第3話 翼が折れたら
紗季には、一緒に暮らしている人がいる。
そのことを、修一は知っていた。
会っていない時には、忘れて過ごせる日もある。
ふいに思い出して、胸の奥が重くなる夜もあった。
自分の方が、深く思っている。
そんなことを考えたこともある。
けれど、その人が、紗季の何を知り、どんな時に隣にいるのか、修一はほとんど知らなかった。
知らないまま、比べていた。
それくらいは、自分でも分かっていた。
先日、二人でビアホールへ行った。
図書館で話したあと、まだ少し時間があった。
高いところから落ちてくる柔らかな光の下で、紗季はグラスを置いた。
話は、修一のことから紗季のことへ移った。
今、していること。
これから、してみたいこと。
修一の知らなかった考えが、彼女の口から出てきた。
会わない間にも、この人は、自分の時間を生きていた。
当たり前のことなのに、会うたび、少し驚く。
修一は頷き、続きを聞いた。
「翼が折れたら、戻っておいで」
言ってから、自分の言葉を聞いた。
少し大きなことを言ったと思った。
紗季は修一を見て、はにかんだ。
「うん」
短い返事だった。
修一も笑った。
そのあとに、言葉を足さなかった。
今、何を受け取ってくれたのか。
自分を、どんな場所だと思っているのか。
確かめようとすれば、いくらでも尋ねられた。
けれど、紗季の返事を、そのまま置いておきたかった。
一人の食卓で思い返すと、あの言葉には、いろいろな気持ちが入っていた。
つらい時には、一人にならないでほしい。
自分のところへ来てほしい。
忘れずにいてほしい。
紗季が傷つくところなど、見たくない。
それでも、帰ってこられる場所でありたいとは思っている。
優しさだけを取り出すことは、できなかった。
修一はグラスを置いた。
翼が折れなくても、会いたい。
何もない日に来て、くだらない話をしてくれる方が、ずっといい。
そんな言葉が、今になって浮かんだ。




