18話 一人はみんなのために
「マリエラ先生、すみませんでした」
「構わないわよ」
恥ずかしげもなく感情をマリエラ先生に吐き出したことで、心がすっと軽くなった。
俺は両手で自分の頬を叩き、気持ちを切り替える。
「じゃあサリーに薬を」
ポケットにしまった小瓶を取り出す。机の上に置かれたランタンの火は、油が少なくなったからか弱くなっていた。
「一度、薬を見せてもらってもいい?」
マリエラ先生は、柔らかい表情のまま俺に手を差し出す。
一瞬戸惑ってしまったが、先生がレーゲの病について調べてくれていたことを思い出し、俺は薬を渡した。
マリエラ先生は顎に指を当て、考え込むように瓶の中身を覗く。時折中身を揺らすと、黄金色の液体は薄暗い部屋の中でも眩い輝きを放った。
「凄い魔力……」
眉尻を垂らして、ぼそっと漏らすようにマリエラ先生は言う。
「何か問題でもあるんですか?」
「そうじゃないんだけど……」
含みを持った発言に、俺は思わず首を傾げる。
「薬が強すぎるのよ。今のサリーの体調じゃ、一気に飲むと体が持たないわ。時間をかけて少しずつ飲ませてあげないと」
「だったら俺がこのまま付き添います」
俺は身を乗り出したものの、マリエラ先生は首を横に振った。
「あなたはもう家に帰って休みなさい。気づいてないだろうけどひどい顔してる。私がやるわ」
「でも……」
食い下がる俺の額に、マリエラ先生は軽く指を押し当てる。
「無理しないの、あなたまで倒れたらサリーとリゼが悲しむわ」
俺は、気持ちよさそうにベッドで眠っている二人を見やる。
薬はもうここにあるんだ。マリエラ先生には申し訳ないけど、もう少し頼らせてもらおう。
俺は軽く息を吐いて、気持ちを落ち着かせた。
「わかりました。マリエラ先生、二人をよろしくお願いします」
「――ええ、任せておいて」
「……」
何かが胸に引っかかった。
力強い言葉とは裏腹に、一瞬だけマリエラ先生の目が揺らいだような気がした。
「……お願いします」
よぎった違和感を、俺は頭の片隅にしまい込む。
マリエラ先生は思い出したように笑顔を作り、ひらひらと手を振った。荒れていた手の平は、朝見たときよりも痛々しくなっていた。
妹たちと一時の別れを惜しむ気持ちもあったが、また寝ているところを起こすわけにもいかない。
最後にマリエラ先生に一礼すると、俺は足早に孤児院を後にした。
夜空を埋めるように星が広がっている。
一粒一粒の輝きが、この世界は美しいと俺に訴えかけているようで。今日だけは、貧民街に響く飲んだくれの罵声に嫌悪感を抱くことはなかった。
俺はやり遂げたのだ。巡り合わせもあるが、自分の力でサリーを救った。その事実がとても誇らしかった。
高ぶる気持ちを発散するように駆け出すと、使い古した靴はご機嫌に音を鳴らす。家までの帰り道。疲れているはずなのに、妙に足が軽い。
そういえば、ナターシャが明日迎えに来るって言ってたか。あいつに協力すると約束したが、明日だけは勘弁してほしいものだ。
足が地面に触れる度、ポケットの中の銀貨が暴れ出してチャリチャリと景気の良い音を立てる。俺は慌てて上から押さえつけた。
明日はナターシャに頼んで、家族三人の時間を作らせてもらおう。市場でサンドイッチを買って、広場で食事。サリーとリゼの分にはハムとチーズもつけよう。食後は焼き菓子と…… 搾りたてのフルーツジュースがいい、もちろん砂糖は多めだ。
想像するだけで自分の頬が緩んでいくのが分かる。
明日はきっといい日になるだろう――
◇◇
翌朝。俺はまだ眠りたいと訴える体に鞭を打ち、孤児院を目指した。
だが、黒い大きな建物が見えてくるにつれ、急ぐ脚を緩める。
気味が悪い程に静かだった孤児院から、なぜか子どもたちの騒ぐ声が聞こえるのだ。
決して悪いことではないのだが、たった一日での大きな変化に戸惑う自分がいる。
さらに足を進めると、玄関の前に大きな荷馬車が停まっていた。孤児院の先生たちが荷台から木箱を受け取り、忙しそうに駆け回っている。
「あらダレス、久しぶりね」
「お久しぶりです…… これ、どうしたんですか?」
「マリエラ先生が、食料と日用品、簡単な医薬品まで工面してくれたの」
短い黒髪の先生が、木箱を抱えて嬉しそうに言う。
荷台を覗き込むと、中には様々な大きさの木箱がぎっしりと詰まっていた。
「ほんとあの人は凄いわ。ダレスはサリーとリゼに会いに来たんでしょ。はい、これついでに持っていって」
「えっ…… はい」
流されるように木箱を受け取る。ずっしりとした重さに土の匂い、どうやら箱の中身は野菜のようだ。
「とりあえず一階の広間に置いといて」
「わかりました」
俺の返事を聞き終える前に、もう先生は荷馬車から次の木箱を受け取ろうとしていた。
孤児院の中に入ると、熱したミルクと香辛料の優しい香りが俺の鼻孔をくすぐった。
食欲を誘う匂いが漂う中、きれいに並んだ木箱の列に抱えたものを加える。この量だと床が抜けないか心配だな。
俺は腰を伸ばして辺りを見渡すが、サリーとリゼの姿はどこにもない。
「シチュー作ってるんだって」「いい匂い、私たちも行こうよ」
無邪気にはしゃぐ子どもたちは、厨房へと向かっていく。追いかけるように目を向けると、まるで雛鳥が親からの餌を待つように、小さな子どもたちが厨房の中を覗いていた。
孤児院は温かい空気で包まれている。まるで昨日見た景色が夢であったかのように。
騒がしい広間を抜け、俺は寝室のある二階へと続く階段を上る。
一階とは比べ物にならないほど二階は静かで。歩く度に軋む床の音と、誰かが泣く声がそのまま耳に入った。
扉を開けると、抱えていた違和感が何の加減をすることもなく姿を現す。
嗚咽を漏らすリゼ、その隣ですすり泣くマリエラ先生。
そして――
胸の前で両手を組み、静かに、静かに眠るサリーがいた。




