あと半年
久しぶりに届いたメールを、俺は何度も読み返していた。
『あと半年、頑張ってみる』
たった一行。
それだけの言葉が、頭から離れなかった。
嬉しかった。
でも、素直に喜んでいいのかはわからなかった。
半年。
その先に何があるのか、俺にはわからない。
何かが変わるという意味なのか。
それとも、ただ今を乗り切るための目標なのか。
聞けばいい。
そう思う一方で、聞くのが怖かった。
期待していることを、見透かされてしまいそうだった。
そもそも、俺は何を期待しているんだろう。
スマホを伏せ、椅子の背にもたれた。
もう気にしないようにしようと思ったことは、一度や二度じゃない。
考えなければ、そのうち何とも思わなくなる。
そう信じていたはずなのに、たった一通のメールで、忘れたつもりの記憶がいくつもよみがえる。
俺は小さく息を吐き、もう一度スマホを手に取った。
あの子は、どんな気持ちでこのメールを送ってきたんだろう。
俺が考えているほど、深い意味なんてないのかもしれない。
それなら、それでいい。
そう思おうとしても、返信を打つ指は動かなかった。
あの子と初めて会ったのは、三年前のことだった。
*
仕事帰りに立ち寄る居酒屋があった。
駅から少し歩いたところにある、小さな店だ。
ひとりで飲んでいても、店員が必要以上に話しかけてこない。顔なじみの店員とは挨拶を交わす。
俺は昔から、人と必要以上に距離を詰めるのが得意ではなかった。
仲が悪いわけじゃない。頼まれれば手を貸すし、困っている人がいれば気にもなる。
ただ、自分のこととなると話は別だった。
仕事で問題が起きても、誰かに相談する前に、まず自分で何とかしようとする。弱音を吐いたところで状況が変わるわけじゃない。そう考える癖がついていた。
その頃は、仕事が終わっても、まっすぐ家に帰る気になれない日が増えていた。
以前は仕事で結果を出すことも、いつか家庭を持つことも、それなりに真剣に考えていた。
けれど、いくつかのことがうまくいかなくなってから、先のことを考えるのが少し苦手になった。
目の前の仕事をこなし、一日を終える。
帰りに酒を飲み、家に帰って洗濯をする。翌朝になればまた仕事へ行く。
やるべきことを順番に片づけていけば、一日は終わる。
それで困ることはなかった。
その日も、いつものようにカウンターの端に座った。
「いらっしゃいませ!」
店の奥から、聞き慣れない声がした。
顔を上げると、見覚えのない女の子が忙しそうに店内を動き回っていた。
少し大きめの制服に、ひとつにまとめた髪。年齢は二十歳くらいだろうか。
新しく入ったアルバイトらしかった。
「美月ちゃん、そっちお願い!」
厨房のほうから声が飛ぶ。
「はーい、今行きます!」
彼女は明るく返事をして、手にしていた皿をテーブルへ運んでいった。
美月。
名前を知ったのは、そのときだった。
若いのに、しっかりしているな。
そんなことを思いながら、俺は生ビールを頼んだ。
しばらくして、彼女がビールを運んできた。
「お待たせしました」
グラスを置くと、彼女は軽く頭を下げ、次の仕事へ向かった。
店内は忙しかった。
注文を取り、料理を運び、空いた皿を下げる。彼女は先輩らしい店員に何度か確認しながらも、手を止めずに動いていた。
初日から大変そうだな。
俺は運ばれてきたつまみを口に運び、ビールを飲んだ。
ふと、厨房の前で彼女が立ち止まった。
店内を見渡し、小さく息を吐く。
ほんの一瞬のことだった。
彼女はすぐに顔を上げ、また笑顔で客のもとへ向かっていった。
慣れない仕事で疲れたのかもしれない。
それ以上考えることもなく、俺は箸を動かした。
その夜、彼女と交わした会話は、注文と挨拶くらいだった。
店を出るとき、彼女はほかの店員と同じように頭を下げた。
「ありがとうございました!」
俺も軽く会釈をして、店をあとにした。
駅までの道を歩きながら、明日の仕事のことを考えていた。
家に帰ったら、洗濯をしなければならない。
帰宅して洗濯機を回し、干してから眠る。そんな段取りを頭の中で組み立てていた。
それからも、俺はその店に通った。
美月がいる日もあれば、いない日もあった。
顔を合わせれば挨拶をする。注文を聞かれれば答える。ときには、ほかの店員と話している声が聞こえてくることもあった。
何度か顔を合わせるうちに、彼女も俺の顔を覚えたらしい。
ある日、カウンターに座ると、彼女が注文を取りに来た。
「生ビールでいいですか?」
いつも頼むものだった。
「ああ、お願いします」
彼女は注文を確認すると、伝票に書き込んだ。
「いつもありがとうございます」
そう言って、少し笑った。
俺は軽く手を上げて返した。
次に店を訪れたとき、俺はカウンターに座る前に店内を見渡していた。
美月がいるかどうか、確かめていたらしい。
理由を考えかけて、やめた。
考えたところで、答えが出るようなことでもなかった。
俺はいつもの席に座り、生ビールを頼んだ。




