93話 貧民街のネクロマンサー2
天井にポツポツと空いた穴から茜色の光が射し込んでいる。ナターシャは足を三角に抱え、床を照らすその明かりが消えていくのを、ただじっと見つめていた。
もうすぐ夜がくる。
夜は恐い。ナターシャは子どもだが、別に子ども騙しの化け物の類いを恐れているのではない。もっと恐ろしい奴らがやって来る。
ほら、暗闇と一緒に。
「この辺漁ったか?」
「来たのは十日以上前だろ。今日は金目の物が手に入りそうな気がするぜ」
「前みたいに、銅像と間違えてクソ掴むのは止めてくれよ」
ゲラゲラと野太い笑い声が貧民街に響き渡る。王都の連中だ。
あいつらは住人のなけなしの金を奪い、女を攫う。望んだものが手に入らなければ、子どもにだって暴力を振るって溜まった鬱憤を晴らすのだ。
王都には治安を維持するために憲兵がいるけれど、貧民街は当たり前のようにその範囲外だ。誰もナターシャとモニカを助けには来てくれない。
だから今日も息を潜めてやり過ごす。眠るのは、あいつらの足音が完全に遠くへ行ってからだ。
「お姉ちゃん、お母さん起き――」
隣で座るモニカを抱き寄せ、慌ててナターシャは手で口を塞ぐ。それでもうねうねと動こうとする唇を、ナターシャは強く押さえつけた。
「今ちょっと声がしなかったか?」
「どっちだ?」
「確かこの辺で……」
ランタンの灯りが隙間風とともに家の中へ入ってくる。恐怖で漏れ出しそうになる声を、ナターシャは必死でこらえた。枯れ木を重ねたような家の壁は、簡単に音を通す。
「……気のせいじゃないのか?」
「いや、確かに……」
「待て、それよりも臭うぞ!」
疑念交じりだった二人の声が、軽やかに弾みだした。
「こっちだ、死んだ人間の臭いがする。まだ新しい」
「それならきっと誰にも漁られていないな」
ザッ、ザッ、ザッと、地面を蹴る音が近づいてくる。ナターシャはモニカを抱いて、ただ震えることしかできなかった。
こっちに来るなと祈れば祈るほど、欲望に満ちた男たちの笑い声が大きくなる。
「お邪魔しまーす!」
ドンと扉を蹴破り、痩せた男が入ってくる。あまりの衝撃に、ナターシャはビクリと体を強張らせた。
「くっせーな。でも当たりだぜ」
痩せた男は、目から下を隠した布越しに鼻を押さえる。そのまま手に持ったランタンをかざし、ぐるりと部屋を見回した。
「おっ? ガキもいるじゃねぇか。しかも女だ」
ナターシャと目が合うと、痩せた男はニタリと目を細めた。「おっ、どれどれ」と、男がもう一人入ってくる。
揺らめく火に、太陽が昇ったと勘違いした羽虫たちが、腐った母親のもとを飛び立った。男はそれをうっとうしそうに手で払いのける。
「ちょっとばかし部屋を見せてもらうけど、じっとしとけよ。逃げたりなんてことは、考えない方がいいぜ」
痩せた男は、ズボンのポケットからナイフを取り出し、ナターシャへと突きつけた。果物用のナイフではあるが、ナターシャの細い喉を刈り取るには十分過ぎる得物だ。
恐怖と絶望で目の前が霞んでいくようだった。けれどナターシャは目を閉じず、男たちを睨み続ける。
ここで目を閉じてしまえば、明日がやって来ないような気がしたから。
「お姉ちゃん、お母さん起きないね」
モニカはベッドを見つめたまま、機械のように口を動かした。
「ん…… そっちのガキはいっちまってるのか?」
痩せた男がランタンをそっと近づける。灯りに照らされたモニカの瞳は、まるで井戸の底のように黒く澄んでいた。
「お姉ちゃん、お母さん起きないね」
「モニカ!」
姉の呼びかけは、もう妹の耳には届かない。
「駄目だ、こいつは売り物になんねぇ」
ランタンを引っ込めると、痩せた男はがっくりと肩を落とした。そして母親が横たわるベッドへと向かい、「早く済ませるぞ」と二人で家の中を物色し始める。
机代わりの木箱の上、ベッドの下、引き出しの奥。初めは丁寧に漁っていた男たちも苛立ちを見せるようになり、次第に家を破壊する勢いで金目の物を探しだす。
この家に何もないのはナターシャが一番よく知っている。金になる物があれば、母親は自分のために全部使っているだろう。
ナターシャは家が荒らされるのをただ黙って見ていた。不思議と嫌な気持ちはしなかった。
「なんもねぇじゃねぇか!」
痩せた男が思いっきり木箱を蹴り上げる。壁にぶつかり粉々になると、埃っぽい部屋はさらに煙たくなった。
「仕方ねぇ、ガキだけ連れて行こう」
「そうだな」
ナターシャの胸がドキリと跳ね上がる。
嫌だ、嫌だ。せっかく明日まで生きようと思えたのに。
迫りくる手を払いのけると、痩せた男はナターシャの顔を一発殴った。
口の中がざらついて鉄の味がする。脳裏に浮かんだのは、引きつった笑みを作りナターシャを殴る母親の顔だった。抵抗する意思なんて、一気に吹き飛んでいった。
ナターシャを引きずりながら、痩せた男がモニカを横目に見る。
「もう一人はどうする?」
「こいつは大して金にならん、連れてくのも面倒だ」
「なら、近いうちに母親のところへいけるな」
男たちのけたたましい笑い声が、ナターシャの鼓膜を揺らした。だが、その不快な声が脳に伝達されることで、ナターシャの意識は一瞬だけ鮮明になる。「母親のところへいける」という言葉が、頭の中を埋めつくした。
そして、体が勝手に動き出す。そんな事はさせないと。
「痛ってぇ!」
ナターシャは痩せた男の手に噛みついた。相手の油断もあったのだろう。ナターシャを掴んでいた手は、簡単に振りほどかれた。
「このガキ……!」
手の甲を覆い、痩せた男はナターシャをキッと睨みつける。手首を伝う一筋の血が、彼の服の袖を薄く染めた。もう一人の男は「情けねぇな」と痩せた男を笑い者にしている。
ナターシャは立ち上がって、モニカを背に両手を広げる。
この後どうするかなんて何も考えてはいない。笑っている膝がその証だ。でもナターシャに後悔なんてなかった。モニカを母親のところへなんて行かせない。
モニカと明日を生きるんだ。
「貧民街のクズが、調子に乗るんじゃねぇよ」
痩せた男は血の流れる手でナイフを取り出す。
恵まれた王都で暮らしているくせに、一体何が足りないんだ。
刃を突き付けられても、ナターシャは一歩も引かなかった。その姿に、痩せた男は眉間のしわを深くさせる。
「何もわかってないみたいだな!」
怒鳴りながら痩せた男は右手を振り上げる。あまりの剣幕にナターシャは思わず目を瞑った。
その直後。背後から小さな影が飛び出す気配と―― 肉を断ち切る嫌な音。そして頬にかかる生暖かい飛沫。
ドスンと何かが足下に倒れ込む。こわごわと片目を開くと、一瞬にして血の気が引いた。
「モニカ! モニカ!」
倒れていたのは首筋を裂かれたモニカだった。
ナターシャはその痩せ細った体を抱き起こすが、暗い瞳の奥に光が灯ることはない。傷口を手で塞いでも、指の隙間から無慈悲に血が溢れるだけだった。
「おい! 何やってんだ!」
「違う……! 俺は悪くない。お、脅すだけのつもりだったのに、ガキが動き出すなんて」
言葉を詰まらせながら痩せた男が言う。その瞬間、ナターシャは全てを理解した。
モニカはナターシャをかばったんだ。壊れたように見えた妹には、まだナターシャを想う気持ちが残っていた。
だけどもう遅い。遅い……
干からびそうだった体から、信じられないほどの涙が流れ出てくる。ナターシャは嗚咽を漏らし、モニカを抱きしめた。
「でもよ、こいつは売り物にならないんだろ?」
「ったく、しょうがねぇな。そのガキだけ連れて行こう」
痩せた男が安堵の息を吐き、ナターシャを後ろから抱きかかえる。
「やめて! モニカ! モニカ!」
「暴れるな! お前はこれ以上傷物にできねぇんだよ!」
必死に伸ばした手は虚しく空を掴んだ。さっきよりも暗くなったランタンの火が、一点を見つめるモニカの横顔を照らしている。
今まで生きてきて何も良いことなんてなかった。
だからといって死にたくはなかった。
死が怖い。モニカと離れるのが怖い。
一人になるのが怖い――
この世には魔法というものがあるそうだ。それが本当なら、モニカを蘇らせることができるのだろうか。
もう一度モニカに会いたい。二人で笑ってサンドイッチを食べたい。もう一度、もう一度……
あれ……? 声が聞こえる。
ぽつんと響いた声は、水紋のように頭の中へと広がっていく。知らない人の声だ。
ナターシャが意識を向けると、ぽつぽつと雨脚を速めるように、声が、叫びが、頭の中に降り注いでくる。
『助けて』『苦しい』『許して』『死にたくない』
なんだこれは。
濁流のように流れ込む負の感情に耐えきれず、ナターシャは胃の中身をぶち撒けた。
「おいおい、勘弁してくれよ」
痩せた男は焦った様子でナターシャを放り投げる。腐りかけの床には、胃液が散乱していた。
「ちゃんとお前が連れて行くんだぞ」
「はいはい、わかってるよ」
舌打ちしながら、痩せた男は再びナターシャへと手を伸ばす。その刹那。
「お邪魔しまーす」
耳をつんざく爆発音とともに、扉に面した家の壁が―― 引き千切られた。
ナターシャの目の前で、ガラガラと崩れ落ちる天井が小さな山を作る。強盗に入った男たちは急いで家の奥へと避難した。
空から降り注ぐ月の光を、化け物のように巨大な手が遮っている。
闇に溶けるようにすーっと手が消えていくと、瓦礫の上に黒いローブの女が立っていた。
「兵隊を集めに来たんだけど、もっと良いものを見つけちゃった」
黒いローブの女はナターシャと目が合うと、嬉しそうに口端を持ち上げた。




