62話 刻まれた傷跡
目を覚ますとふかふかのベッドの上に俺はいた。
白いカーテンがばさりと広がると、新鮮な風が淀んだ部屋の空気をかき混ぜる。射し込んだ光で、俺は反射的に目を細めた。
『おはようございます。ダレス様』
柔らかな声が頭の中に染み込んでくる。かすかにぼやけた視界の端に、かわいらしいメイド服を着たネルンが映り込んだ。どうやらここは、ナターシャの屋敷のようだ。
「ネルンか…… 俺は一体、どのくらい寝ていたんだ?」
『今日で十日目になります。厳密に言うと、意識が朦朧としていただけなので、眠っていたわけではないのですが』
俺は体を起こし、自分の腕をぎゅっと握りしめる。もうそんなに経っていたのか。庭で倒れたあの日から、俺の中では時が止まっている。リゼは無事でいるだろうか? それだけが気がかりだ。
ネルンは抱えていた桶をベッドの端に置くと、中のタオルを取り出してきつく絞る。俺は表情を曇らせたままネルンに視線を戻した。
『その間のお世話は、わたしが担当しておりました。さぁ、ダレス様。お体を拭く時間です』
「ちょっと待ってくれ。自分でやるから」
服を脱がそうとしてくるネルンをなんとかなだめる。受け取ったタオルからは、ほんのり白い湯気が立っていた。
「ありがとうな」
『礼には及びません、これもメイドの務めです』
「それもなんだけど……」
含みを持たせた声色に、ネルンは困惑したように首を傾ける。
「俺が門を壊して屋敷に入ろうとした時、ネルンは止めようとしてくれただろ? たぶんあれは、ナターシャの指示じゃない」
強引に敷地内へと入った俺は、戦闘中にネルンから背後を襲われ敗北した。ナターシャの罠にまんまと嵌められたわけだが、それなら俺を止めようとしたネルンの言動に矛盾が生じる。きっとネルンは俺のことを……
『そ、そのような事を言った記憶は、ございません』
わざとらしくネルンは目線をそらす。ナターシャに聞かれたら都合の悪いこともあるだろう。
「そうか」
これ以上俺は何も言わず、笑顔だけを返した。
「失礼します」
慌ただしいノックの直後、勢いよく扉が開く。
「あっ! お兄ちゃん、やっと起きた!」
眩い笑顔のリゼが、サリーの手を引いて走ってくる。ネルンは腕を組んで『マナーがなっていませんよ』と言うが、その声はネクロマンサーの俺にしか届いていない。そんなことはお構いなしに、リゼとサリーは助走をつけたまま俺の胸に飛び込んできた。
「痛い…… けど、幸せだ……」
「あっ、ごめんねお兄ちゃん。まだ旅で怪我したのが治ってないの?」
リゼは心配そうに俺の顔を覗き込んだ。二人の黒のスカートが、ベッドの上で重なり合っている。
俺が眠っていたのは、冒険者の仕事が原因ってことになっているのか。でも、そんなことより。
「リゼ…… 良かった、元気にしてたか?」
俺はリゼとサリーを抱き寄せる。三人が乗ったベッドは少し悲鳴を上げながらも、俺たちを優しく受け止めてくれた。
「サリーも変わらず……」
言いかけて指先に違和感が走った。触れたサリーの感触はいつものものだ。だが微かに、歪な魔力の残留を感じる。俺がしばらく寝ていた間、魔力の供給が上手くいってなかったのか?
感情の無い二つの瞳をじっと覗き込むと、サリーは不思議そうに首を横に傾ける。
「元気にしてたよ! メイドのみなさんはお喋りできないけど、とっても優しいし、ご飯は美味しいし…… って、お兄ちゃん泣いてるの」
「えっ…… あぁ、久しぶりにリゼの顔が見れたからかな」
無意識に押し出されていた涙を、俺は手の甲でぬぐった。そうだ、今はリゼの無事を、家族で一緒にいられる幸せを喜ぼう。いつでも会えるなんて保証は、もうどこにもないのだから。
「もう。お兄ちゃん、本当にわたしたちのこと好きなんだから」
呆れたように言いながらも、リゼは嬉しそうに俺の胸の中で笑った。花のように可憐な姿に、押さえ込んだはずの涙が溢れ出して、リゼの額にポツリと落ちる。
そのまま輪郭をなぞるはずの線は、頬に刻まれた傷跡によって強引に曲げられた。
俺は改めて思い知る。この光景は俺が勝ち取ったものではない。ナターシャが描いた道筋を、ただ辿っているだけに過ぎないのだ。
「大好きに決まってるだろ」
「ちょっと、お兄ちゃん! もう子どもじゃないんだから」
俺は二人の妹の頭をなでまわす。幸せを噛み締めながらも心の底ではわかっているのだ。
俺は一生、ナターシャに逆らうことはできないと。




