずきまんま


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第1話_スプーンが指した一行

パリパリと乾いた音を立てて、羊皮紙の束が執務机の上で揺れた。


「……合わない。どうして先月比でこれほど輸送費が跳ね上がっているの……?」


アルトリア伯爵邸の二階、北向きの執務室。


窓から差し込む午後の淡い日差しの中、セレスティア・アルトリアは羽根ペンを握りしめたまま、深く長い溜め息をついた。


十九歳になる彼女は、この広大な北方領地――豊かな針葉樹林と、魔道具の核となる希少鉱物『蒼輝石(そうきせき)』の鉱山を治めるアルトリア伯爵家の一人娘であり、正当な次期当主である。


男兄弟に恵まれなかった彼女は、幼い頃から次期当主として厳格な法学、経済学、そして領地管理の教育を叩き込まれて育った。半年前から父である現伯爵が病で床に伏せるようになり、今では彼女が当主代行として領地経営のすべてをその細い肩に背負っている。


山積みにされた帳簿、近隣領からの陳情書、鉱山組合からの採掘報告書。


休む間もなく数字の羅列を追いかけ、目を酷使し続けたせいで、こめかみのあたりがズキズキと重く脈打っていた。


その時、執務室の重厚な扉が、ノックの直後に軽やかな音を立てて開いた。


「やあ、相変わらず難しそうな顔をしているね。そんなに眉間に皺を寄せていると、せっかくの美人が台無しだよ、僕の愛しい未来の奥様?」


空気を読まない、どこまでものんびりとした甘い声。


銀盆に載せたティーセットを片手に、まるで自分の部屋にでも入るかのような気軽さで歩いてきたのは、セレスティアの婚約者――レイジ・ヴォルターだった。


少し長めの柔らかな黒髪は、手入れをするのが面倒なのか無造作に前髪が垂れ下がり、整った目元を半分ほど隠している。仕立ての良いシャツの第一ボタンをだらしなく外し、口元にはいつも通りの飄々とした笑みを浮かべていた。


セレスティアは羽根ペンを置き、氷のような視線で彼を射抜いた。


「……レイジ様。執務室に入る際は、私の返事を待ってから扉を開けるようにと、これまで二十回は申し上げたはずです。それに、まだ私たちは婚姻を結んでおりません。『未来の奥様』などという軽薄な呼び方はおやめください」


「つれないなあ、セレスティアは。あと三ヶ月もすれば、僕は晴れてこのアルトリア伯爵家に婿入りする身じゃないか。今のうちに夫婦の予行演習をしておこうと思ってね」


レイジは肩をすくめると、机の端にあった未決裁の書類の束をひょいと脇へ寄せ、空いたスペースにティーカップを置いた。


湯気とともに立ち上ったのは、甘く爽やかな果実と、どこか清涼感のあるハーブの香りだった。


「ほら、淹れたてだ。少し休みなよ。朝から五時間もその椅子に根を生やしているんだろう? 執事のセバスが心配して泣きそうになっていたよ」


「休んでいる暇などありません。今月末は王都への税の納入期限ですし、蒼輝石の来期取引契約の見直しも残っています。……大体、レイジ様こそ今日は午前中からどちらへほっつき歩いていらしたのですか?」


「ん? ちょっと街の市場まで散歩にね。新しい恋愛小説の新刊が出たと聞いたから、本屋を覗いて、ついでに広場の露店で焼き菓子をつまみ食いしてきた」


悪びれもせずケロリと言ってのける婚約者に、セレスティアのこめかみがピクリと引き攣った。


レイジ・ヴォルター、二十一歳。


王国の中央貴族の中でも屈指の権勢を誇る、ヴォルター侯爵家の三男である。


一介の地方伯爵家に過ぎないアルトリア家に、格上である侯爵家から入り婿が来ると決まった当初、領内の家臣たちは色めき立った。病床の父に代わって女手一つで領地を守ろうとするセレスティアにとって、中央の有力貴族との繋がりは何よりの後ろ盾になるはずだったからだ。


しかし、実際にアルトリア領へやってきたレイジは、周囲の期待を別の意味で裏切った。


社交界での噂通り、彼には侯爵家の人間らしい野心も、魔導師としての才覚も、政治的な手腕もまるで見当たらなかったのである。


ヴォルター侯爵家には傲慢で知られる長男のガルドと、社交界で派手に遊び回る次男のディノがいる。その陰で、三男のレイジは「魔力も実務能力もない家の落ちこぼれ」「ただ日々を怠惰に過ごすだけの道楽者」として実家から完全に冷遇され、体よく北方のアルトリア伯爵家へ厄介払いされた――それが、社交界におけるもっぱらの定説だった。


この屋敷に来てからの三ヶ月間、セレスティアがどれほど領地経営のいろはを教え込もうとしても、レイジは笑って逃げるばかりだった。


「いやあ、難しい数字を見ると目が回ってね」


毎日昼過ぎまで庭園の東屋で昼寝をするか、王都から取り寄せた娯楽小説を読むか、今日のようにふらりと城下町へ遊びに出ていくかのどれかだった。


(本当に、この方は我がアルトリア家を支える気があるのかしら……)


セレスティアは胸の奥で黒いモヤのような焦燥感が渦巻くのを感じながら、出された紅茶に口をつけた。


……悔しいことに、レイジが淹れる紅茶はいつも驚くほど美味しい。


一口含んだ瞬間、舌の上に広がるまろやかな甘みと、鼻腔を抜ける澄んだ香りに、張り詰めていた神経がふっと緩む。不思議と、彼のお茶を飲むと、どれほど酷い頭痛や眼精疲労も嘘のように引いていくのだ。


「……美味しいですわね。どこの茶葉ですの?」


「城下町の隅にある小さな薬草店のブレンドさ。店主のお婆ちゃんと仲良くなってね、おまけしてもらったんだ。気に入ったならまた貰ってくるよ」


レイジは嬉しそうに目を細めると、机の上に広げられていた『蒼輝石・輸送経路別コスト一覧表』を覗き込んだ。


「へえ、これがさっき唸っていた書類かい?」


「ええ。隣接するカルネ子爵領を通る街道の通行税が、今月から急に引き上げられたのです。しかも、先月までは問題なく通れていたはずの荷馬車が、書類の些細な記述ミスを理由に三日も関所で足止めされて……。おかげで取引先のガマル商会への納入が遅れそうになっています」


セレスティアが忌々しげに眉を寄せると、レイジはカップに添えていた蜂蜜の小瓶に手を伸ばした。


「ふうん。カルネ子爵といえば、最近王都の賭博場でずいぶん派手に負け込んでいるという噂を小説の挿絵画家から聞いたよ。……おっと、手が滑った」


コツン、と小さな音を立てて、レイジの指先が小瓶の蓋を弾いた。


幸い蜂蜜はこぼれなかったが、転がった銀のスプーンが、広げられていた別の書類――『ガマル商会・第三四半期契約更新書(控え)』の隅に、カチャンと落ちた。


スプーンの先端が、書類の最も下にある小さな但し書きの欄を正確に指し示している。


「もう、何をなさるのです! 大事な公文書が汚れたらどうするのですか!」


「ごめんごめん、僕としたことが不器用でね。……でもほら、そのスプーンが落ちたところ、なんだかインクの色が他と違わないかい? まるで後から別の人間が書き足したみたいに」


レイジに言われ、セレスティアはスプーンを退けようとした手を止め、その箇所に視線を落とした。


そこには極小の文字で『※天災および関所封鎖を含むいかなる事由であれ、納入が期日に遅れた場合、違約金として蒼輝石鉱山・第三坑道の採掘権を無償譲渡するものとする』と記されていた。


「……っ!? な、なんですの、この条項は……!?」


セレスティアの顔からサッと血の気が引いた。


先月、ガマル商会の会頭が屋敷を訪れ、契約書の更新手続きを行った際、セレスティアは確かに全文を確認したはずだった。その時には、このような不当な採掘権譲渡の文言など存在しなかった。


よく見れば、その一行だけ、アルトリア家で使われている公用インクではなく、わずかに赤みを帯びた安価なインクで精巧に書き加えられている。控えの書類を保管庫へ戻す隙に、商会の人間がすり替えたか、特殊なあぶり出しの薬品を使って後から浮き上がらせた偽造工作に違いなかった。


「大変……! これでは、もしカルネ子爵領の関所でこれ以上馬車が止められたら、違約金代わりに鉱山の権利を奪われてしまいます!」


セレスティアは弾かれたように立ち上がった。


実は先月も、税務計算の巧妙な改ざんがあった際、レイジが窓を開けた拍子に風でページがめくれ、それが偶然のきっかけとなって不正箇所が見つかったことがあった。また、領境の森に不審なゴロツキがうろついていた時も、レイジが街へ遊びに行ってくると言って出かけた翌日には、なぜかゴロツキたちが全員綺麗に縄で縛られて衛兵詰所の前に転がされていた。


セレスティアはそれを「運が良かった」「うちの衛兵隊が優秀だった」と信じて疑っていなかったが、今回もまた、レイジの何気ない一手が恐るべき罠を事前に暴き出したのだ。


しかし、当のレイジは、ふわあと大げさなあくびを一つしてみせた。


「いやあ、おっかない話だねえ。やっぱり政治とか商売とかは僕には向いていないや。さてと、僕はそろそろ庭園の薔薇に水やりをする時間だから、失礼するよ。あまり無理をしないようにね、セレスティア」


「ちょ、ちょっとレイジ様!? これほどの一大事だというのに、あなたは何とも思わないのですか!?」


「思うも何も、僕みたいな実家から放り出された無能な三男坊が口を出したところで、セレスティアの邪魔になるだけだろう? 君は優秀なんだから、きっと上手く切り抜けるさ。応援しているよ」


ひらひらと軽く手を振り、レイジは風のように執務室から出ていってしまった。


パタン、と閉まった扉を見つめ、セレスティアは唇を強く噛みしめた。


(……やっぱり、あの方に期待した私が愚かだったわ。家が傾きかけているというのに、薔薇の水やりですって……!?)


胸の奥がチリチリと痛む。


なぜ、ただの政略結婚の相手、家門を継ぐためのお飾り婿に過ぎないはずの彼の無関心な態度が、これほどまでに自分を寂しく、苛立たせるのか、セレスティア自身にも分からなかった。


ただ一つ確かなのは、このアルトリア伯爵領を守れるのは自分しかいないという、重く冷たい現実だけだった。


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