9話 救いの手
「な、なんのようだ!?」
背後から悪魔の声。全身に力が入り、返す言葉が上ずった。昨日は気負うことなく対峙できたはずなのに、今は足の震えを抑えるのが精一杯だった。
この路地を抜ければ、妹達が待つ孤児院へたどり着けたのに――
「そんなに構えなくても。あなたまでスケルトンに変えに来たわけじゃないのよ」
嗜虐的な笑みを浮かべ、ナターシャはゆっくりと迫ってくる。親友のガインをスケルトンにした女。歩くたび、足下まで覆う黒いローブがふわりと揺れる。
「あなたにとってもいい話があるの」
囁くような甘い声色に、胸を打つ鼓動が速度を増す。
「お前はガインを殺したランドハイムの手下だろ! そんな奴の言うことなんて聞く必要ない!」
「手下……? 私が? ランドハイムの?」
ナターシャは目を丸くした後、ゲラゲラと笑い出す。手で口を覆ってはいるが、表情を隠しきれてはいない。
「な、何がおかしい!」
「そういえば、私のこと何も話してなかったわね。私の名前はナターシャ・ヴィンヘルン。ここ、モルジス王国所属の軍人よ。以後、お見知りおきを」
ナターシャは右足を後ろに引きながら軽く腰を下ろし、ローブの裾を摘み上げた。花のように広がったローブの下から見える足は細くしなやかで、体型だけは、か弱い女性といった印象を受ける。
「昨日は仕方なくランドハイムの護衛をしてただけよ。まぁ、そのおかげで労働力を確保できたけど」
「っ……!」
ナターシャは口角を吊り上げ、俺を小馬鹿にするように笑う。心の中で「落ち着け」と自分に言い聞かせるが、自然とポーションの入った小瓶を握る手に力が入った。
「だからそんな顔しないでよ、良い物持ってきたんだから」
声を弾ませながらナターシャはローブの袖口に手を伸ばし、中から小瓶を取り出した。暗い路地でもくっきりと光る、黄金色の中身を見つめながら、指で遊ぶように回してみせる。
「これ、何かわかる? あなたがきっと一番欲しい物。 ーーたまたま聞いちゃったのよ、薬屋でのやり取り」
「まさか、そんな……」
「いい顔するじゃない、まだそっちの顔の方が好きよ」
心の内を見透かされているようだった。相手の事を信じるつもりなんてないのに、嘘をついてるようには全く見えなかった。それほどまでにナターシャの言葉と、輝く小瓶には惹きつけられるものがあって。
「……レーゲの病を治す薬」
探し求めていた、サリーの病を治す薬……
「大正解! 察しが良くて助かるわ。しかも、安物じゃなくて、モルジス王国直属の薬師が作った高級品。手に入れるなら金貨二枚は必要かしら」
高ぶった気持ちを発散するように、ナターシャは小瓶に軽く口づけをした。
「金貨二枚……」
耳に残った響が思わず声に出る。
金貨一枚は銀貨百枚と同じ価値がある。それが二枚も必要な薬。薬屋で求めたものとは別格だ。これならばサリーの病も簡単に治せるだろう。
「どう? 話を聞く気になった? あなたが欲しいのは、その大切に握りしめてる安っぽいポーションじゃなくて、こっちでしょ」
思わずフレンから貰ったポーションを背中に隠した。一連の動きをジトッと見つめるナターシャは、また楽しそうに笑い声をあげる。
「わかった、話だけ聞いてやる」
「強がっちゃって」
自分を奮い立たせるため、縮んだ喉を無理矢理こじ開け、できる限りの声を出した。
ナターシャは眉をひそめ、欠伸をひとつ手中に収める。
俺がナターシャを恐れていることは筒抜けだろうが、このまま恐怖で支配されるわけにはいかない。
なぜならこれは、取り引きなのだから。
「まぁ、いいわ…… 条件はとっても簡単。ネクロマンサーになって私に協力して」
「は?」
ネクロマンサーってなんだ? いや、ガインがスケルトンにされたとき、ランドハイムがそんな事を言っていたような……
間の抜けた返事で察したのか、やれやれといった様子でナターシャは続ける。
「ネクロマンサー、死者を操る魔術の使い手。私の支配下にあったスケルトンを動かしたんだもの。 ――あなたにはその才がある」
右の手のひらを天に向け、指先から誘うようにナターシャは手招きした。大胆に両肩を晒した漆黒のローブが、彼女の白い肌を引き立てている。
話を完全に理解できたわけではないが、「才能がある」という甘い蜜のような響に、耳が囚われてる。
「私に着いてくれば薬が手に入り、力も身につけられる。 なにより―― あなたは私の提案を断れない」
ささやくような声が、諦めると決めた心に、体中に染み渡る。フレンと交わした言葉が、頭の隅に追いやられ霞んでいく。
薬が手に入る、サリーが助かる、断る理由がどこにある?
フレンから貰ったポーションを破れかかったズボンのポケットに忍ばせた。初めて受け取った好意を、最初から無かったかのように手放す。
これで全て上手くいく。
「……お前に協力する……」
「交渉成立ね」
「ただ1つだけ…… ガインを返してくれ」
ナターシャは絹のような黒髪の毛先を指でいじりながら、大通りへ視線を移した。
「……ああ、お友達のこと? それはあなた次第ね」
雑に答えた後、ナターシャは黄金色の薬をローブの中へと戻す。
「あっ……」
視界から消える薬に向かって、無意識に手が伸びた。
「今、渡すわけないでしょ、ご褒美は全てが終ってから。さぁ、行きましょう」
ナターシャは歩幅を広くし、俺の隣を駆け抜けていく。頬が緩んだ横顔には、さっきまでの威圧感は消えていて。その真意を理解することはできないが、きっと良くないことを考えているのは明白だった。
「いいもの見せてあげる」
ナターシャに続き大通りに出る。路地の暗闇で開いた瞳孔が太陽の光を吸収し、慌てて手の平で日陰を作った。
後ろの俺を気にせず、ナターシャは無邪気に、整備不足で粗い路面に両手をかざす。
「――おいで」
聞き覚えのあるフレーズが耳に入ると、路面の半分を黒い靄が沼を形成するように広がった。
靄からひんやりした冷気が溢れ、地面から這い出るように、骨で組み上げられていく客車と、繋がれた馬が姿を見せる。
「なんだ、これ……」
大きさの異なる多種多様の生物の骨が、折り重なって円形の客車を形成していく。その客車からは、まるで甲殻類の脚のように複数の鋭利な骨が生え、その一本一本が地表をガッチリと掴んでいた。あれで車輪の代わりをしているのか……
全身に鳥肌が立ったのは、靄の冷気に当てられたのではなく、この世のものとは思えない光景を目の当たりにしたからだろう。これを乗り物として扱おうとするナターシャは常軌を逸しているとしか言いようがない。
そして馬だ…… いやあれは馬なのか? 一般的な馬より一回り大きいのが二頭。特筆すべきは頭部が欠損しながらも、生き生きと蹄鉄を地面に打ち鳴らしているところだ。首から足先まで紫を基調とした斑模様が広がり、ご機嫌に鞭のような尻尾を振っている。
「可愛いでしょ」
さっきからご満悦なナターシャは俺に目配せし、客車から伸びた骨の階段を上る。骨を踏む乾いた音をかき消すように、遠くから女性の悲鳴が聞こえた。
「こんなもの町中に出していいはずないだろ」
「はい? あなた何言ってるの?」
俺がおかしな事を言ってるような口ぶりで、ナターシャは自分の価値観が正しいといった姿勢を崩さない。
「私は軍人でこれは馬車、町中だけじゃなくて外をつなぐ正門だって通れるわ。しかも、門兵は私の馬車だって分かってるから素通り出来ちゃう。顔パスならぬ馬パスね、まぁ馬に顔はないんだけど」
「笑えねぇよ」
一人でケラケラ笑うナターシャを見て、つい本音が漏れた。俺の言葉を聞いても気にせず、彼女は客車に乗り込む。
「何してるの、早く乗りなさい」
「それより、どこに行くんだよ」
場所も気になるが、こんな気味の悪い乗り物に身を預けたくない。意味の無い時間稼ぎを試みる。
「着いてからのお楽しみよ。 ――それとも薬いらないの?」
「くそっ」
全ては見透かされているようだ。覚悟を決め、勢いよく骨の階段を駆け上がる。客車に入ると、階段は折りたたむように形を変え、窓となって入口を塞いだ。
先に座っていたナターシャを見下ろすと、浮き上がったようにくっきりと見える鎖骨と胸元が視界に入り、俺は意識的に目を逸らした。
「突っ立ってないで座ったら」
「ああ」
向かい合うようにして、恐らく骨で構成された白い座面に、恐る恐る腰を掛ける。如何にも臀部にダメージを負いそうな見た目なのだが、意外にも優しく包み込むようなクッション性を備えていた。
向かい合ったまま、骨に包まれた空間で沈黙が流れる。
窓からドドドドと馬車に付いた足の動く音がそよ風に混ざって耳を打つ。かなりの速度で進んでいるように感じるが揺れは少なくなく、炭坑の行き来で使った馬車に比べれば乗り心地は格段にいい。
貧民街を抜けたのか、馬車の走行音よりも甲高い悲鳴がいたるところから響いてきた。
「今日も街は平和ね」
窓枠に頬杖を付きながら外を眺め、ナターシャは沈黙を破った。悲鳴を聞きながらも口角を上げて話す姿に、共感している自分がいる。
慌てふためく王都の連中はひどく滑稽に見えた。
「そういえば…… あなたの名前はなんて言うの?」
「えっ…… 名前も知らない奴にこんなことしてるのか」
ナターシャは、流れるように変わる景色を見つめながら静かに切り出した。風に揺れる黒髪が、さらりと首すじから肩を撫でる。
「どうでもいいでしょ名前なんて、言いたくないならそれでいいわ」
「ダレスだ。一応お前の名前は聞いたからな、答えておく」
「そう…… そんなことより、私の馬車の感想は?」
「そんなことって、そっちが聞いてきたんだろ」
ナターシャは話を明後日の方向にもっていき、俺の反応を見て楽しんでいた。
敵意を表に出さない彼女の対応に、徐々に警戒心が解けていく。会話は交わすがお互いに腹の底まで知ろうとはしない、利害のみが一致した関係―― ではなく力のない俺が一方的に不利な立場なんだろう。
一定のリズムだった歪な足音がさらに速く地面に刻みこまれる。
街の場景が次々に切り替わっていく、行く先の分からない骨の馬車の中。
サリーの病を治す薬が手に入るなら、どこへ行ったって構わない。
たとえそれが地獄であっても。