20話 ネルンの頼み
真新しいタイルが張られた浴室。小さな窓から入り込む西日が、味気ない空間にオレンジと影のコントラストを作り出している。
そして正面の壁に取り付けられた、いかにも高級そうな魔道具。足下から筒状に伸びた管が、天井付近で口を開けて頭を垂れている。
浴室に置いてある以上、ここから水が出るのは間違いないだろう。ただ―― どうやって使うのかが全くわからない。
俺は生まれたままの姿で、魔物のような道具を前にけっこうな時間頭をかかえていた。
「ここの赤と青のパネルを使うんだろうけどな……」
悩みすぎて考えていることが表に出る。とりあえず触ってみないと何も起こらないのは分かるんだが、変に動かして壊してもいけないしな…… 高級品の操作を貧乏人に任せないでほしい。
『赤いパネルを押しながら後方に回してください』
「おおっ……!?」
突然脳に響いた穏やかな声に、思わず変な声が漏れる。
「この声はネルンだな。ありがとう、どうやって使えばいいか分からなくて困ってたんだ」
言われた通りパネルを操作すると、頭を食べられそうなほど口を大きく開けた管から水、ではなくお湯が流れてきた。
俺はまた「おおっ……!?」っと情けない声を漏らしてしまう。すこぶるちょうどいい温度。
金持ちはこんな物を毎日使っているのか。貧民街じゃあ、たまに水で体を洗うぐらいだぞ、羨ましい。
「それにしても、俺が困ってるってよく分かったな。しかも的確に指示してくれて、どこからか見てるのかと思ったぞ」
『はい、後ろから見てましたので』
えっ……? 髪を洗う手を止め振り返る。
開け放たれた浴室の扉、その前で立っているのは白いタオルを丁寧に体に巻いたネルンだった。
「いやいや、ちょっと待って、何で中にいるの! 何でそんなかっこしてるの!」
ぴっちりと巻かれたタオルが、体のラインをこれでもかと強調している。
華奢な体型の割に出るとこはしっかり出ているし、下半身なんて、スカートから覗かせていた部分よりさらに際どいところまで。
立ち込め始めた湯気ではっきりと見えるわけではないが…… じゃなくて!
『ナターシャ様から、ダレス様のお世話を承っております。メイドとして、大切なお客様のお背中をお流しするのは、当然の務めかと』
「お、お、おう……」
真摯な対応には感謝しかないんだが、今の俺には刺激が強すぎる。
「気持ちはありがたいんだけど、自分の体は自分で洗うし出ていってくれないか」
『そんな……!? ナターシャ様から絶賛された、私の背中流しを受けてはくれないのですか』
「やっぱあいつの趣味か…… 俺なんかには勿体ないし遠慮しておくよ」
『……では、せめて前だけでも』
「だめに決まってるだろ!」
それでも食い下がるネルンであったが、「次の機会までに、さらに腕を磨いておいてくれ」と、ふわっとした約束を取り付けることで渋々浴室から出ていったのであった。
俺は妙に高ぶった気持ちを抑えるように、足下の石鹸を握りしめる。
『ダレス様』
「本当にもう大丈夫だから」
『いえ、そうではなくて……』
冗談ぽく返したのだが、頭で反響するネルンの声には、どこか思い詰めているような含みがあって。
『先程、ナターシャ様に尋ねていたことなのですが』
この屋敷に来て開口一番。俺は、出迎えてくれたメイドたちの真意をナターシャに問い詰めた。
ナターシャの私利私欲のために、彼女たちを殺め操っているのではないかということを。
答えは少しうやむやにはなったが、メイドたちがナターシャに恨みを持っていないことを確認することはできたのだ。
しかし、ネルンの言動の意図が見えず、俺は身構えてしまう。
『本当に私たちは、ナターシャ様のことを恨んだりはしていません。むしろ感謝しているぐらいです』
「えっ……」
予想外の発言に面食らう。
『確かに、ナターシャ様の力であれば、どんな人間であろうと意のままに操り従えることができます。けれど、ナターシャ様はそこまで人の心を無くしてはおりません』
感情の失った目をした少女から、感情的な言葉が頭の中に流れ込む。タイルに打ち付ける水の音が、意識から遠ざかっていく。
『私はこの街で生まれ、十五歳までは優しい両親と、たくさんの兄弟に囲まれ暮らしていました。ですが――』
少しの沈黙の後、振り絞るようにネルンは言葉を続ける。
『私は病にかかり、体の自由を奪われました。「もう二度と歩けない」とお医者様から言われたとき、その言葉よりも、一緒に話を聞いていた家族の表情に私は絶望しました。全てを諦め、見放すような目に……』
「そんな……」
『動けない子供など、この貧しい国では生かす理由がありません。私を愛してくれていた両親、兄弟もその考えは同じでした。病床に伏せ、お腹を空かせた私の隣で、数個しかないパンを家族で分け合うのです。「私にも分けてほしい」なんて言えません、「生きたい」と思うことなんて傲慢でしかない。ただ、私の心の叫びをナターシャ様だけが聞いてくれた……』
胸が締め付けられるようなネルンの回想に、俺は何も返せなくなる。
『錆びついた窓を開け、私に語りかけるのです。「あなたを見捨てはしない。こっちにおいで」と、「一緒に生きよう」と』
ネルンの語るナターシャは、俺の知っている姿と随分かけ離れたものだった。彼女は自分の為だけに生きているような、自分が常に世界の中心だと考えていそうな人間だと、俺は思っていた。
ここ数日時間を共にしたことで、なんとなくナターシャという女を理解した気になっていたが、どうやら俺はまだ彼女の表面的な部分しか見えていなかったらしい。
『他のメイドたちも、私と似たような境遇でここに住まわせてもらっています。だから私たちは、ナターシャ様から受けた恩をお返ししたい。 ……ですが私たちにはそれが出来ないのです。ナターシャ様の望みを叶えられない。叶えられるのは……』
意識の中に舞い上がってきたのは、荒野で聞いた俺とナターシャを結びつけた彼女の願い。
『ダレス様だけなんです』
デザートウルフの群れを退け、俺を協力者と認めたナターシャの望み。最強のネクロマンサーであり、ナターシャの師匠。レスティー・アグナリアを復活させること。
『私たちからもお願いします。ナターシャ様の願いを叶えてあげてください』
ネルンの優しい言葉が頭の中で波紋のように広がり、胸の内まで響き渡る。
俺だってナターシャには助けてもらっている。今だってそうだ。受けた恩は返したい。
それに、かわいい女の子にここまで言われて何もしないなんて、妹たちに嫌われてしまう。
俺はパネルを回し、流れ出るお湯を止めて口を開く。
「任せてくれ」




